第12話 名前は「ベル」
「……さて」
リーゼロッテは膝をつき、少女と同じ目線まで顔を寄せた。
琥珀色の瞳を柔らかく細め、静かに問いかける。
「お腹はいっぱいになったかしら?」
少女はコクンと、小さく頷いた。
「なら、次は自己紹介ね。私はリーゼロッテ。あっちの口の悪い茶髪の男はカインよ」
「……リー、ゼ……?」
「そう、リーゼでいいわ。――それで、あなたのことは何て呼べばいいかしら?」
リーゼロッテの問いかけに、少女の小さな肩がピクリと強張った。
手にしたサブレの欠片を握りしめ、何かを恐れるように唇を震わせる。
名乗れば、またあの恐ろしい大人たちに連れ戻されるのではないか。
呪われた名前だと、嫌われてしまうのではないか。
魔界の奥底、豪奢な石造りの屋敷で過ごした遠い記憶。
大人たちは、彼女を呼ぶときに決して名前を使わなかった。忌み子、厄災の苗床、出来損ない。
恐怖と躊躇が、少女の紫水晶の瞳の中で激しく揺れ動いていた。
「おい、リーゼ。無理に言わせるなよ」
長机で書類を整理していたカインが、ペンを置いて立ち上がった。
「深層に幽閉されてたようなガキだ。まともに言葉を交わす相手すらいなかったかもしれねえ。名前なんざ、本部に提出する保護申請書には『個体識別番号A-零七』とでも書いておけば済む話だ」
「嫌よ、そんな無機質な記号」
リーゼロッテはあっさりとカインの提案を一蹴した。
「それに、この子はちゃんと自分の言葉を持っているわ。さっき迷宮の中でも、一生懸命声を出してくれたもの」
リーゼロッテはもう一度、膝をついたまま少女の正面へ視線を戻した。
無理やり顔を上げさせるような真似はしない。
ただ、少女が自分から見上げられる位置で、静かに、澄んだ声で語りかける。
「怖いなら、言わなくてもいいわ。でもね、私はあなたを一族の血統や、背負わされた厄災のレッテルで呼ぶつもりはないの。あなた自身を呼ぶための言葉が知りたいだけよ」
飾らない、平熱の言葉。
そこには同情も哀れみも、ましてや恐怖や警戒の色など微塵も混ざっていなかった。
ただ目の前にいる一人の子供と、対等に向き合おうとする真摯な眼差し。
少女の胸の奥で、カチリと何かが外れる音がした。
ずっと、誰にも呼ばれなかった。
けれど、母が生きていたごく幼い頃、一度だけ子守唄の合間に耳元で囁かれた、温かい響きが記憶の底に残っていた。
少女はおずおずと、涙の滲んだ瞳を上げた。
震える唇を何度も開け閉めし、途切れ途切れに、掠れた声を紡ぎ出す。
「……べ……」
「ええ」
「……べ、れ……な……」
消え入りそうな、小さな響き。
けれど、それは間違いなく彼女自身の意志で発せられた、確かな言葉だった。
「……でも、なまえ……ながい、から……。おかあ、さま……『べる』って……」
「ベル」
リーゼロッテは遮ることも疑うこともなく、その名を繰り返した。
口元にふわりと、春の陽だまりのような柔らかな笑みを浮かべる。
「とても可愛い名前じゃない。響きも軽やかで素敵よ」
「……っ!」
ベルの紫水晶の瞳が、驚きで丸く見開かれた。
忌まわしい名前だと拒絶されることもなく、ただ自然に、大切そうに受け止めてもらえた。
それだけのことが、どれほど少女の凍てついた心を救ったか、リーゼロッテには想像もつかないほどだった。
「よろしくね、ベル。私のことはリーゼと呼びなさい」
リーゼロッテはベルの小さな頭へ手を伸ばし、キャスケット帽の上から優しく撫でた。
そして――。
ポンと軽く、ベルの鼻先を指先でつついた。
「さて、名前が分かったところで本題よ」
「……ほん、だい……?」
ベルが小首を傾げる。
リーゼロッテはすっと立ち上がると、腰に手を当てて極めて真面目な顔で言い放った。
「私の本拠地であるアトリエへ帰ったら、あなたには早速、薬草の選別と水やりを手伝ってもらうわ」
「……は?」
後ろで聞いていたカインが、間の抜けた声を漏らした。
だが、リーゼロッテは気に留める風もなく続ける。
「毎朝六時起床。朝食の後は庭の『銀霧草』の根元に溜まった余剰魔力を、あなたの手で吸い出して土壌を整えること。午後は採取した薬草の葉脈を見て、一等品と二等品に分別する作業よ。いいかしら、ベル。『働かざる者食うべからず』。ただ飯食らいは、我がアルステット家の家訓に反するの」
「…………」
ベルは目をパチクリとさせて固まった。
何を言われているのか、半分も理解できていない。
だが、怒られているのではないことだけは確かだった。
そこへ、カインの鋭いツッコミが横から飛んできた。
「おいコラ、リーゼ! お前、正気か!?」
カインは頭を抱え、ベルとリーゼロッテの間に詰め寄った。
「さっきの魔力測定結果を見たろ! そいつは魔界屈指の公家の落胤、歩く戦略級魔導兵器だぞ!? ちょっと魔力が漏れ出せば、街の城壁が丸ごと吹き飛ぶような超高濃度エーテルを体内に飼ってんだ! それを何だ、雑用係!? 薬草の水やりだと!?」
「失礼ね。薬草の水やりと土壌改良は、立派な魔導研究の基礎よ」
リーゼロッテは心外そうに眉をひそめた。
「ベルの魔力は出力が大きすぎる上に放出のブレーキが壊れていたの。植物の根元へ極微量の魔力を均等に流し込ませる訓練をさせれば、精密な魔力制御の練習になるわ。余剰魔力を日常的に消費できれば、体内での魔力暴走も防げて一石二鳥じゃない。これ以上ないくらい合理的だわ」
「合理的って……魔力暴走の治療にガーデニングを処方するやつがあるか!」
「現に、さっきからベルの角から炎は一切吹き出していないでしょう?」
「ぐっ……」
言われて、カインは言葉に詰まった。
確かに、リーゼロッテに頭を撫でられ、スープを平らげた後のベルからは、あの迷宮で猛威を振るっていた漆黒の炎の気配が完全に消え去っていた。
それどころか、キャスケット帽の下に隠れた角の周りには、安定した魔力の膜が綺麗に循環している。
「……ったく。お前のその、常識を粉々にしてから都合よく組み直す手腕、監察官として胃が痛くてたまらねえよ」
カインは観念したように息を吐き出し、査察手帳をパチンと叩いた。
「いいか、ベル。……さっきも言ったが、俺はギルドの監察官だ。お前がリーゼの言うことを聞かずに暴れたり、人間を襲ったりしたら、俺が規則に従ってお前をギルドの地下牢に放り込む。分かったな?」
カインはわざと眉間に皺を寄せ、怖そうに睨みつけてみせた。
しかし、ベルはその言葉に怯えるどころか、紫水晶の瞳をじっと見つめ返した。
この男の口調がどれほど厳しくても、その奥に悪意など欠片もないことを、子供の本能で察していたからだ。
「……うん。おじさん」
「だからおじさん言うな! カインだ、カイン! せめてお兄さんと呼べ!」
「ふふっ、諦めなさいカイン。子供の目は誤魔化せないわ」
「うるせえ! ほら、さっさと帰る準備しろ! 国境行きの高速馬車を手配してあるんだからな!」
カインは真っ赤になった顔を背け、乱暴に部屋の扉を開けて出ていった。
その背中を見送りながら、リーゼロッテはクスリと笑い、ベルに向き直った。
「カインはああ見えて、とても面倒見のいい人よ。困ったことがあれば、遠慮なくあのおじさんをこき使いなさいね」
「うん……! りーぜ!」
ベルが嬉しそうに頷き、麻のブラウスの裾を小さな手でぎゅっと握りしめてきた。
まだ手足は痩せ細り、身に纏っている貫頭衣はボロボロのままだ。
だが、その瞳に宿る光は、暗闇の底で震えていた頃とは見違えるほど力強く、輝いていた。
「さて、行きましょうか。私たちの家へ」
リーゼロッテはベルの手をしっかりと握り、部屋を後にした。
未踏迷宮のアタックを終え、目的の秘宝と、小さく愛らしい家族を手に入れた一行。
彼女たちの乗る馬車は、再び国境を越え、王国の別邸アトリエへと向けて走り出すのだった。




