第13話 別邸への帰還とセバスチャンの歓喜
国境を越え、慣れ親しんだ王国の王都郊外へ戻ってきた頃には、すでに夕暮れ時を迎えていた。
深い原生林の木々を抜けた先に広がる、白亜の瀟洒な洋館。
リーゼロッテの研究拠点であり、至高の城である別邸アトリエだ。
庭の薬草園からは、夕露に濡れた『銀霧草』の清涼な香りがふわりと風に乗って漂ってくる。
馬車が敷地の正面玄関前に滑り込み、車輪の回転を止めた。
「着いたわよ、ベル。ここが今日からあなたの家よ」
「……おうち……?」
馬車のステップを降りたベルが、麻のキャスケット帽のつばを両手でそっと押さえながら、恐る恐る屋敷を見上げた。
夕日に照らされた美しい白壁、手入れの行き届いたふかふかの芝生、そして窓から漏れる温かなオレンジ色の明かり。
地下九十層の冷たく湿った石牢とは、あまりにもかけ離れた温もりのある光景に、紫水晶の瞳がパチパチと瞬く。
その時だった。
バァァァンッッ!!
屋敷の重厚な玄関扉が、まるで破城槌でもぶち込まれたかのような勢いで左右に跳ね上がった。
「お、お嬢様ぁぁぁぁぁぁーーーッッ!!」
風を切り裂いて突進してきたのは、銀髪を撫で付け、上等な燕尾服を着こなした老紳士――筆頭執事のセバスチャンだった。
背筋を伸ばした普段の優雅さは見る影もなく、まるで獲物を見つけた猛獣のような速度で石畳の通路を疾走してくる。
「ご無事で! ご無事で何よりでございますお嬢様! 隣国の未踏迷宮などという危険極まりない地へ赴かれたと聞き、このセバスチャン、生きた心地がいたしませんでしたぞ!」
「ただいま、セバスチャン。相変わらず足腰が元気そうで何よりだわ」
リーゼロッテは苦笑しながら、手袋を外して軽く手を挙げた。
しかし、老執事の鋭い視線は、リーゼロッテの無事を確認した直後、彼女の足元へとピタリと吸い寄せられた。
リーゼロッテの麻のワークパンツの裾を、小さな手でぎゅっと握りしめている影。
ボロボロの貫頭衣を身に纏い、大きすぎるキャスケット帽を目深に被った、銀灰色のくせ毛の幼女。
「……っ!?」
ベルがヒッと短い息を呑み、慌ててリーゼロッテの背中へと隠れた。
セバスチャンはその場でピタリと静止し、カッと目を見開いた。
「お、お嬢様……? そ、その……足元の愛らしい小さなお方は、一体……?」
「ああ、紹介するわ。ベルよ。隣国の迷宮でちょっと拾ったの」
「ひ、拾っ……!? め、迷宮で……お子様を……!?」
セバスチャンは口をパクパクと金魚のように開閉させ、額に青筋を浮かべてその場に膝をついた。
白目を剥きかけ、胸元を押さえてワナワナと震える。
「あ、あああ……なんということでしょう……! お嬢様が……殿下と婚約破棄されたショックのあまり、他国の迷宮から見ず知らずのお子様を拐かしてこられるなど……! 公爵家への当てつけにしてはスケールが大きすぎますぞ……!」
「誰が誘拐犯よ。人聞きが悪いわね」
リーゼロッテが呆れたように眉をひそめた、その時。
「おい、ジジイ。早とちりして倒れてんじゃねえよ」
馬車の荷台から木箱を担ぎ下ろしながら、カインが面倒くさそうに口を挟んできた。
懐から真鍮の留め金がついた黒革の査察手帳を抜き、セバスチャンの鼻先へペラリと見せつける。
「ギルド中央本部特命査察令、並びに国際ギルド緊急規約第十二条に基づき、迷宮深層にて保護された要観察個体の『暫定後見委託』だ。俺の監察官権限で、このアトリエを正式な経過観察施設として指定した。身元照会もギルドの審査を通してる正規の手続きだぞ」
「……ギルドの、公認保護……?」
セバスチャンは瞬時に呼吸を整え、スチャッと完璧な直立不動の姿勢へと戻った。
懐から取り出した懐中眼鏡を鼻梁にかけ、手帳の印章を瞬時に検分する。
「ふむ……なるほど。冒険者ギルド中央本部の刻印に、隣国支部の受理サイン……。法的な瑕疵は一切ございませんな」
「切り替えが早いわね、セバスチャン」
「当然でございます、お嬢様」
セバスチャンは胸を張り、誇らしげに髭を撫でた。
そして、リーゼロッテの背後に隠れているベルの前へと静かに歩み寄り、燕尾服の裾を乱さずにスッと片膝をついた。
「初めまして、ベル様。我がアルステット公爵家別邸の筆頭執事、セバスチャンと申します」
低く、穏やかで、極めて洗練された礼儀正しい声。
ベルはキャスケット帽の陰から、紫水晶の瞳を恐る恐る覗かせた。
「……せ、ばす……?」
「左様でございます。セバスとお呼びいただいても構いませんよ」
セバスチャンは目を細め、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
ベルの痩せ細った手足、泥と煤で汚れた粗末な布切れの服、そして何より――帽子の奥で小さく強張っている二本の角の感触を、長年公爵家に仕えてきた老執事は一瞬で見抜いていた。
だが、老執事の瞳には、嫌悪や蔑視の色などただの塵芥ほども浮かばなかった。
あるのは、心痛と、それを上回るプロの矜持だけだった。
「まあまあ……このような薄汚れた襤褸布を身に纏われて。お肌も荒れて、髪も埃まみれではございませんか」
セバスチャンは立ち上がり、大げさに両手を広げて天を仰いだ。
「許せません! 我がアルステット家の庇護下に入られた尊きご令嬢に、このような無礼な装いをさせ続けるなど、執事の風上にも置けぬ恥辱! お嬢様、直ちに侍女たちにお湯を沸かさせます! 最高級の薬草湯で旅の疲れを落としていただき、王都の一流仕立て屋に至急の特注服を手配させましょう!」
「あら、頼もしいわね。とりあえず今晩着る服はあるかしら?」
「ご安心を! お嬢様が七歳の頃にお召しになっていた上質な寝着やワンピースが、防虫魔法の保存箱に完璧な状態で保管されております! 少々丈を詰めれば、ベル様にぴったりでございましょう!」
「……セバスチャン、私の昔の服、まだ取ってあったの?」
「公爵家の大切な歴史でございますからな!」
セバスチャンの熱狂的なテンションに、カインが横で盛大に顔をしかめた。
「……おいリーゼ。お前のとこの執事、やっぱりどこかネジがぶっ飛んでるぞ」
「失礼ね。仕事熱心で優秀な執事よ」
ベルは目を丸くして、目まぐるしく動く大人たちのやり取りを見つめていた。
恐ろしい大人たちから怒鳴られることも、地下牢に放り込まれることもない。
むしろ、まるで大切なお客人のように迎え入れられている。
「ベル様、屋敷の中へどうぞ。侍女たちにふかふかのタオルと最高のお風呂を用意させております。湯上がりには、たっぷりの蜂蜜をかけた焼きたての林檎パイをお持ちいたしますよ」
セバスチャンが優雅に手を差し伸べる。
ベルはおずおずとリーゼロッテを見上げた。
リーゼロッテが優しく頷くと、ベルは小さな手を、老執事の大きな手のひらへとそっと重ねた。
「……うん。せばす、おじさん」
「お、おじさん……! なんと愛らしいお声……! 執事冥利に尽きますぞ!」
セバスチャンは感涙にむせびながら、ベルを優しくエスコートして屋敷の中へと案内していった。
玄関ホールでは、すでに待機していた数名の侍女たちがベルを温かく迎え入れ、脱衣所へと連れていく。
「……はぁ。どいつもこいつも、子供に『おじさん』って呼ばれて狂いすぎだろ」
荷物を玄関ホールに運び込んだカインが、心底疲れたように息を吐き出した。
「さて、リーゼ。俺はギルド本部に戻って、今回の遠征報告書とベルの経過観察申請書の清書だ。明日には査察手当の受領と、隣国との事後処理手続きを片付けてこなきゃならねえ」
「ご苦労様、カイン。明日のお茶の時間には戻ってこられるかしら?」
「公務員をアトリエの常駐スタッフ扱いすんな。……まあ、要監視対象の定期査察って名目で、夕方には顔を出してやるよ。変な薬草をガキに食わせるなよ?」
「失礼ね。栄養バランスには人一倍気を使っているわ」
カインは肩を竦めると、夜の帳が下り始めた街道へと足早に戻っていった。
静かになった玄関ホールで、リーゼロッテは伸びをした。
二階からは、侍女たちがお湯を流す心地よい水音と、ベルの楽しそうなくしゃみの声。そして浴室の外でそわそわと林檎パイの焼き加減を侍女頭に指示している、セバスチャンの弾んだ声が微かに聞こえてくる。
「ふぅ……。やっぱり、我が家が一番ね」
リーゼロッテは満足そうに微笑み、採取してきた『万能霊樹の雫』を収めた木箱を抱えて、アトリエの実験室へと歩みを進めた。
彼女たちの穏やかで温かい新生活が、今まさに始まろうとしていた。
だが――。
その別邸からわずか数キロしか離れていない王国の中心部では、すでに修復不可能な『巨大な綻び』が、凄まじい勢いで広がり始めていたのだった。




