第14話 【本国崩壊①】王都大結界の出力低下
王都の外壁に沿って広がる平民街と工房街。
普段ならば露店が立ち並び、職人たちの槌音が響き渡るはずのその一角は、怒号と悲鳴が飛び交う混乱の坩堝と化していた。
「おい! 空を見ろ! 結界の光が消えちまったぞ!」
「魔獣除けの障壁はどうなったんだ!? この区画は見捨てられたのか!?」
石造りの外壁の頭上。
かつて都市全体を優しく包み込んでいた淡い青色の光膜が、まるでナイフで切り裂かれたかのように後退していた。
王都を守るはずの『大結界』が急速に収縮し、防衛線が内側の貴族街と王宮周辺だけに絞り込まれてしまったのだ。
城壁の上では、銀の甲冑を纏った騎士たちが血相を変えて走り回っていた。
「隊長! 北東の森から低級魔獣の群れが街道へ侵入! 結界が途切れた外縁部の集落へ向かっております!」
「外周門の防衛ライン、人員が足りません! 迎撃の魔導支援はまだ来ないのですか!?」
飛び交う報告を受け止めながら、近衛騎士団・第3大隊長のガレス・アイアンサイドは、城壁の手すりを乱暴に殴りつけた。
「クソッ……! 魔導院の連中は何をやっているんだ! 連絡をよこせと言ってから、すでに半刻が過ぎているぞ!」
歴戦の叩き上げであるガレスの額には、脂汗が滲んでいた。
結界が縮小したことで、平民街の住民数万人が魔獣の脅威に晒されている。騎士団を総動員して迎撃にあたらせているが、広大な外縁部をすべて生身の兵士でカバーするなど物理的に不可能だった。
そこへ、城壁の階段を駆け上がってくる足音が響いた。
豪奢な金糸のローブを身に纏い、息を切らせて現れたのは、新任魔導院長バルタザール伯爵の息のかかった上級宮廷魔導士だった。
「ガレス隊長! 魔導院長閣下より、緊急の通達でございます!」
「おお、来たか! で、結界の再展開はいつになる!? 外周の魔力供給を早く戻せ!」
ガレスが詰め寄ると、宮廷魔導士は気まずそうに視線を逸らし、羊皮紙の命令書を差し出した。
「そ、それが……炉心の負荷を抑えるため、大結界の防衛エリアを『中央貴族特区および王宮』に限定するとの決定が下されました」
「……あ?」
ガレスの喉から、低く濁った声が漏れた。
「限定する……? じゃあ、この外壁の外にいる平民街や工房街はどうするんだ」
「げ、現場の騎士団において、物理的な防壁と肉弾戦により遅滞戦闘を行えと……。国家の至宝たる貴族の方々と王宮をお守りすることが最優先でございますので。それに下層の平民など、いくらでも代わりは利きますから」
「ふざけるなッッ!!」
ドガァンッ! とガレスの太い鉄拳が、宮廷魔導士の鼻先数センチの石壁を粉砕した。
飛び散る石粉。宮廷魔導士は情けない悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
「現場の兵士を盾にして、民を見捨てて自分たちだけ殻に閉じこもるだと!? 貴族の命と平民の命で、守るべき重さが違うとでも言うのかッ!」
「ひ、ヒィッ……! わ、私に怒鳴られても困ります! バルタザール閣下がそう決断されたのです! そもそも、前任のリーゼロッテ令嬢が残していった魔導回路に欠陥があったのが原因で――」
「まだその少女に責任を擦り付ける気か、無能どもがッ!」
ガレスの怒声が、城壁の上に吹き荒れる風を切り裂いた。
現場の兵士たちは皆、知っている。
かつてリーゼロッテが王宮にいた頃、王都がどれほど平和で安全だったかを。
彼女は早朝から作業着姿で現場を回り、騎士団の詰め所にも足を運んでいた。
『ガレス隊長、外縁部の結界の出力、風向きに合わせて少し強めておいたわ。これで今晩は魔獣の夜襲を気にせず、部下の方たちを休ませられるはずよ』
そう言って、泥に汚れた手袋のまま、自作の疲労回復ポーションを差し入れてくれたあの少女。
結界の維持だけでなく、彼女は近郊の魔獣の増減すらも把握し、危険な個体を誰にも知られずに間引いてくれていたのだ。
彼女がたった一人で背負っていた膨大な防衛管理の仕事を、貴族の肩書だけで奪い取った連中が、わずか数週間で破綻させたのだ。
「隊長……! これ以上は持ちません! 魔獣の第一波がバリケードを突破します!」
叫ぶ部下の声に、ガレスはギリッと奥歯を噛み締めた。
「総員、抜刀! 民を背に一歩も引くな! ……リーゼロッテ様、どうか……どうかご無事で戻られてくれ……!」
祈るような指揮官の叫びと共に、血で血を洗う泥沼の防衛戦が幕を開けた。
***
王都が悲鳴と硝煙に包まれていた、まさにその時刻。
郊外に佇む白亜の別邸アトリエには、どこまでも穏やかで優しい陽光が降り注いでいた。
「はい、ベル。まずは深く息を吸って」
「すぅー……」
「余分な魔力を指先へ集めて、土の奥深くへ逃がすイメージよ。――『アース・ドレイン』」
リーゼロッテの穏やかな声に合わせて、庭の芝生にしゃがみ込んだ少女――ベルが、小さな両手を薬草畑の黒土へと押し当てた。
上等な麻のキャスケット帽の奥で、紫水晶の瞳が真剣に輝いている。
幼い掌から、チリチリと微細な黒い火花が放たれ、土壌の中へとスーッと吸い込まれていく。
破壊の権能を秘めた黒炎の魔力が、リーゼロッテの精密な調律指導によって、ただの「高濃度の滋養熱」へと変換されて大地を満たしていく。
その瞬間、周囲に植えられていた『銀霧草』の双葉が、嬉しそうに葉をピンと伸ばし、朝露をキラキラと輝かせた。
「……できた……?」
ベルが不安そうに、恐る恐る見上げてくる。
「ええ、完璧よ。土壌の魔力循環が整って、薬草たちも喜んでいるわ」
リーゼロッテが屈託のない笑顔で、ベルの頭をぽんぽんと撫でた。
キャスケット帽の上からの柔らかな温もりに、ベルの口元がふにゃりと緩む。
「えへへ……りーぜ、ほめてくれた……」
「ふふっ。午前中の作業はこれでおしまいよ。お部屋に戻って、セバスチャンの焼いてくれたスコーンでお茶にしましょうか」
「うんっ!」
満面の笑みで立ち上がり、リーゼロッテの手をぎゅっと握りしめるベル。
王都の防衛線が崩壊し、現場の騎士たちが悲鳴を上げていることなど、彼女たちには何の関係もない。
有能な者を追い出し、自らの保身のために現場を切り捨てた王宮が、その報いを受け始めているだけのこと。
自由を手に入れた悪役令嬢のアトリエには、今日も穏やかで、極上に贅沢な時間が流れているのだった。




