第15話 査察官の定期巡回という名の日常
柔らかな木漏れ日が差し込む別邸アトリエの裏庭。
そこには、王宮の貴族が見れば卒倒し、ギルドの職員が見れば目を白黒させるであろう光景が広がっていた。
「よい……しょっ!」
スパーンッ! と、耳触りのいい快音が裏庭に響き渡る。
大きな切り株の上に置かれていた太い樫の薪が、寸分の狂いもなく真っ二つに割れ、左右へと綺麗に転がり落ちた。
それを成し遂げたのは、木こりが使うような重い斧ではない。
ベルの小さな両手に握られた、彼女の背丈ほどもある『ミスリル製の包丁(特大サイズ)』だった。
「……できた! りーぜ、きれいにわれた!」
麻のキャスケット帽を目深に被ったベルが、紫水晶の瞳をキラキラと輝かせながら振り返った。
銀灰色のくせ毛には少しだけ木屑がついている。刃を振り下ろした瞬間、特大包丁の表面にチリッと黒い火花が這ったが、それは対象を焼き尽くすことなく、ただの運動エネルギーとして木目に吸い込まれていった。
かつて迷宮深層で周囲を焼き尽くしていたあの凶悪な黒炎は、今や完全に彼女の制御下にある。
「ええ、素晴らしいわ、ベル。刃先へ流す魔力を最小限に抑えて、薪の繊維の隙間に『振動』だけを滑り込ませる感覚、ちゃんと掴めてきたわね」
作業用エプロンを着けたリーゼロッテが、満足そうに頷きながらベルの頭をぽんぽんと撫でた。
ベルはキャスケット帽の上からの柔らかな温もりに、口元をふにゃりと緩ませて満面の笑みを浮かべる。
「えへへ……! べる、りーぜのおてつだい、できてる!」
「ええ、大助かりよ。これで今晩の暖炉と、実験用の窯にくべる薪の確保は完璧ね。……さて、次はあっちの薬草畑の――」
「――おい待てコラァッ!!」
突如として、裏庭の生垣を飛び越えて鋭い怒声が降ってきた。
ドサッと着地したのは、ボサボサの茶髪に眠たげな灰色の瞳をギラつかせた男――ギルド特務監察官のカイン・レドフォードだった。
黒革の外套を羽織り、左耳の通信ピアスを揺らしながら、手にした真鍮留め具の査察手帳を激しくバタつかせる。
「俺は今! ギルド中央本部直属・特務監察令に基づき! 『要警戒指定・暫定保護個体』の生活状況監査にやってきたんだがな!?」
「おはよう、カイン。今日も正面玄関を忘れて生垣から不法侵入ね。セバスチャンに言いつけて門の修理代とお茶代を二倍請求してもらおうかしら」
「生垣はどうでもいいんだよ! それより何だその光景は!?」
カインは頭を抱え、ベルが誇らしげに掲げている特大包丁と、綺麗に割られた薪の山を指差した。
「お前……魔界の名門『冥炎公家』の直系落胤に、何させてんだ!? 歩く戦略級魔導兵器だぞ!? ちょっと魔力が暴走すれば王都の城壁が丸ごと灰になるような特級危険個体に、馬鹿デカい刃物持たせて薪割りさせてるやつがあるか!」
「失礼ね。これは極めて合理的かつ安全な『精密魔力制御トレーニング』よ」
リーゼロッテは澄ました顔で、手袋を外しながら腰に手を当てた。
「ベルの魔力は、出力が大きすぎる上に放出のブレーキが壊れていたの。だから、力任せに叩き割るのではなく、木目の隙間に魔力振動を通して自重で割らせる練習をさせているのよ。無駄な魔力放出を抑えつつ、日常的に微量の魔力を消費させる。これ以上ないくらい健全な生活指導じゃない」
「健全って……薪割りに魔力調律理論を応用すんな! 査察票のチェック項目に『魔族幼女による薪割り作業の適正度』なんて欄はねえんだよ!」
「なら、余白にでも書いておきなさいな。『極めて安全に生活管理されている』って」
「胃が痛ぇ……。お前と関わると、本当に公務員としての寿命が縮むぜ……」
カインは深いため息をつきながら、手帳の通信記録欄を乱暴にペンで叩いた。
「お嬢様、ベル様。そして生垣からのお客様。お茶の準備が整いましたぞ」
そこへ、静かな足音とともにセバスチャンがテラスへ現れた。
銀の三段トレイに載せられているのは、焼き立てのふっくらとしたスコーンと、たっぷりのクロテッドクリーム、そして自家製の木苺ジャムだ。
それを見たベルが、特大包丁をそっと切り株に置き、小走りでテラスへと向かった。
そして、リーゼロッテが淹れたハーブティーの入った陶器のマグカップを両手で持ち、おずおずとカインの前へと差し出す。
「……おじさん、お茶、のむ……?」
ベルの紫水晶の瞳が、少し不安そうにカインを見上げている。
「…………」
カインは一瞬だけ毒気を抜かれたように目を丸くし、それから苦々しそうに眉間を揉んだ。
「……だから、おじさんじゃなくてカインだって言ったろ。……まあいい、貰っとく」
カインはぶっきらぼうにカップを受け取り、一口啜った。
爽やかなメントールの香りと、ほんのりとした甘みが口いっぱいに広がる。
「……ん。温度はちょうどいいな。毒も入ってねえ」
「えへへ……! べるが、はっぱ、えらんだの!」
ベルが嬉しそうに飛び跳ねる。
その無邪気な笑顔を見つめながら、カインはフンと小さく鼻を鳴らした。
かつて迷宮深層で、飢えと激痛に震えながら侵入者を威嚇していたあの化け物の姿は、もうどこにもない。
ただの、家族に褒められたくて一生懸命お手伝いをする、普通の子供の姿だった。
「……チッ。査察記録、要観察個体『ベル』。心身の安定を確認。魔力の暴走兆候なし。……ただし、保護者の教育方針に極めて偏りあり、と」
「最後の余計な一言は消しなさい、カイン」
「監察官の職務に口出しすんな。――それよりリーゼ、王都の噂は聞いてるか?」
カインがカップを片手に、視線を王都の方角へと向けた。
その瞳に、ギルドの特務監察官としての冷徹な光が戻る。
「王都の大結界、出力が半分以下に落ちて外縁の平民街が露出したらしいぞ。新任の魔導院長が、冷却回路にデタラメな代替薬品をぶち込んで配管を焼き切ったのが原因だとか。おまけに王宮の連中、自分たちだけ結界の中にこもって、現場の騎士団を肉壁にして平民を見捨てたらしい」
「あら、そうなの」
リーゼロッテは木製チェアに腰を下ろし、スコーンにたっぷりとクロテッドクリームを塗りながら、優雅に自分のカップへと手を伸ばした。
眉一つ動かさない、完全な平熱の反応。
「引き継ぎ書はちゃんと置いてきたわ。それを無視して自分たちの無能な手腕で壊したのなら、自分たちで直せばいいだけの話よ。平民を見捨てるような愚かな真似をした報いは、遠からず自分たちの首を絞めることになるでしょうね」
「……相変わらずの鉄の心臓だな。まあ、ギルド本部としても、王宮の自業自得に首を突っ込む気はねえよ。正規の救護要請も依頼料も出さずに、現場に丸投げしてるような腐った連中だからな」
カインは呆れたように肩を竦め、手帳をパチンと閉じた。
「明日はギルドの定期報告で一日中本部詰めだ。また明後日、ベルの査察に来てやるよ。……おいベル、リーゼに変な特注大剣とか持たされそうになったら、すぐ俺に言えよ」
「うん! カインおじさん、またね!」
「お兄さんだっての!」
悪態をつきながらも、カインはどこか満足そうに生垣を飛び越えて去っていった。
静かになった庭で、リーゼロッテは空を見上げた。
遠く王都の空には、結界の乱れを示す微かな紫色のノイズが漂っている。
だが、このアトリエを包む空気は、どこまでも澄み渡り、心地よいハーブの香りとスコーンの甘い匂いに満ちていた。
「さて、ベル。お茶を飲み終えたら、夕食のシチューの仕込みを手伝ってくれるかしら?」
「うんっ! べる、いっぱいおてつだいする!」
破滅へとひた走る王国の混乱をよそに、別邸アトリエの穏やかで贅沢な時間は、今日も何一つ揺らぐことなく流れていくのだった。
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次回お楽しみに。




