第16話 【本国崩壊②】近郊ダンジョンの魔獣氾濫
王都の南西、なだらかな丘陵地帯に広がる平原。
普段ならば王都の市場へ向かう隊商の幌馬車が行き交う平穏な街道は、血と泥、そして魔獣の咆哮が木霊する最前線と化していた。
グルルルルァッ!
ギャオォォォッ!
街道の左右を取り囲むように、赤黒い毛並みを持つ巨狼や、鋭い鎌腕を備えた甲殻蟲の群れが次々と押し寄せる。
本来であれば、近郊の初級から中級ダンジョン『翡翠の洞窟』や『宵闇の坑道』の奥深くに留まっているはずの魔獣たちだった。
「防衛線を下げるな! 槍衾を維持しろ!」
返り血で銀の甲冑を真っ赤に染めた近衛騎士団・第3大隊長のガレスが、手にした幅広の長剣を振るいながら叫んだ。
迫り来る二頭の魔狼を一刀の下に両断する。
だが、倒しても倒しても、街道の先の森から新たな群れが途切れることなく湧き出してくる。
「くそっ……! キリがねえぞ! なぜこんな近場の洞窟から、階層主クラスの変異種まで溢れ出してきてるんだ!?」
ガレスの傍らで盾を構える副官が、息も絶え絶えに悲鳴を上げた。
すでに第3大隊の騎士たちは丸三日間、仮眠すら取れずに迎撃任務を続けている。
手足の疲労は限界を超え、握った剣の柄には血豆が潰れた痛みが走っていた。
「隊長! 王宮へ要請した補給物資がまだ届きません! 疲労回復ポーションの在庫が尽きました!」
「魔導院の増援部隊はどうなった!?」
「だ、ダメです! 魔導院からは『大結界の維持に全人員を割いているため、騎士団単独で防衛境界線を死守せよ』との返答しか……!」
「あの机上のネズミどもめがッ!!」
ガレスは奥歯を噛み締め、怒気を含んだ唾を吐き捨てた。
大結界が貴族特区にまで縮小したせいで、外縁部の防衛はすべて騎士団の生身の肉壁に頼るしかない。その上、近郊の各ダンジョンが示し合わせたように一斉に魔獣を吐き出し始めているのだ。
「隊長……! これ、まさかダンジョン・スタンピードの前兆じゃ……」
「馬鹿を言え! 王都近郊のダンジョンは、過去五年間、ただの一度もスタンピードなど起こしたことはないんだぞ! 周期的な暴走すら起きたことが――」
言いかけて、ガレスの思考がピタリと凍りついた。
過去五年。
王都近郊のダンジョンが、不自然なほど安全に保たれていた理由。
騎士団の定期巡回ですら「拍子抜けするほど魔獣の数が少ない」と報告されていたあの異常な平穏。
(……まさか)
ガレスの脳裏に、かつて王宮の片隅で見かけた、深緑の髪を揺らす公爵令嬢の姿が鮮烈に蘇った。
早朝の王宮訓練場。
騎士たちが朝の点呼を始めるよりも前、巨大な黒いミスリル大剣を担ぎ、泥のついた作業着姿で森から戻ってくる少女。
『あら、ガレス隊長、おはようございます。今朝のお散歩ついでに、南の洞窟の奥で騒がしかった巨大蜘蛛を間引いておきましたわ。巣ごと焼いておいたので、当分は街道に小蜘蛛が出ることもないはずよ』
そう言って、まるで庭の雑草を抜いてきたかのような気軽さで、貴重な魔獣素材の袋を訓練場の隅にゴトリと置いていったあの姿。
「……散歩、だと……?」
ガレスの喉から、掠れた呻き声が漏れた。
彼女がやっていたのは、散歩などではなかったのだ。
増えすぎた魔獣の個体数を独自に観測し、スタンピードの引き金となるボスクラスの変異種を、発生する端から単身で狩り尽くしていた。
国家の騎士団が数十人規模で挑むべき討伐遠征を、たった一人の少女が、毎朝の「日課」として人知れず片付けていた。
「リーゼロッテ様が……一人で全部、間引いてくださっていたのか……!?」
その事実を理解した瞬間、ガレスの全身に鳥肌が立った。
そして同時に、自国の王族と上層部に対する底知れない怒りと絶望が湧き上がった。
王都の防衛ラインを物理的にも魔導的にも支え、さらにはダンジョンの生態系すら管理していた真の守護者を、あの愚かな王子と貴族どもは「冷血な悪女」と罵って追い出したのだ。
その現場監督が現場を離れてわずか数週間。
彼女がせき止めていた膨大な厄災の濁流が、堰を切ったように王都へと押し寄せていた。
「隊長! 正面から『三頭大蛇』が突っ込んできます! 防壁が持ちません!」
「引くなァッ!!」
ガレスは喉が張り裂けんばかりに咆哮した。
「民の暮らす街を背にしているんだ! 死んでもこの街道を通すな! 剣を抜け! 耐え抜くんだァァッ!!」
悲痛な叫びと共に、血と絶望に塗れた泥沼の白兵戦が続いていく。
しかし、現場の兵士たちの体力も、精神も、すでに擦り切れる寸前まで追い詰められていた。
***
その頃。
戦火の煙が立ち上る街道から遠く離れた、緑豊かな森の別邸アトリエ。
からりと晴れ渡った青空の下、心地よい風が木々の葉を揺らしていた。
「――はい、ベル。包丁を引くときに、肩の力をふっと抜くの」
「すぅ……はぁ……。こう……?」
「そう、上手よ。魔力を刃先に込めすぎないこと。お肉の筋繊維に沿って、滑らせるように切るのよ」
アトリエの広々とした厨房で、リーゼロッテが優しく手元を導いていた。
調理台の上には、先日カインが査察のついでに差し入れていった、新鮮な魔猪の極上ロース肉。
麻のキャスケット帽を目深に被ったベルが、小さな両手で特注の小包丁を握りしめ、真剣な面持ちでお肉を切り分けていた。
紫水晶の瞳を細め、集中する。
体内の魔力回路がリーゼロッテの呼吸と同期し、角の根元から余分な火花が漏れ出ることもない。
トン、トン、とリズミカルな音が厨房に響く。
「……できた! りーぜ、おなじあつさで切れたよ!」
「ええ、百点満点よ。素晴らしいわ、ベル」
リーゼロッテがベルの頭を優しく撫でると、ベルは嬉しそうに目を細め、胸元にすり寄ってきた。
「ふふっ。じゃあ、このお肉に庭で採れた乾燥ハーブを擦り込んで、今晩は特製のオーブン焼きにしましょうね」
「うんっ! べる、ハーブもみもみする!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、楽しそうにボウルへ手を伸ばすベル。
その姿に、隣国の冷たい迷宮深層で震えていた面影はもうどこにもない。
そこへ、銀のトレイに湯気を立てるティーポットを載せたセバスチャンが、優雅な足取りで入ってきた。
「お嬢様、ベル様。お茶の準備が整いましたぞ。本日のお茶請けは、厨房で焼き上げたばかりのブルーベリーのタルトでございます」
「ありがとう、セバスチャン。ちょうど一息つきたかったところよ」
テラスのテーブルに腰を下ろし、香り高いハーブティーを口に含む。
遠く王都の空には、薄っすらと黒い煙のようなものが立ち上っているのが見えたが、リーゼロッテは気にする様子もなく優雅にカップを傾けた。
「……外が少し騒がしいようですが、お嬢様、よろしいのですか?」
セバスチャンがカップに紅茶を注ぎ足しながら、控えめに尋ねる。
長年仕えてきた老執事には、王都の近郊で何が起きているのか、おおよその察しがついていた。
「いいのよ、セバスチャン」
リーゼロッテは穏やかに微笑み、タルトを小さな口で美味しそうに頬張るベルを見つめた。
「私はもう、王家の婚約者でも、王都の防衛担当官でもないわ。私を『不要』と言って追い出したのはあちらですもの。有休中の一般人が、わざわざ頼まれもしない現場へ押しかけて無償で汗を流す筋合いはないわよ」
「左様でございますな。お嬢様には、この穏やかな時間こそが何よりお似合いでございます」
「ええ。それに、引き継ぎの分厚い書類の束の最後に、ちゃんとマニュアルを綴じておいたわ。『各ダンジョンの生態系バランスと、定期間引きの推奨周期・弱点一覧』ってね。……まあ、それを読める頭と、実行できるだけの人員があればの話だけれど」
リーゼロッテはクスリと笑うと、ベルの口元についたタルトの生地をハンカチで優しく拭ってやった。
有能な者を切り捨て、自らの手で破滅の引き金を引いた者たちが、どれほど苦しもうと知ったことではない。
日暮れのアトリエには、美味しそうな焼き菓子の甘い香りと、少女の無邪気な笑い声だけがどこまでも穏やかに響いていた。
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次回お楽しみに。




