第17話 ベルのトラウマと、リーゼの流儀
アトリエから馬車で少し下った先にある、街道沿いの長閑な宿場町。
王都の外壁周辺で起きている惨劇などまだ届いていないその市場は、抜けるような青空の下、朝から多くの買い物客で賑わっていた。
野菜を売る威勢のいい声、香辛料の刺激的な匂い、色とりどりの果物が並ぶ露店。
「……っ」
その雑踏の片隅で、ベルの小さな身体がビクリと強張った。
身に纏っているのは、セバスチャンが夜なべして仕立て直した、上質なアイボリーのワンピース。
頭には、リーゼロッテの『魔力調律』による認識阻害術式が施された麻のキャスケット帽を目深に被っている。
外見上は、どこからどう見ても裕福な貴族令嬢の妹か、良家のお嬢様にしか見えない。
だが、すれ違う大人たちが自分を見るたび、ベルは反射的に身を竦め、リーゼロッテの麻のブラウスの裾を握りしめていた。
指先が白くなるほど強く、震えている。
「どうしたの、ベル? 歩き疲れたかしら」
手提げ籠を腕に提げたリーゼロッテが足を止め、視線を合わせるように屈み込んだ。
籠の中には、調合用の硝子瓶や、アトリエの庭では育たない乾燥香辛料が綺麗に収められている。
「……あ、あのね……」
ベルは紫水晶の瞳を潤ませ、消え入りそうな声で呟いた。
「……みんな、べるのほう……みてる。……つの、みつかったら……また、あくま、って……いわれるの……?」
震える小さな手首。
そこにはもう、あの忌まわしい呪詛の拘束具はない。
けれど、幼い心に刻み込まれた傷痕は、そう簡単に消えるものではなかった。
生まれ持った漆黒の炎。
自分を一族の厄災として罵り、石牢へと繋ぎ止めた大人たちの冷たい侮蔑の視線が、市場の何気ない人々の視線と重なってしまうのだ。
恐怖のあまり、ベルの体内の魔力回路がキュッと収縮した。
キャスケット帽の奥、黒い巻き角の根元から、チリチリと微細な黒炎の火花が漏れ出そうとする。
精神の動揺に引きずられ、無意識のうちに魔力が漏洩しかけていた。
その時。
パチンッ!
「ふあ……っ!?」
小気味のいい乾いた音が響いた。
ベルが両手で額を押さえ、目を白黒させる。
リーゼロッテが、人差し指で軽くベルの額にデコピンを一発食らわせた音だった。
「痛くはないでしょう? 深呼吸なさい」
「り、りーぜ……?」
「いいこと、ベル。堂々としていなさい」
リーゼロッテは琥珀色の瞳を真っ直ぐに向け、静かに、しかし鋼のように揺るぎない声で告げた。
「あなたは何か悪いことをしたかしら? 誰かのお金を盗んだ? 無関係な人を傷つけた?」
「……ううん。してない……」
「なら、何も恥じる必要はないわ。俯く理由も、縮こまる理由もどこにもない。胸を張って前を見なさい」
「で、でも……べるのちから、みんなをもやす……こわい、まほうだから……」
ベルの声が再び涙で震える。
かつて一族の大人たちから浴びせられた言葉。
『この化け物が』
『生きているだけで災いをもたらす忌み子め』
その呪いが、少女の小さな胸を締め付けて離さない。
だが、リーゼロッテは心外そうに細眉を跳ね上げた。
「力そのものに善悪なんてないわよ。あるのは、それを扱う者の知性と目的だけだわ」
リーゼロッテは手袋を外し、ベルの頭へそっと素手を伸ばした。
キャスケット帽の隙間から滑り込ませた指先が、小さく強張っていた黒い角の根元を、心地よいリズムでトントンと撫でる。
リーゼロッテの『魔力調律』が、乱れかけていたベルの血流と魔力の波長を、一瞬にして穏やかなせせらぎへと戻していく。
「昨日、あなたが薪を割るのに使ったあの大きな包丁と同じよ。感情に任せて振り回せば人を傷つける凶器になるけれど、正しく使えば、美味しいシチューの具材を切り分ける最高の道具になるでしょう? あなたの魔力も同じよ。これまでは誰も、正しい使い方を教えてくれなかっただけだわ」
「……あ」
「制御できない力なら、私が何度でも叩き直してあげるわ。庭の薪割りでも、薬草への魔力供給でも、いくらでも練習台はあるもの。だから――」
リーゼロッテはふわりと微笑み、ベルの小さな手をしっかりと握り直した。
「誰に何を言われようと、私の前でだけは自分の力を怖がるんじゃないわよ」
「…………っ!」
ベルの喉が、きゅっと詰まった。
恐ろしい力だと忌み嫌われ、暗闇の底に縛り付けられた自分を。
この人は、何一つ恐れず、何一つ嫌悪せず、ただ当たり前のように『道具と同じだ』と言って肯定してくれた。
胸の奥底に溜まっていた冷たい鉛のような恐怖が、手のひらから伝わってくる温もりによって、みるみるうちに溶かされていく。
「……うん……っ! べる、むねをはる……!」
ベルは涙を手の甲で力いっぱい拭うと、きゅっと背筋を伸ばしてみせた。
その紫水晶の瞳に宿っていた怯えは完全に消え去り、リーゼロッテへの絶対的な信頼と、眩い憧憬の光が灯っていた。
「よろしい。いいお返事ね」
満足そうに頷いたリーゼロッテは、露店の一角を指差した。
「じゃあ、ご褒美に蜂蜜漬けの木苺タルトを買っていきましょうか。あそこのお店の焼き菓子、パイ生地の層が均等で素晴らしい技術なのよ」
「わぁ……! タルト、たべたい!」
ベルがぱっと顔を輝かせ、弾むような足取りで歩き出した。
先ほどまでの重苦しい空気は嘘のように晴れ渡り、ふたりは市場の暖かな喧騒の中へと戻っていく。
その頃――。
長閑な宿場町から数キロ離れた、王国の心臓部・王宮正殿。
そこには、少女が抱えていた健気な葛藤など足元にも及ばないほどの、醜悪で底知れない『責任の擦り付け合い』が渦巻いていた。
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次回お楽しみに。




