第7話 鎖に繋がれた幼き異形
地下九十層、古代祭壇。
天井を覆うドーム状の石壁から、パラパラと細かな砂利が落ちてくる。
空気を満たしているのは、焦げ付くような強烈なオゾン臭と、皮膚を直接チリチリと灼く濃密な魔力の奔流だった。
その円形広場の中央で、少女は蹲っていた。
身に纏っているのは、幾重にも擦り切れ、泥と煤で薄汚れた灰色の貫頭衣。
華奢な手首と足首には、黒曜石の杭から延びる分厚い拘束具が食い込んでいる。
金属とも鉱石ともつかない未知の鉱物で作られた鎖には、血管のように紫色の術式ラインが走り、獲物を縛り上げるたびにジジッ、と小さな火花を散らしていた。
「……っ、ふ……ぅ……っ!」
荒く、浅い呼吸。
銀灰色のくせ毛ショートの間から覗くのは、小さく鋭い二本の黒い巻き角。
そして――何よりも異質だったのは、その角の根元から溢れ出している、どす黒い炎の揺らめきだった。
ゴォォォ……ッ!
少女の胸が波打つたび、漆黒の炎が周囲の石畳を舐めるように広がり、床に刻まれた古代文字をジュウジュウと焼き焦がしていく。
破壊の権能を帯びた『黒炎』。
幼い身体が耐えきれるはずもない規格外の魔力が、彼女の意志とは無関係に暴走し、周囲の空間ごとすべてを灰へと変えようと暴れていた。
「おい、冗談だろ……」
カインが息を呑み、無意識のうちに腰の短剣の柄を握りしめた。
元Sランク冒険者としての経験が、警報を鳴らし続けている。
「あの魔力量、ふざけてやがる。災害指定のエンシェント・ドラゴンに匹敵するぞ。あんなのがこんな狭い空間で完全に爆発してみろ、九十層どころかこの迷宮ごと吹き飛ぶぞ!」
「落ち着きなさい、カイン。声を荒らげると余計に刺激するわ」
リーゼロッテは静かな声で制しながら、ゆっくりと歩みを進めた。
背中のミスリル大剣には手をかけない。
両手をだらりと下げ、敵意も殺気も完全に消し去った無防備な歩調。
その足音に反応して、祭壇の中央の少女がガバッと顔を跳ね上げた。
「――ッ!!」
乱れた前髪の隙間から覗いたのは、吸い込まれそうなほど深い紫水晶の瞳。
だが、その双眸は理性の光を失い、飢えと激痛、そして極限の恐怖によって血走っていた。
グルルルルァッ……!!
少女の小さな喉から、獣のような威嚇の唸り声が漏れる。
自分をここに縛り付けた大人たちと同じように、また自分を痛めつけに来たのだ。
飢餓と孤独の果てに、ただ己に近づく者を敵と見なす、野生の獣そのものの反応。
全身の血管が黒く浮き上がり、彼女を取り巻く黒炎が一気に膨れ上がった。
「ぎゃ……あぁぁぁぁッッ!!」
鼓膜を破らんばかりの悲鳴。
同時に、八本の鎖が一斉に激しく振動し、紫色の電火をバチバチと放った。
拘束具が魔力の暴走に反応して自動的に締め付けを強め、幼い手首と足首に容赦なく食い込んでいく。
ギリギリと骨の軋む音。
激痛に顔を歪めながらも、少女は迫り来る侵入者を排除しようと、その小さな両手をリーゼロッテへと突き出した。
ドォォォォォンッッ!!
広場全体を呑み込むほどの黒炎の津波が、真っ直ぐにリーゼロッテへと殺到する。
岩壁が融解し、触れた空気が一瞬で発火するような灼熱地獄。
「リーゼ、避けろッ!!」
カインの叫びが轟く。
だが、リーゼロッテの足は止まらなかった。
「――『魔力調律・流動同期』」
大剣を振るうまでもない。
リーゼロッテは前進を維持したまま、ただ前髪をかき上げるように右手を軽く宙へと滑らせた。
フッ、と空気が澄み渡るような微細な振動音。
リーゼロッテの指先から放たれた極小の魔力パルスが、押し寄せる黒炎の「魔力波長」を寸分の狂いもなくトレースし、その結合構造を一瞬で解きほぐした。
シュゥゥゥ……。
猛り狂っていた漆黒の火炎が、まるで水に落とした一滴のインクのようにふわりと霧散する。
リーゼロッテの体を掠めることもなく、炎はただの心地よい微温の風となって、彼女の深緑の長い黒髪をふわりと揺らしただけで消え去った。
「なるほど、魔力量は莫大だけれど、出力の変換効率が最悪ね。ただ感情に任せて垂れ流しているだけだわ」
リーゼロッテは炎を無効化しながら、極めて冷静な、研究者の顔で呟いた。
「な……っ!?」
少女の紫水晶の瞳が、驚愕で見開かれた。
これまで触れるものすべてを焼き尽くし、自分を閉じ込めてきた者たちすら恐れさせたはずの炎。
それが、目の前の人間には傷一つどころか、煤の一つすら残せない。
全力の一撃を完全に無効化された少女の小さな身体が、過呼吸のように激しく上下する。
魔力の枯渇と拘束具の締め付けによって、限界を迎えた膝がガクガクと崩れ折れた。
「は、ぁ……っ、く……るな……!」
掠れた、ひび割れた声。
言葉を喋れる知性がある。
だがその響きは、ただただ震えていた。
捨てられ、痛めつけられ、暗闇の底でただ死を待つだけだった子供の、絶望の叫び。
「……ひどいものね」
リーゼロッテは祭壇の階段を上がり、少女の数歩手前で静かに立ち止まった。
視線を落とし、八本の杭と少女を繋ぐ拘束具の構造を、極めて冷静に分析する。
「この拘束具、ただ身体を縛っているだけじゃないわ。内側から湧き出る魔力を無理やり逆流させて、循環回路を焼き切るように作られている。……こんな粗悪で悪趣味な呪詛術式、宮廷魔導の教科書にも載せられないわよ」
「おい、リーゼ! 近づきすぎるな!」
背後から駆け寄ってきたカインが、油断なく少女とリーゼロッテの間に割って入ろうとした。
その手には、真鍮の留め金がついた査察手帳が握られている。
「角といい、あの禍々しい黒炎といい、間違いねえ……魔界の上級血統だ。国際ギルド規約上、完全な『未確認危険知性体』だぞ。不用意に触れるな、下手に刺激すれば今度こそ自爆しかねん!」
「自爆なんてさせないわよ。手帳を閉じるか、離れて見守っていなさい、カイン」
「お、おい!?」
制止の言葉を平然と聞き流し、リーゼロッテはトン、と少女の目の前で膝をついた。
視線の高さを、蹲る子供と完全に合わせる。
ヒィッ、と少女が短い悲鳴を上げて身を竦めた。
殴られると思ったのか、両手で頭を抱え込み、目を固く瞑って全身を強張らせる。
だが――。
振り下ろされるはずの暴力は、いつまで経っても訪れなかった。
代わりに聞こえてきたのは、衣擦れの音と、金属の蓋が小気味よく開く『カチリ』という軽快な音だった。
ふわり、と。
血と硫黄の臭いがこびりついた地下九十層の冷え切った空気に、およそこの世の地獄には似つかわしくない、温かく芳醇な香りが漂い始めた。
じっくりと時間をかけて煮込まれた、鶏肉と根菜の出汁の匂い。
甘い玉ねぎと、爽やかなハーブの香り。
異空間収納の魔導カバンから取り出されたそれは、紛れもない『温かい日常』の匂いだった。
「……っ?」
少女の鼻先が、ピクッと微かに動いた。
固く閉じられていた瞼が、恐る恐る、ほんの数ミリだけ開かれる。
目の前にあったのは、湯気を立ち上らせる深皿と、木製のスプーンだった。
透き通るような金色のスープの中で、柔らかく煮崩れた野菜と肉の角切りが、ほかほかと美味しそうな湯気を放っている。
リーゼロッテは、至って穏やかな、まるで近所の子供におやつを差し出す近所のお姉さんのようなトーンで微笑みかけた。
「お腹、空いているのでしょう?」
グゥゥゥゥ……ッ。
少女の小さなお腹から、静まり返った古代祭壇に響き渡るほどの、情けない音が鳴り響いたのだった。
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次回お楽しみに。




