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第6話 地下九十層、古代祭壇の異変


 地下七十層のセーフティエリアを後にしてから、さらに深く、深く。

 岩肌の色は徐々に黒ずみ、空気は粘りつくような濃密な魔力を帯び始めていた。


 地下八十層を越えたあたりから、出現する魔獣の気配すら途絶えている。

 それは安全を意味するものではない。

 あまりにも強大で異質な存在がさらに奥底に君臨しているがゆえに、並の階層主や凶悪な魔獣たちすら恐れをなして縄張りを放棄した――捕食者の空白地帯。


 コツ、コツ、とふたりの足音だけが、静寂に包まれた縦穴に冷たく反響していた。


「……なぁ、リーゼ。肌がピリピリしてきやがったぞ。この階層の空気、魔力の濃度が地上の一〇〇倍はある」


 カインが外套の襟元を引き上げ、鋭い視線で周囲の闇を警戒していた。

 元Sランク冒険者としての直感が、全身の産毛を逆立てている。

 左耳の通信ピアスは相変わらず沈黙したままだが、真鍮の留め金がついた査察手帳を握る指先には、うっすらと緊張のにじむ汗が浮かんでいた。


「ええ、素晴らしいわね。この深度でしか濃縮されない良質な高純度エーテルだわ。吸い込むだけで細胞の活性化が促されるのを感じるわ」


「お前の肺胞はどうなってんだよ……。普通の魔導士なら、三分で魔力酔いを起こして血を吐いて倒れる濃度だぞ」


「あら、呼吸法を工夫すればいいだけの話よ。呼気で取り込んだ魔力を肺胞で循環させて、余剰分を足の裏から地面へアースするの。ほら、簡単でしょう?」


「誰ができるかそんな職人芸!」


 カインのいつも通りのツッコミを受け流しながら、リーゼロッテは足元の地層を興味深そうに観察していた。

 だが、その軽口とは裏腹に、彼女の琥珀色の瞳は極めて冷静に周囲の『異常』を捉えていた。


 地下九十層。

 観測史上、隣国ガルディニア帝国の調査隊がただの一度も生還したことのない未踏の深淵。

 本来であれば、迷宮の自然な浸食によって形成された複雑怪奇な鍾乳洞が広がるはずのエリアだった。


 しかし、目の前に広がっていたのは――。


「……人工物、ね」


 リーゼロッテが足を止めた。

 削り出された黒曜石の巨大な敷石。

 整然と並ぶ角柱の列柱、そして頭上を覆うドーム状の石造天井。

 迷宮の最深部に、まるで古代の神殿をそのまま埋め込んだかのような、広大で異様な大回廊がどこまでも延びていた。


「おいおい……迷宮の最深部に遺跡だと? 帝国のギルド本部にあった過去の観測記録にも、こんな建造物の記述は一行もなかったぞ」


 カインが眉間に深い皺を刻み、柱の表面に刻まれた文様へ手を触れた。

 指先を滑らせると、古代の幾何学模様の溝に、かすかな紫色の燐光がチリチリと走る。


「ただの遺跡じゃねえな。……古代語の封印術式だ。しかも、帝国の様式でも王国の様式でもねえ。もっと異質で、禍々しい――」


「ええ。術式のベースが『神聖文字』ではなく、反転術式――いわゆる『魔界語』の構文に近いわね」


 リーゼロッテはしゃがみ込み、床の継ぎ目を手袋越しになぞった。

 彼女の固有魔法である『魔力調律』の知覚が、石畳の下を縦横無尽に走る、おびただしい数の魔力供給ラインを捉えていた。


「外からの侵入者を拒むための防衛トラップじゃないわ。この建造物、すべてが『内側にある何か』を外に出さないためだけに設計されているわね。それも、何百年もかけて幾重にも重ねられた、極めて悪意に満ちた多重拘束結界よ」


「……何百年も前に、何かをここに閉じ込めたってのか?」


「あるいは、生贄として放棄されたか、ね。……でも、少し様子がおかしいわ」


 リーゼロッテが立ち上がり、大回廊の最奥――薄暗い闇の奥へと視線を向けた。

 その瞳の奥で、魔力の波長を読み取る金色の光彩が微細に明滅する。


「この古代の封印術式の上に、ごく最近、別の魔導で上書きされた痕跡があるわ。誰かがこの何百年も放置された古代の遺跡を再利用して、現代の魔導では到底抑えきれないほどの『何か』を、この強力な呪詛に頼って無理やり幽閉したんだわ」


「なに……!?」


 カインが素早く腰の短剣に手をかけ、リーゼロッテと背中を合わせるようにして身構えた。


「おい、冗談だろ。結界の回路が、ズタズタに破断しているぞ。ここ数日……ううん、ほんの数時間前までは完璧に閉じていたはずの封印が、内側からの暴力的な魔力によって無理やり引き裂かれている……つまり、その幽閉されたバケモノが今まさに野に放たれようとしてるってことか?」


「化け物……かしらね」


 リーゼロッテは愛用のミスリル大剣の柄にそっと手を添えた。

 だが、その表情に過度な緊張や殺気はない。

 むしろ、どこか不可解なものを見つめるような、微かな憐憫と知的な好奇心が混ざり合った色を帯びていた。


「カイン、あなたの鼻にも届いてるかしら? この空気の匂い」


「……あ? 匂い? ……チッ、硫黄と、何かが激しく焼け焦げたような煙臭さだな。まるで街が一つ丸ごと火の海に包まれた後みてえな……」


「ええ。それと、微かに混ざっているわ。――ひどく幼くて、怯えきった、冷たい呼吸のリズムが」


「……幼い呼吸?」


 カインが訝しげに目を細めた、その瞬間だった。


 ドォォォォォォンッッ!!


 大回廊の最奥から、突風のような衝撃波が吹き抜けた。

 黒曜石の柱がガタガタと軋みを上げ、天井から砕けた石材がパラパラと降り注ぐ。

 回廊を吹き抜けてきたのは、ただの風ではなかった。

 大気を焼き尽くし、触れるものすべてを灰へと変えるような、禍々しい漆黒の炎――『黒炎』の熱波だった。


「ぐっ……!?」


 カインが咄嗟に外套を掲げ、熱風を遮る。

 並の防具であれば一瞬で炭化していてもおかしくない超高熱。ギルド特製の防護外套でさえ、表面のミスリル糸がチリチリと音を立てて焦げ始めていた。


 だが、その猛烈な黒炎の暴風の中を、リーゼロッテは一歩も退かずに前へと進み出た。


「――『魔力調律・排気循環』」


 リーゼロッテが大剣を抜くこともなく、ただ右手の手のひらを前方へと掲げた。

 指先から放たれた極小の魔力振動が、押し寄せる黒炎の熱波と正面から接触する。

 瞬間、猛り狂っていた漆黒の火炎は、まるで水に入れた墨汁のようにふわりと霧散し、ふたりの周囲を丸く避けるようにして後方へと受け流された。


「……ふぅ。驚いたわね。ただの火属性魔法じゃないわ。破壊衝動そのものが魔力に変換されて、出口を失って暴走しているんだわ」


「おいリーゼ、無茶すんな! 今の炎、直撃してたら骨すら残らねえぞ!」


「大丈夫よ、波長さえ合わせればただの熱エネルギーに過ぎないわ。……それよりもカイン、奥を見て」


 リーゼロッテが指差した先。

 黒炎の煙が徐々に晴れゆく回廊の最深部に、巨大な円形広場が姿を現していた。


 そこは、古代の祭壇だった。

 八本の巨大な黒曜石の杭が円形に打ち込まれ、それぞれから太い鎖が中央へと延びている。

 その鎖の表面には、無数の呪詛の呪文がびっしりと刻み込まれ、逃れようとする獲物を縛り上げるように紫色の電火を散らしていた。


 そして――。

 その祭壇の中央。

 破壊と絶望の瘴気が渦巻くその中心に。


「……おい、嘘だろ」


 カインの喉から、掠れた声が漏れた。

 彼らが予想していたような、太古の邪神でも、伝説の巨大魔獣でもなかった。


 鎖に繋がれ、ボロボロに裂けた灰色の布切れを身に纏い、荒い息を吐きながら蹲っていたのは――。

 どう見ても十歳にも満たない、あまりにも小さく、華奢な少女の姿だった。


「……あんな深層の最奥に、子供だと……!?」


 カインが息を呑む。

 だが、少女の頭部からは、人間には決して存在し得ない、小さく鋭い二本の黒い巻き角が生えていた。


 そして何より。

 彼女の全身からは、迷宮全体を揺るがすほどの、制御不能な漆黒の魔力がドクドクと脈打ち、激しい炎となって溢れ出していたのだった。

 

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