第5話 通信機の遮断と、本国の小さな異変
本日からは1話ずつの更新です。
地下七十層、外縁部。
未踏迷宮『常闇の螺旋穴』の深淵において、そこだけは奇跡のように穏やかな光が満ちていた。
巨大な水晶の柱が天井から幾本も垂れ下がり、淡い乳白色の燐光を投げかけている。
ここは迷宮内で自然発生する『セーフティエリア』。
強力な浄化魔力を持つ水晶群に守られ、凶暴な魔獣たちが本能的に立ち入るのを避ける、深層探索者たちにとって唯一の安全地帯だった。
「ふぅ……。やっぱり、深層の天然水で淹れたお茶は口当たりがまろやかね」
澄んだ湧き水のほとりに広げられたピクニックシートの上で、リーゼロッテは陶器のカップを傾けていた。
傍らには、小型の携帯用錬金窯。
中では先ほど六十層で間引いた『水晶蠍』の尾先と、自生していた珍しい自生薬草がコトコトと煮込まれ、琥珀色の澄んだ抽出液を作り出している。
鼻腔をくすぐるのは、芳醇なハーブの香りと、微かに甘い蜜のような芳香。
「お前、さっきから当たり前のように魔獣の毒針を煮沸してるけどよ……。それ、帝国の一級調合師が防護服着て扱う劇物指定素材だからな?」
向かい側で腰を下ろし、黒革の手帳にペンを走らせていたカインが、呆れたように眉根を寄せた。
「平気よ。三十二パーセントの熱湯で三倍希釈しながら、魔力調律魔法で毒性の結合ラインだけを振動分解してあるもの。残ったのは純粋な滋養強壮成分だけよ。カインも飲む? 監察官の激務で疲弊した肝臓によく効くわよ」
「……遠慮しとく。お前の『平気』は常人の『致死量』だって相場が決まってんだよ」
カインは深いため息をつきながら、真鍮の留め金がついた査察手帳をパチンと閉じた。
表紙には『常闇の螺旋穴・深層特別監察記録』の文字。
すでに七十層までの行程が克明に記されているが、その内容は「七十層到達、所要時間五時間半」「トラップの全解除・最短ルート踏破」「自炊による栄養補給」と、およそ未踏迷宮のアタック記録とは思えないほど牧歌的な記述で埋め尽くされている。
「まあいい。七十層まで無事故・無違反。ギルド規約上の安全基準は完璧にクリアだ。……それにしても、ここまで一人の怪我人も出さずに降りてこられたのは、全部お前の異常な魔力感知のおかげだがな」
「人聞きが悪いわね。私はただ、無駄な戦闘を避けて効率よく採取を進めたいだけよ。モンスターだって、縄張りを荒らされなければ無意味に襲ってきたりしないわ。……食料や素材として必要な子たちを除いてはね」
リーゼロッテはカップを置き、水晶の陰に立てかけてある漆黒のミスリル大剣に目をやった。
刃こぼれ一つない刀身には、防汚魔法の膜が張られ、鏡のように澄み切った光を宿している。
静かな水音と、澄んだ空気が漂う安らぎの空間。
地上でのドロドロとした権力争いや、理不尽な義務感から遠く離れたこの静寂こそが、今のリーゼロッテにとって何物にも代えがたい至福の時間だった。
――ジリリリリッ! ジリリリリッ……!
その穏やかな静寂を切り裂くように、カインの腰元から甲高い電子音がけたたましく鳴り響いた。
「ん……? なんだ?」
カインが顔をしかめ、外套の内ポケットから手のひらサイズの直方体を取り出した。
表面に複数の魔導式が刻印された、ギルド中央本部直属の『超長距離・緊急通信魔導機』だ。
水晶のカバー越しに、赤い警告灯が激しく点滅している。
「おいおい、緊急回線が鳴ってるぞ。……俺が監察官になってから、これが鳴ったのなんて片手で数えるほどしかねえんだが」
「あら、地上からのお電話?」
「ああ。国境を越えて届くレベルの超長距離通信だ。ギルド中央本部の緊急事案対策室からだな」
カインが操作盤のツマミを回すと、激しい魔力ノイズと共に、途切れ途切れの焦燥に満ちた声がスピーカーから溢れ出してきた。
『――ザザッ……! もしもし! 特務監察官レドフォード、応答せよ! ギルド中央本部、緊急事案対策室だ! 至急……至急アルステット公爵令嬢に連絡を……!』
「こちらカイン。状況を説明しろ。何があった?」
『王宮の……王立魔導院が……大結界の炉心温度が臨界を……! すでに第一防衛線の魔力回路が焼き切れかけている! バルタザール伯爵が……強引に代替触媒を投入し……爆発の兆候が……! 今すぐ、リーゼロッテ嬢を連れて王都へ帰還せよ――』
ザザザッ! ギギギッ……!
切迫した通信士の絶叫は、突如として激しい高周波ノイズによってかき消されそうになった。
受話口から火花がパチパチと飛び散る。
「おい、聞こえづらいぞ! 王都の魔力炉がどうしたって!? おい!」
カインが眉間に皺を寄せ、声を張り上げた――まさにその時だった。
スッ、と横から伸びてきた白く細やかな指先が、通信魔導機の背面にある主動力コアを、躊躇なくカチリと引き抜いた。
プツン。
スピーカーからの悲鳴も、けたたましい警告音も、すべてが嘘のように消え去った。
セーフティエリアに、再び静かな湧き水のせせらぎが戻ってくる。
「……おい、リーゼ」
カインが引きつった表情で、引き抜いたコアを指先で弄ぶ少女を見つめた。
「カイン。あなた、公務員としての自覚が足りないんじゃないかしら?」
リーゼロッテは極上の、慈愛に満ちた笑みを浮かべて首を傾げた。
「今回のあなたの任務は、『隣国の未踏迷宮における私の暴走防止および安全査察』のはずよ。本国の王宮が勝手に火を噴いていようが、それは本国の内政問題であって、この出張任務とは何の関係もないわ」
「いや、だがな……魔力炉の温度が臨界とか、ただ事じゃねえぞ。王都の大結界が吹っ飛んだら、何十万の人間が――」
「あら、王都には優秀な宮廷魔導士様たちが何百人もいらっしゃるじゃない。新任の魔導院長様が、名門グロース家の正統な理論で完璧に管理なさっているはずよ。私のような『婚約破棄された世間知らずの小娘』の手など借りずとも、皆様の輝かしい知性と潤沢な国家予算で鮮やかに解決してくださるわ」
悪意など微塵も感じさせない、澄み切った声だった。
事実、リーゼロッテは引き継ぎ書類にすべてを書き残してきたのだ。それを無視し、自分たちの都合で破棄し改ざんした以上、後始末をつけるのは彼ら自身の義務である。
「それにね、カイン」
リーゼロッテは、通信コアを手元の灰皿代わりにしていた平らな石の上へコトッと置いた。
「ここは地下七十層よ。地上からの電波なんて届くはずのない、完全な圏外エリア。深層の特殊な磁場で通信機が故障した――そう報告書に書いておけば、あなたの査察手当は満額支給されるし、無駄な残業に巻き込まれずに済むわ。……違うかしら?」
「…………」
カインは数秒の間、完全に沈黙した。
そして、深く、深いため息を天井の水晶へ向けて吐き出すと、手帳の通信記録欄にササッとペンを走らせた。
「……査察記録。地下七十層特有の高濃度魔力嵐により、中央本部との通信機が全損。以後、任務完了まで本部との連絡は物理的に不可能となった……と」
「ふふっ、物分かりの良い相棒で助かるわ」
「お前のその鋼の図太さ、本当に魔獣よりタフだぜ……。ほら、茶のおかわりをくれ。毒抜きのやつな」
「はいはい、淹れたてをどうぞ」
ふたりは何事もなかったかのように、穏やかなティータイムへと戻っていった。
***
一方その頃。
ふたりが優雅にハーブティーを啜っていた、まさにその時刻。
王国の心臓部である王宮『王立魔導院』の地下大炉心室は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
「ぎゃぁぁぁぁっ! あ、熱い! 配管から高圧蒸気が漏れ出しているぞ!」
「冷却水の温度が下がりません! すでに規定値の二倍をオーバーしています!」
「第二循環パイプのミスリル接合部が融解を始めました! このままでは、あと半日で炉心そのものが爆発しますッ!」
視界を埋め尽くす白い高圧蒸気と、警報用の魔導ベルのけたたましい乱打。
天井からはパラパラと石膏が剥がれ落ち、部屋全体が巨大な心臓の発作のようにドクン、ドクンと激しく脈打っていた。
その中央で、深紅の豪奢なローブをビショビショに濡らし、脂汗を滝のように流しながら立ち尽くしている男がいた。
新任魔導院長――バルタザール・フォン・グロース伯爵である。
「な、なぜだ……! なぜ冷却水が効かんのだ!? 最高級の氷霊石を、惜しげもなく規定量の三倍も投入したのだぞッ!?」
バルタザールは机をバンバンと叩き、部下たちに喚き散らした。
だが、現場で作業服を真っ黒にして駆け回っていた老技師が、怒気を含んだ目で詰め寄ってきた。
「当たり前だッ! 氷霊石の粉末なんて粗いものを高濃度でぶち込んだら、配管の内壁が削れて摩擦熱を生むに決まっとるだろうが! あんた、リーゼロッテ様が残してくださったマニュアルを読まなかったのか!?」
「な、なんだと……!? 貴様、伯爵たる私に口答えを――」
「うるせえ! 身分だの血統だので魔力炉が冷えるかッ!」
老技師はバルタザールの胸ぐらを掴み上げんばかりの勢いで怒鳴りつけた。
「リーゼロッテ様はな! 深層の氷霜蜥蜴の胆汁を使って、配管の表面に極薄の魔力皮膜を張ることで、金属の摩耗を防ぎながら極冷の魔力を循環させていたんだ! あの方が毎朝、たった一人でその調律をやってくれていたからこそ、この王都の結界は何年間も無事故で動いていたんだぞ!」
「ひ、ヒィッ……!?」
「それを『不潔な魔獣素材は使わん』だの『小娘のデタラメ』だのと言って、勝手に薬品を入れ替えたのはあんただ! あんたがこの炉心をぶっ壊したんだよッ!」
現場の技師たち、そして下級魔導士たちの怒りと軽蔑に満ちた視線が、一斉にバルタザールへと突き刺さる。
かつてリーゼロッテがいた頃、彼女は作業着姿で自ら油まみれになり、彼らの声に耳を傾け、完璧な現場環境を整えてくれていた。
それに比べて、目の前の貴族は何一つ現場を知らず、ただプライドだけで国の心臓を破壊したのだ。
「え、ええい! ならばあの女を呼び戻せばよかろう!」
バルタザールは青ざめた顔で叫んだ。
「ギルド本部に緊急要請を出したはずだ! アルステット公爵令嬢に、至急王宮へ登城するよう特命を出せと!」
そこへ、通信室から息を切らせた若い魔導士が転がるように駆け込んできた。
「い、院長閣下! ギルド本部からの最終報告です!」
「どうだ!? あの女は捕まったのか!? 今すぐここへ連れてこい!」
「だ、ダメです……! リーゼロッテ令嬢は特務監察官と共に、隣国の未踏迷宮『常闇の螺旋穴』の地下七十層に到達しており……! 先ほど、現地の激しい魔力障害により、通信機が完全に沈黙いたしました!」
「……は?」
バルタザールは間の抜けた声を漏らした。
「通信機が沈黙……? な、なら、現地のギルド支部に命じて、迷宮に救援隊を送り込めば――」
「相手は地下七十層ですぞッ!?」
老技師が吐き捨てるように叫んだ。
「帝国のエリート部隊ですら全滅するような絶対の死地だ! 誰がそんな場所へ、都合よく呼び出しの手紙を届けに行けるってんだ! あの方はもう、この王国の手の届かない場所にいらっしゃるんだよ!」
「そ、そんな馬鹿な……!」
バルタザールは膝から崩れ落ち、濡れた石畳の床へと手をついた。
ドォォォォォン……ッ!!
その瞬間、炉心の奥底から、これまでにない巨大な地鳴りのような重低音が響き渡った。
頭上を覆うミスリルの防壁に、ピキピキと巨大な亀裂が走り抜ける。
『第一障壁、破損! 王都外縁大結界の出力、四十パーセントに低下!』
『北の監視塔より緊急電! 結界の縮小に伴い、近郊の森林から魔獣の群れが街道へと溢れ出しております!』
執務室の拡声器から、絶望的な悲鳴が次々と告げられる。
有能な現場監督を嘲笑い、追い出し、自らの無能によって招いた破滅の序曲。
王都を揺るがす災厄の時計の針は、もう誰にも止めることができなくなっていた。
そして――。
自分たちが切り捨てた少女が、すでにその遥か先、誰も見たことのない『世界の深淵』へと足を踏み入れようとしていることなど、彼らは知る由もなかったのである。
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次回お楽しみに。




