第4話 地下50層、ピクニック気分のアタック
迷宮都市ルクスヴァルトの地下へと口を開ける、巨大な縦穴『常闇の螺旋穴』。
一歩足を踏み入れれば、そこは地上光の一切届かない暗黒の世界だ。
壁面を覆う発光苔が放つ淡い青紫色の燐光だけが、迷宮の奥底へと続く螺旋状の石段をぼんやりと照らし出していた。
通常、この迷宮の地下五十層といえば、帝国選りすぐりの精鋭冒険者パーティーが数ヶ月かけて綿密な補給計画を立て、命がけで挑む絶対の危険地帯である。
だが――。
「ふぅ……いい汗をかいたわね。カイン、ここの空気、地上より少し乾燥しているわ。肌の保湿用ローション、多めに調合してきて正解だったわね」
リーゼロッテは額の汗を麻のハンカチで拭いながら、鼻歌交じりに軽やかな足取りで階段を降りていた。
背中には黒光りする身の丈ほどの大剣。
足取りは羽のように軽く、呼吸の乱れはただの一度も生じていない。
「……なぁ、リーゼ。突入してからまだ三時間も経ってねえんだが」
その後ろを歩くカインが、引きつった顔で懐中時計を見つめていた。
ギルド中央本部の黒革外套を羽織り、真鍮の留め具のついた査察手帳を広げているものの、ペンを握る手は完全に止まっている。
「お前、階段の踊り場を塞いでた『巨岩ゴーレム』の群れ、大剣の腹で叩き割ってそのまま素通りしたよな? 普通あそこは斥候が罠を解除して、重戦士が盾で防いで、魔導士が弱点属性を詠唱して数時間かけて突破する難所なんだが?」
「だって、あのゴーレムたちの核、魔力波長の継ぎ目が丸見えだったんですもの。切っ先で魔力回路をツンと突いてあげれば、勝手に土塊に戻る親切設計だったわよ」
「親切なわけあるか! あいつらは帝国のAランク冒険者を何十人もミンチにしてきた殺戮兵器だぞ!」
「あら、そうなの? 素材としてはただの良質な魔導粘土だったから、後で陶芸用のアトリエ土として少し採取しておけばよかったかしら」
リーゼロッテは心底惜しそうに唇を尖らせた。
彼女にとって、危険なモンスターとは「襲いかかってくる害獣」か「貴重な研究素材」のどちらかでしかない。
その時だった。
グルルルルァァァッッ!!
地下五十層の広大な鍾乳洞フロアに、空間そのものを震わせるような重苦しい咆哮が轟いた。
天井の鍾乳石がパラパラと崩れ落ちる。
暗闇の奥から姿を現したのは、体長八メートルを超える巨大な双頭の巨狼――『双頭の冥府狼』。
この階層を支配する、悪名高き階層主である。
「出たな、五十層のボスだ!」
カインが素早く腰の短剣に手を伸ばし、身構える。
元Sランク冒険者の本能が、即座に戦闘態勢へと切り替わる。
「リーゼ、下がれ! あいつの右首は氷結ブレス、左首は高熱火炎を吐く! 同時に喰らえば装備ごと蒸発す――」
「まあ! 見てカイン!」
リーゼロッテが上げたのは、悲鳴ではなく歓喜の歓声だった。
琥珀色の瞳をキラキラと輝かせ、猛然と迫り来る巨大な双頭狼の足元を指差している。
「あの子の後ろの岩陰! 湿地帯にしか自生しない幻の香草――『深紫の香草茸』が群生しているわ! 乾燥させると最高のお肉料理のスパイスになるのよ!」
「……は? キノコ?」
「ちょうどお腹も空いてきた頃だわ。今日のディナーのメインディッシュとスパイスが、向こうからセットで揃って歩いてきてくれるなんて、なんて親切な迷宮なのかしら!」
言うが早いか、リーゼロッテは背中から漆黒のミスリル大剣をスラリと引き抜いた。
ゴォォォォォッッ!!
巨狼の左首が超高熱の火炎放射を吐き散らし、右首が絶対零度の冷気を撃ち出す。
二つの相反する極大ブレスが渦を巻き、螺旋を描いてリーゼロッテへと殺到した。
「リーゼッ!!」
カインが叫ぶ。
だが、リーゼロッテは眉一つ動かさなかった。
全身に魔力を過剰に巡らせるような真似はしない。
ただ、右腕の筋肉が収縮する一瞬、そして大剣の切っ先が空気を裂くわずか一ミリの瞬間だけに、超圧縮した魔力をピンポイントで循環させた。
「――『魔力調律・属性中和』」
フッと大剣の刃が空を撫でる。
その瞬間、猛り狂っていた灼熱の炎と絶対零度の氷が、まるで手品のように霧散し、ただの生ぬるい微風へと変わって四散した。
「な……ッ!?」
双頭狼の四つの瞳が、信じられないものを見たように見開かれた。
自慢の必殺技を完全に無効化され、巨体が硬直する。
「お肉に火が通りすぎると固くなっちゃうから、ブレスは禁止よ」
トウン、とリーゼロッテの爪先が地面を蹴った。
巨狼の視界から、彼女の姿が掻き消える。
次の瞬間には、彼女は大剣を構えたまま、すでに巨狼の懐へと滑り込んでいた。
「解体手順、開始。――頸椎の結合魔力ライン、切断」
ザシュッ、ザシュッ。
紙をカミソリで切り裂くような、微かな二つの切断音。
力任せに叩き斬ったのではない。骨と肉の隙間、魔力回路の継ぎ目だけをミリ単位でなぞった、あまりにも精密な職人技。
ドッシャァァァァンッ!!
体長八メートルの巨獣が、声を上げる暇すらなく床へと崩れ落ちた。
戦闘開始から、わずか十秒足らずの出来事だった。
「……ふぅ。皮も骨も傷つけずに綺麗に落とせたわ。カイン、ちょっと手伝って! 血抜きを完璧にしておかないと、獣臭さが残っちゃうのよ」
リーゼロッテは手袋を脱ぎ、水魔法を出してパパッと手首を洗い流すと、鼻歌交じりに解体用の小型ナイフを取り出した。
手際よくモモ肉の極上部位を切り分け、手早く香草を擦り込んでいく。
「……」
カインは頭を抱え、深いため息をつきながら天を仰いだ。
懐の査察手帳に、震える手でペンを走らせる。
「……査察記録。地下五十層到達、所要時間三時間十分。階層主ケルベロス・ハウンドと遭遇……瞬殺。理由、ディナーの肉とスパイスの調達のため……と。誰が信じるんだよこんな報告書ッ!」
「何ブツブツ言ってるのよ、カイン。ほら、コンロの火を起こして! さっき採った香草茸と一緒に、極上ロースのステーキにするわよ」
「……へいへい。火熾し魔導具はこれな」
呆れ果てながらも、カインは手慣れた手つきで携帯コンロに魔石をセットした。
やがて、冷たい迷宮の空気に、ジュウジュウと肉が焼ける香ばしい匂いと、ハーブの爽やかな香りが漂い始める。
「ん! 美味い……! 何だこれ、肉がめちゃくちゃ柔らかいぞ!?」
焼き上がったステーキを口に運んだカインが、思わず目を丸くした。
「ふふん、当然よ。魔力調律魔法で、お肉の繊維をあらかじめ解してあるもの。最高の焼き加減よ」
血生臭い未踏迷宮の深層で、極上のステーキを優雅に味わうふたり。
満腹になったリーゼロッテは、満足そうにお腹をさすりながら立ち上がった。
「さて、お腹もいっぱいになったし、次は地下六十層の水晶洞窟へ向かいましょう! あそこには綺麗な鉱石がたくさんあるはずよ」
「……お前の胃袋とメンタルの頑丈さ、本当に魔獣よりタフだぜ」
カインの呆れ声を背に、ふたりはさらに深い奈落の底を目指して歩みを進めるのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。
次回お楽しみに。




