第39話 査察官の報告書
王都を揺るがした大魔力炉の暴走とスタンピードの鎮圧から、数日が経過していた。
深い原生林を背負った別邸アトリエには、澄み渡る初夏の青空から柔らかな木漏れ日が降り注いでいる。
庭のあちこちでは、リーゼロッテが丁寧に手入れをしている薬草たちが青々とした葉を広げ、風が抜けるたびに清々しい香りをテラスへと運んでいた。
錬鉄製の丸テーブル。
そこに置かれた革張りの書類入れの上で、羽ペンをリズミカルに走らせている男がいた。
ボサボサの茶髪に、仕立ての良いギルド監察官の黒外套を羽織ったカイン・レドフォードである。
左耳のピアス型通信具を静かに明滅させながら、真鍮の留め金がついた黒革の査察手帳を横目に、手際よく公文書をまとめ上げていく。
「ふぅ……。これでよし、と」
カインは羽ペンを置くと、インクの乾いていない羊皮紙を軽く持ち上げて息を吹きかけた。
書類の表題には、金糸の魔導術式で刻印された公式なタイトルが記されている。
『王都大魔力炉変異災害終結、ならびに暫定保護対象に関する最終査察報告書』
『提出先:全大陸冒険者ギルド連盟最高評議会、ならびに中央本部査察部』
テラスの向かい側の席で、朝摘みのハーブティーを優雅に啜っていたリーゼロッテが、琥珀色の瞳をスッと向けた。
身に纏っているのは、窮屈な貴族のドレスではなく、動きやすい麻の作業着と革のエプロン。
膝の上には、薬草の根を丁寧に切り分けるための小さな剪定鋏が置かれている。
「カイン、ギルド本部への提出書類は仕上がったかしら?」
「ああ。これでお前とガキの身元は、国際法の鉄壁の城壁の中に収まったぜ」
カインは手帳の背表紙を指先で弾き、ニヤリと唇の端を持ち上げた。
羊皮紙の査察評価欄には、達筆な文字でこう明記されていた。
『対象名:ベル。魔力総量は戦略級に達するものの、最高ランク討伐者リーゼロッテ・フォン・アルステット氏の厳格かつ合理的な指導のもと、極めて安全に生活管理されている』
『日々の魔力放出はアトリエの結界維持、薪割り、土壌改良等の実用作業に完全に転換されており、市井に対する暴走・危害の危険性は皆無』
『結論:保護継続を承認。本件に対する外部からの身元照会、干渉、連行の試みは、国際ギルド緊急規約第十二条に基づき、即時に連盟全体の敵対行為とみなす』
公文書の隅々まで、一切の隙がない。
かつて迷宮深層で震えていた魔族の少女を、国家の身勝手な権力闘争や教会の異端審問から完全に切り離し、絶対不可侵の平穏を与えるための、完璧な防護壁だった。
「これで、もうあのクソ貴族どもや王宮の憲兵隊が、ベルを口実に嗅ぎ回ることは金輪際できねえよ」
「ありがとう、カイン。本当に優秀な監察官が味方にいて助かったわ」
「勘違いすんなよ。俺は職務規約に則って、事実を正確に査察票へ記録しただけだ。……まあ、お前が魔族の戦略兵器をただの『畑仕事の助手』としてコキ使ってる異常な現場を、そのまま書いただけとも言うがな」
「失礼ね。適正なエネルギー循環に基づいた、健全な労働教育よ」
リーゼロッテはクスリと笑うと、庭の中央へと視線を向けた。
木漏れ日の下、麦わら帽子を目深に被ったベルが、小さな如雨露を両手で抱えながら、一生懸命に薬草の畝へと水を撒いていた。
アイボリーのワンピースの裾を少し泥で汚しながら、如雨露の先から落ちる水滴を紫水晶の瞳で楽しそうに見つめている。
帽子の奥に隠された二本の黒い巻き角からは、以前のような暴走の火花など微塵も漏れていない。
「……おみず、いっぱい、のんでね……!」
ベルが薬草の若葉に小さく話しかけると、その純粋な魔力に呼応するように、青白い葉が嬉しそうにピンと伸びた。
その背後には、寸分の乱れもない礼服を着たセバスチャンが控え、銀のトレイに載せた冷たい果実水とタオルを恭しく捧げ持っている。
「ベルお嬢様、素晴らしい手際でございます。ですが少々日が昇ってまいりました、適度な水分補給をお忘れなきよう」
「うんっ! せばすちゃん、ありがとう!」
ベルが満面の笑みを浮かべて駆け寄り、冷たいグラスを受け取る。
そこには、かつて迷宮の冷たい石牢で怯え、泣きじゃくっていた忌み子の面影はどこにもなかった。
ただ、大好きな家と家族に囲まれて笑う、あたたかな少女の日常があった。
「……平和な光景だな。数日前まで王都中が真っ黒な煙に巻かれてたのが嘘みたいだぜ」
カインは煙管を取り出すのを思いとどまり、代わりに冷めたハーブティーを一口啜った。
そして、黒革の書類入れから、もう一通の青い封蝋が押された手紙を引き抜いた。
「おい、リーゼ。仕事の話だ」
「あら、私は非番よ? 王都の魔力炉の修理は定時で引き渡したはずだけれど」
「分かってるよ。王宮からの泣きつきじゃねえ。……隣国ガルディニア帝国の、冒険者ギルド中央統括部からだ」
カインが卓上に滑らせた手紙には、隣国の国章である『双頭の飛竜』の刻印が押されていた。
「先日の未踏迷宮アタックで、お前が地下百層から持ち帰った新種素材と『万能霊樹の雫』の精製データ……あれの共同研究に関する正式オファーだ。隣国ギルドの最高峰研究施設をフリーパスで使っていい、研究費は全額向こう持ち、成果物の特許はお前が独占していいそうだぞ」
「……まあ」
リーゼロッテの琥珀色の瞳が、知的な光を宿してパッと輝いた。
国家の権力闘争や、王妃の座といった下らないしがらみには眉一つ動かさなかった令嬢が、未知の研究と素材の話になった途端、極上の笑みを浮かべる。
「隣国の迷宮で見つけたあの苔、魔力伝導率が通常の三倍もあったのよね。あれを『万能霊樹の雫』の希釈液で培養できれば、全く新しい神経安定ポーションが完成するかもしれないわ」
「やっぱり食いついたか。……納期もノルマもなし、気が向いた時に素材を送りつけるだけでいいっていう、完全な自由契約だ。受けるだろ?」
「もちろんよ。カイン、ギルドの窓口を通して正式に承認のサインを出しておいてちょうだい」
「へいへい、毎度あり」
カインは肩を竦めて苦笑し、手帳の端にメモを走らせた。
公務員としての職務を全うしつつ、相棒の規格外な研究意欲を一番都合のいい形で社会へと繋ぎ止める。
男女の甘い関係などどこ吹く風の、しかし誰よりも強固な信頼で結ばれた二人の距離感が、そこにはあった。
「りーぜー! おはな、さいたよー!」
庭の向こうから、ベルの弾んだ声が響く。
リーゼロッテはカップを置くと、穏やかな微笑みを浮かべて立ち上がった。
「あら、見せてちょうだい、ベル」
初夏の風が吹き抜け、木々の葉を爽やかに揺らす。
かつて悪役令嬢として断罪され、追放されるはずだった少女の周りには、世界で一番自由で、豊かな時間が流れていた。




