第40話 悪役令嬢、明日からも非番です
どこまでも澄み渡る、雲ひとつない初夏の青空。
王都を混乱に陥れた大魔力炉の暴走とスタンピードの危機は完全に去り、深い原生林に囲まれた別邸アトリエには、穏やかで清々しい風が吹き抜けていた。
木漏れ日が揺れる庭園の薬草畑。
麻のブラウスに革のエプロンを身に纏ったリーゼロッテは、しゃがみ込んで青々とした『銀霧草』の葉を指先で優しく確かめていた。
土からは豊かな腐葉土の香りが立ち上り、適度な湿り気を帯びた土壌の中で、希少な薬草たちが力強く根を張っている。
「……うん、土壌の魔力循環は完璧ね。これなら来週には極上のエキスが抽出できるわ」
満足げに頷くリーゼロッテのすぐ隣で、パチャパチャと小気味よい水音が響いていた。
「おみず、どうぞー! おおきく、なってね!」
小さなブリキの如雨露を両手で抱え、一生懸命に水を撒いているのはベルだった。
頭には、二本の小さな巻き角をすっぽりと覆い隠す麻のキャスケット帽。
アイボリーのワンピースの裾を少し泥で汚しながら、紫水晶の瞳をキラキラと輝かせている。
かつて迷宮の冷たい石牢で怯え、自らの強大すぎる魔力に苛まれていた幼い魔族の少女の姿は、そこにはもう微塵もなかった。
「ベル、水やりがとても上手になったわね。根元に均等に行き渡っているわ」
「えへへ……! べる、りーぜのおてつだい、だいすき!」
ベルは如雨露をコトッと置くと、満面の笑みでリーゼロッテの腰元へと抱きついてきた。
リーゼロッテは素手でその小さな背中をぽんぽんと優しく叩き、柔らかな銀灰色の髪を撫でてやる。
体内の魔力回路は完全に安定し、穏やかな呼吸のリズムが心地よく伝わってきた。
「ベルお嬢様、そろそろ休憩になさいませんか。お嬢様の大好物の冷たいベリージュースと、焼きたてのスコーンが焼き上がっておりますぞ」
テラスのほうから、銀のトレイを恭しく掲げたセバスチャンが歩み寄ってきた。
仕立てのよい燕尾服を寸分の乱れもなく着こなした老執事は、カイゼル髭を嬉しそうに揺らしながら、庭に置かれた錬鉄製のテーブルへと皿を並べていく。
「わぁい! すこーん! せばすちゃん、ありがとう!」
ベルが嬉しそうに駆け寄り、テーブルの椅子へとよじ登る。
そのテーブルの向かい側では、ボサボサの茶髪を掻きながら、仕立てのいい黒外套を羽織ったカインが、広げた羊皮紙の地図を指先でトントンと叩いていた。
左耳のピアス型通信具は静かに沈黙し、卓上には真鍮の留め金がついた黒革の査察手帳が無造作に転がされている。
「……おいリーゼ。お前、本当にあの国王の復縁要請を蹴っ飛ばした噂、王都中でどんな尾ひれがついて広まってんのか知ってんのか?」
カインは冷えたハーブティーを一口啜り、呆れたように苦笑した。
「『かつて国を救い、王妃の座すらゴミを見るような目で一蹴した伝説の悪役令嬢』だの、『時給大金貨十枚で国家を救う最強の現場監督』だの、ギルドの酒場じゃお前の話題で持ちきりだぞ。おかげで本国の貴族ども、誰もギルドに偉そうな口を利けなくなって、俺の査察業務がめちゃくちゃスムーズに進んで胃薬が余るくらいだ」
「あら、それは何よりだわ。健全な労働環境の構築に貢献できて光栄ね」
リーゼロッテは作業用手袋を外してエプロンのポケットへと収め、テラスの空いている椅子へと腰を下ろした。
セバスチャンが淹れてくれた朝摘みのハーブティーを口に含むと、爽快な香りが喉の奥を潤していく。
「王太子の正妃だなんて、名ばかりの激務はお断りよ。無駄な夜会に愛想笑い、果ては宮廷内のドロドロとした足の引っ張り合い……そんなものに私の貴重な時間を割くくらいなら、新種の薬草を育てていたほうが百倍有意義だわ」
「まったくだ。あんな泥舟に付き合わされる現場の身にもなれって話だな」
カインは肩を竦めると、広げていた分厚い地図をリーゼロッテの前へと押し出した。
そこには、隣国ガルディニア帝国のさらに北方に広がる、広大な未踏山脈の地形図が詳細に描かれていた。
「で、これが本題だ。隣国ギルドの中央統括部から正式に認可が下りたぞ。北方の霊峰『霧氷の断崖』……あそこの地下百二十層にある、氷結系変異魔獣の生息域だ。新種の鉱石と、万病を癒やすとされる『氷霊樹の若芽』の採取ライセンスだ」
「まあ……!」
リーゼロッテの琥珀色の瞳が、知的な輝きを帯びてぱぁっと明るくなった。
どれほど贅沢な宝飾品を贈られてもピクリとも動かなかった心が、未知なる素材と未踏の迷宮の情報を前にして、少年のように躍動する。
「氷結系の変異個体なら、コアの冷却圧を逆利用して、大魔力炉の新型バッファタンクに応用できるかもしれないわね。採取には少し特殊な調律が必要になるけれど……」
「はいはい、相変わらず脳みそが筋肉と薬草で詰まってやがる。……おいベル、お前も行くんだろ?」
カインが視線を向けると、口の周りにスコーンの粉をつけたベルが、勢いよく顔を上げた。
「うんっ! べるもいく! りーぜのおにもつ、いっぱいもつ!」
「頼もしいわね、ベル。あなたの黒炎で、極寒のキャンプ地を温めてもらいましょうか」
「まかせて! べる、あったかいの、じょうずだよ!」
胸を張るベルの姿に、テーブルを囲む全員から自然と笑い声が溢れ出た。
かつて彼女を縛り付けていた、窮屈な貴族社会のしがらみも。
身勝手な冤罪による断罪劇も。
理不尽な命令を押し付けてきた王室の思惑も。
すべては遥か彼方の、取るに足らない過去の残滓に過ぎなかった。
ここには、誰にも邪魔されない自由な研究と、腕一本で切り開く冒険がある。
背中を預け合える最高の相棒がいて、温かな手料理を振る舞ってくれる執事がいて、守るべき愛しい家族の笑顔がある。
リーゼロッテはテラスの柵に寄りかかり、心地よい風に吹かれながら、どこまでも高く広がる青空を見上げた。
「さて……出発の準備を始めましょうか」
振り返り、琥珀色の瞳を悪戯っぽく細めて微笑む。
「なんと言っても――私、明日からもずっと『非番』ですもの」
悪役令嬢と呼ばれた最強の現場監督は、今日も愛用の大剣を背に、自由で痛快なスローライフの道を、どこまでも軽やかに歩み続けていく。
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