第38話 ただいまのアトリエ
王都を覆っていた黒い瘴気の雲は完全に消え去り、西の地平線に沈みゆく夕日が、穏やかな茜色の光を街道に投げかけていた。
深い原生林を抜ける小道の先。
木々の間から、見慣れた石造りの別邸アトリエが姿を現した。
庭の四隅に打ち込まれた青い防護杭からは、淡い光膜がドーム状に広がり、外界の混乱や魔獣の残滓を完璧に遮断している。
「……あの子、本当に最後まで結界を維持し続けたわね」
並んで歩いていたリーゼロッテが、琥珀色の瞳を細めて感嘆の息を漏らした。
その肩には身の丈ほどもある漆黒の大剣が担がれ、腰のポーチには国庫から回収した着手金の受領預かり票が収められている。
「言っただろ、魔族の戦略級魔力持ちだってな」
隣を歩くカインが、両手でずっしりと重い木箱を抱え直しながら苦笑した。
中に入っているのは、王立冒険者ギルド中央本部を経由して正式に決済された、契約の前払い金――純金の大金貨五千枚の一部と、最高位の金貨預金証書である。
「俺が書類でいくら外堀を埋めても、肝心の結界が落ちてりゃ元も子もなかった。大した肝っ玉のガキだよ」
「ええ。とても優秀な助手だわ」
ふたりが前庭の木製ゲートを押し開けた、その時だった。
カチリ、と微かな魔力の解除音が響き、庭を覆っていた防護膜がふわりと霧散した。
テラスの陰から、アイボリーのワンピースを着た小さな影が、転がるように駆け出してくる。
「……りーぜっ!」
麻のキャスケット帽を押さえながら走ってきたベルが、芝生の上で足を滑らせそうになりながら、リーゼロッテの足元へと飛び込んできた。
「ただいま、ベル」
リーゼロッテは大剣をふわりと宙に浮かせて背中のホルダーへ滑り込ませると、しゃがみ込んでベルの小さな身体を受け止めた。
ぎゅっと腰にしがみついてくる細い腕。
帽子を目深に被った額を擦り寄せてくる少女の体温は、少し高くて、どこまでも温かかった。
「……りーぜ、おかえりなさい……っ! べる、ちゃんと、おしごと……したよ……!」
紫水晶の瞳を潤ませながら、ベルが必死に見上げてくる。
王都の上空が真っ黒に染まり、遠くから地鳴りのような魔獣の咆哮が響いてくる中、この幼い少女はたった一人で恐怖に耐え、教えられた通りに防護杭へと魔力を流し続けていたのだ。
「ええ、見ていたわ。歪みひとつない、完璧な結界だったわよ。百点満点の上出来ね」
リーゼロッテが手袋を外した素手で、ベルの頭を優しく撫でてやる。
ベルは泣き笑いのような顔をして、くしゃりと表情を崩した。
「えへへ……べる、やくにたった……?」
「ええ、とても助かったわ。――それから、これ」
リーゼロッテは懐から、金糸の縁取りが施された豪奢な羊皮紙の巻物を取り出し、ベルの小さな両手の上へと載せた。
国王自らの署名と、黄金の獅子紋章が押された公文書。
「これはね、国王陛下自らが発行した『永世自由市民権』の証書よ」
「じゆう……しみんけん……?」
「そうよ。この国で一番偉い人がね、『ベルは誰からも脅かされず、このアトリエで自由に暮らしてよい』って、絶対に破れないお約束をしてくれた証拠の紙よ。もう兵隊さんも、悪い貴族も、あなたを怖がらせに来ることはないわ」
ベルは目を丸くして、金の文字が刻まれた羊皮紙をまじまじと見つめた。
横からカインが木箱をテラスのテーブルの上にドカリと置き、呆れたように息を吐く。
「おいおい、リーゼ。その紙切れ一枚をもぎ取るために、俺が王宮の主席文官相手にどれだけ胃を削ったと思ってんだ。もっとありがたがらせろよ」
「あら、あなたの優秀な法務実務には心から感謝しているわよ、カイン」
「口先だけなら何とでも言えるっつーの。……ほらよ、ベル」
カインはポケットから、王都のギルド本部前で買ってきた小さな包みを放り投げた。
ベルが慌てて両手でキャッチする。
包みを開けると、中には甘い蜜のかかった焼き菓子が三つ、湯気を立てて並んでいた。
「王都の有名店のハニーナッツパイだ。留守番のご褒美だ、食え」
「……! おじちゃん、ありがとう……!」
「おじちゃんじゃねえ、カイン兄さんと呼べ」
カインが眉を寄せて抗議するが、ベルはすでにパイにかぶりつき、口いっぱいに頬張って幸せそうに目を細めていた。
「皆様、お帰りなさいませ」
静かな足音とともに、アトリエの玄関扉が開いた。
銀のトレイを携え、寸分の乱れもない礼服を纏ったセバスチャンが、深々と一礼して姿を現す。
その白手袋の先からは、食欲を激しく刺激する、濃厚で芳醇な香りが漂っていた。
「お嬢様、カイン様。王都の結界が完全に修復されたこと、ここからもしっかりと拝見いたしました。……お約束通り、特製のビーフシチューが最高の煮込み具合となっております」
「まあ、素晴らしいわセバスチャン! お腹がペコペコだったのよ」
「腕によりをかけましたぞ。隣国の未踏迷宮で採取してこられた『香精茸』を出汁に使い、上質な牛すね肉を赤ワインでじっくり三時間煮込みました。ベルお嬢様の大好物の温野菜もたっぷりでございます」
「わぁい! しちゅー! べる、しちゅーだいすき!」
パイを食べ終えたベルが、嬉しそうに両手を上げて飛び跳ねる。
先ほどまで国家存亡の戦場で泥まみれの魔獣を両断していたことなど、まるで遠い昔の出来事のように思えるほど、アトリエのダイニングには温かな明かりが灯っていた。
中央の大きな木のテーブルには、湯気を立てる大鍋のビーフシチュー。
焼き立ての香ばしいパン。
セバスチャンが手際よく銀のレードルで深皿へと注ぎ分けると、深い赤褐色のスープの中で、ホロホロに崩れる肉と鮮やかな人参が艶やかに踊った。
「乾杯しましょうか。残業のない、平和な毎日の奪還に」
リーゼロッテが冷たい果実水のグラスを持ち上げる。
「乾杯。俺の胃の平穏と、大金貨五千枚の臨時ボーナスにな」
「かんぱーい!」
カチリ、と三つのグラスが軽やかな音を立てて合わさった。
口に運んだ熱々のシチューは、舌の上でとろけるような深いコクと、迷宮素材ならではの滋味に満ち溢れていた。
ひと口食べるごとに、戦いの疲労がじんわりと解けていく。
「おいしい……っ! りーぜ、おにく、やわらかいよ!」
「本当ね。セバスチャン、おかわりをいただくわ」
「かしこまりました、お嬢様。鍋にはまだいくらでもございますよ」
窓の外では、夜の帳が静かに原生林を包み込み、満天の星が瞬き始めていた。
王都の権力闘争も、不条理な冤罪も、すべては遠い過去の残滓。
守るべき居場所と、信頼できる相棒、そして無邪気に笑う家族が、ここには確かに存在していた。




