第37話 復縁要請への完璧な塩対応
夕日に染まる王宮の正面広場。
無能な悪あがきを晒したバルタザールやダミアンらが衛兵たちによって地下牢へと引き立てられ、広場を埋め尽くしていた騎士や民衆の怒号がようやく静まり返った頃。
煤けた王外套を羽織った国王が、重々しい足取りでリーゼロッテの前へと歩み寄ってきた。
その後ろには、近衛兵や生き残った重臣たちが、息を呑んで立ち尽くしている。
「……リーゼロッテ嬢」
国王は掠れた声で名を呼ぶと、深々と、腰を折って頭を下げた。
一国の最高権力者による、公衆の面前での平伏。
かつて公立劇場の夜会で、愚息ジークハルトの茶番を止めきれず、結果としてこの稀代の守護神を手放してしまったことへの、骨の髄からの悔恨だった。
「我が愚息の非礼、そして貴族どもの浅薄な横暴により、そなたに多大なる泥を塗ってしまったこと……どれほど詫びても詫びきれぬ。そなたの類稀なる魔導と武勇がなければ、我が国は今日この日、完全に滅び去っていた」
「お顔をお上げください、陛下」
リーゼロッテは琥珀色の瞳をわずかに細め、至って平然と告げた。
背中に巨大な黒ミスリル大剣を背負い、軽鎧姿のままの彼女の佇まいには、恐縮も、傲慢も、かつての仕打ちに対する恨みすらも存在しない。
どこまでも澄み切った、ただの現場監督の顔だった。
「先ほども申し上げました通り、私はギルド経由で発注された『SSランク特務依頼』の契約を履行したに過ぎません。提示された着手金に見合うだけの作業を行い、現場の保全を完了させました。それ以上でも、それ以下でもございませんわ」
「し、しかし……!」
国王は顔を上げ、すがるような眼差しをリーゼロッテに向けた。
その瞳には、救世主に対する純粋な畏怖と、国家の未来を案じる支配者としての焦燥が滲み出ていた。
「そなたの抜けた王立魔導院は、もはや組織としての体をなしておらぬ。大魔力炉の調律も、近郊ダンジョンの魔獣間引きも、そなたの双肩にかかっていたのだ。……リーゼロッテ嬢。そなたのような至宝を、市井に埋もれさせておくわけにはいかんのだ」
国王は両手を差し伸べるようにして、言葉を重ねた。
「ジークハルトは廃嫡し、北方の修道院へ送った。だが、我が王家には優秀な第二王子がおる。……どうだろうか。そなたさえ良ければ、王家との縁組を改めて結び直し、新たな王太子の正妃として王宮へ戻ってはくれまいか?」
広場が、ざわりと息を呑んだ。
王妃への返り咲き。
一度は「悪役令嬢」として冤罪を着せられ追放された令嬢にとって、これ以上ない名誉挽回であり、国家の頂点へと上り詰める最高峰の提案だった。
取り巻きの貴族たちも、これならば彼女も首を縦に振るに違いないと、固唾を呑んで見守っている。
だが。
リーゼロッテの隣に立っていたカインが、心底呆れ果てたように天を仰いだ。
ボサボサの茶髪を掻きむしり、左耳の通信ピアスを弄びながら、喉の奥で「やれやれ」と呟く。
この男だけは、目の前の元公爵令嬢が何を言い出すかを百パーセント理解していた。
案の定――。
「謹んでお断り申し上げます」
一秒の迷いすらなかった。
リーゼロッテは完璧な角度で腰を落とし、優雅にして一切の隙がないカーテシーを披露した。
その涼やかな声は、広場の隅々にまで染み渡るように響いた。
「……なっ!?」
国王が目を見張り、言葉を失う。
「お、断り、だと……!? 王太子の妃の座だぞ!? 将来の国母として、この国の全権を握る立場すら約束しようというのに……!」
「ええ。重々光栄なお話ではございますが、私には荷が勝ちすぎますわ」
リーゼロッテは微笑みを浮かべたまま、淡々と『理由』を並べ立て始めた。
「そもそも王妃業務とは、拘束時間が極めて長く、早朝の回覧から深夜の夜会外交に至るまで、実質的な二十四時間勤務のブラック労働でございます。その割に個人の裁量権は少なく、経費の承認一つにも宮内省の決裁を何重にも通さねばなりません。おまけに無給でございますし」
「む、無給……? いや、王室の財産は自由に使ってよいのだぞ!?」
「領収書の出ない自由など、経理の観点からすればリスク以外の何物でもありませんわ」
リーゼロッテは至って真面目な顔で、首を横に振った。
「私は現在、王立冒険者ギルドに籍を置く一介の民間研究者。午前中に薬草を摘み、午後は魔獣を解体し、夕方五時には仕事を切り上げてセバスチャンの美味しい料理を食べる……そんな『週五日・定時退社』のフリーランス生活が、性に合っておりますの」
「ふ、フリーランス……」
国王の口から、聞いたこともない単語が掠れて漏れ出る。
「ええ。もし今後、王都の魔力炉が再び目詰まりを起こしたり、手におえない厄災指定魔獣が溢れ出た際には、どうぞギルドを通して正式に外注依頼をお出しくださいまし。適正な相場価格――時給大金貨十枚程度でお見積もりを作成した上で、腕利きの外部コンサルタントとして迅速に現場へ駆けつけますので」
「ぎ、外部コンサルタント……」
完膚なきまでの、事務的塩対応。
愛憎劇も、復讐の念も、権力欲すらもない。
ただただ「劣悪な労働環境への復帰を断固拒否する優秀な職人」の姿がそこにあった。
「……ぷっ、あっはっは!」
堪えきれなくなったカインが、広場に響き渡る声で吹き出した。
肩を揺らしながら歩み出て、国王の前で査察手帳をパチンと鳴らす。
「そういうこった、国王陛下。契約書に署名した三箇条、忘れたわけじゃねえよな? 『今回の現場作業完了をもって、リーゼロッテへの王宮からのあらゆる干渉権の恒久放棄』……これに違反して無理やり婚姻を迫るなら、ギルド連盟として即座に国交断絶の手続きに入るぜ?」
「う……ぐっ……!」
カインに国際規約の刃を突きつけられ、国王はぐうの音も出ずに項垂れた。
手放した魚の巨大さに、ただただ打ちひしがれるしかなかった。
「それでは陛下、皆様。本日の業務時間はとっくに終了しておりますので、これにて失礼いたします」
リーゼロッテはくるりと軽やかに踵を返した。
夕日に照らされる中、背中の漆黒の大剣を揺らしながら、王宮の通用門へと迷いのない足取りで歩き出す。
「おいリーゼ、待てよ! 大金貨五千枚の受領手続きはギルド本部に回させてあっからな!」
「ええ、助かるわカイン。セバスチャンに預けて、アトリエの温室の拡張費用に充てましょう」
ふたりの軽快な会話が、夕暮れの風に乗って遠ざかっていく。
残された王宮の正面広場には、呆然と立ち尽くす国王と貴族たちの姿、そして救世主の背中を見送りながら敬礼を捧げる近衛騎士たちの姿だけが残されていた。




