第31話 地獄の王都と、英雄の帰還
かつて栄華を誇った王都の外郭正門前は、地獄の様相を呈していた。
天を覆い尽くすドス黒い瘴気の雲。
大魔力炉から噴き出し続ける高密度の汚染エーテルは、日光を完全に遮り、真昼の都市を薄気味悪い鉛色の黄昏へと沈めていた。
空気は硫黄と魔力焼けの不快な悪臭に満ち、吸い込むだけで肺腑が焼けるように痛む。
ドォォォォォンッッ!!
重々しい地鳴りとともに、鋼鉄の正門が大きく歪んだ。
門の外側に築かれた三重の防護バリケードは、すでに木片と瓦礫の山となって粉砕されている。
押し寄せているのは、近郊の三つのダンジョンから溢れ出た魔獣の津波。
狂乱状態のオーガ、黒鱗のトカゲモドキ、そして全身に瘴気を纏った巨大な甲殻蟲の群れが、隙間なく街道を埋め尽くしていた。
「ひるむなッ! 槍衾を崩すなッ! ここを抜かれれば、背後の市街地へ雪崩れ込まれるぞッ!」
近衛騎士団・第3大隊長のガレスは、血と泥にまみれた兜の奥から、喉が裂けんばかりの怒声を張り上げた。
手にした片手剣の刃先は、無数の魔獣の骨と甲殻を叩き斬ったせいで、もはや鋸のようにボロボロに刃こぼれしている。
周囲に控える部下の騎士たちも、その半数以上が負傷し、肩で息をしながら必死に盾の壁を支えていた。
大結界という絶対の防壁を失ってから、丸一日。
不眠不休の防衛戦は、すでに騎士たちの肉体と精神の限界をとうに超えていた。
「大隊長! 右翼の第4小隊が壊滅! 防壁の裂け目から変異種が入ってきます!」
「魔導兵の予備魔力ポーションが底をつきました! これ以上、炎壁の維持は不可能です!」
飛び交う悲鳴のような報告。
ガレスは奥歯をギリリと噛み締め、天を仰いだ。
(……ここまでか)
王宮からは、増援どころか撤退の命令すら届かない。
新任の魔導院長らは我先にと逃亡し、残されたのは生身の騎士たちと、逃げ遅れた数十万の無辜の民だけ。
もはや奇跡でも起きない限り、数分後には防衛ラインは完全に決壊し、王都は灰燼に帰す。
その時だった。
グオオオオオオオッッ!!
魔獣の群れの奥から、周囲の個体を押しのけて巨大な影が躍り出た。
体長八メートルを超える変異個体――『双頭の剛腕巨猿』。
硬質な外骨格に覆われた四本の腕を振り上げ、咆哮とともにガレスの頭上へと跳躍した。
大気を圧殺する暴風。
直撃すれば、盾ごとミンチにされることは火を見るより明らかだった。
「総員、散――」
ガレスが退避の号令を叫びかけた、まさにその刹那。
空気が、弾けた。
キィィィィィィンッ!
鼓膜を劈くような高周波の金属音。
それは、大気中の魔力粒子が極限まで超圧縮され、一筋の閃光へと収束した音だった。
直後。
頭上を覆っていた巨大な影の『中心線』に、細い一条の漆黒の光が走った。
ズシャァァァァァンッッ!!!!
轟音。
空中で静止した剛腕巨猿の身体が、まるで定規で引かれたかのように、左右真っ二つに両断されていた。
断面からは一滴の血すら飛び散らない。
局所身体強化による超高圧の斬撃熱が、細胞ごと焼き切っていたからだ。
ドサリと左右に崩れ落ちる巨獣の肉塊。
その間に、静かに舞い降りた一人の人影があった。
トン、と音もなく敷石を捉えた革のブーツ。
深い闇のような輝きを放つ、黒ミスリル鋼の軽鎧。
ポニーテールに束ねられた深緑の長髪が、瘴気の混ざる熱風を切り裂いてふわりとなびく。
そして、その華奢な右肩には――身の丈ほどもある漆黒の両刃大剣が、重さを感じさせない自然体で担がれていた。
「……前線の配置が乱れているわね。遮断壁の角度が甘いから、魔獣の侵入ルートが直線化しているわ」
煙の立ち込める戦場に響いたのは、あまりにも平熱で、澄み渡るような凛とした美声だった。
「……え?」
ガレスは剣を握ったまま、呆然と目を見開いた。
目の前に立つ少女。
琥珀色の鋭く知的な瞳、一切の無駄を削ぎ落とした研ぎ澄まされた立ち姿。
かつて毎朝、夜明け前の薄暗い訓練場に誰よりも早く現れ、資材の手配と魔獣の間引きを淡々とこなしていた、あの絶対的な現場監督の姿がそこにあった。
「り……リーゼロッテ、様……!?」
ガレスの唇が、震えながらその名を紡いだ。
周囲で死を覚悟していた騎士たちも、弾かれたように顔を上げる。
「な、なんだ……!? あの巨猿を一撃で……!?」
「黒い軽鎧に、巨大な黒ミスリルの大剣……まさか……」
「『黒鉄の百舌鳥』……! アルステット公爵令嬢だァァッ!!」
ざわめきは、一瞬にして爆発的な歓声へと変わった。
「現場監督が戻ってこられたぞォォォッ!!」
「リーゼロッテ様だ! リーゼロッテ様が助けに来てくださったぞォォッ!!」
歓喜の叫びが、絶望に沈んでいた前線を雷鳴のように駆け抜ける。
血まみれの騎士たちが、涙を流しながら剣を天へと掲げた。
だが、当のリーゼロッテは歓声に浮かれる様子など微塵も見せず、担いでいた大剣の切っ先をスッと前方へ向けた。
琥珀色の瞳が、押し寄せる無数の魔獣の群れを冷徹にスキャンする。
「私を指名したのは、そちらの国王陛下よ。大金貨五千枚分の外注コンサルタントとして、現場の安全確保に参りました」
リーゼロッテは至って事務的に、平然と言い放った。
「ガレス大隊長。生きている兵を即座に再編しなさい。――ここから先は、私の現場よ」
最悪の地獄と化した王都の門前に、真の英雄が、圧倒的な威容をもって帰還した。




