第30話 非番の終わり、特務出向へ
王都から吹き寄せる熱風には、微かに硫黄と魔力焼けの焦げ臭さが混ざり始めていた。
深い原生林を背負った別邸アトリエの庭園。
木漏れ日が揺れるテラス席の石畳の上に、突風とともに砂利を蹴立てる足音が響き渡った。
「おい、リーゼ! 戻ったぞ!」
ボサボサの茶髪を風になびかせ、黒革の外套を翻して駆け込んできたのはカインだった。
普段の気怠げな足取りとは打って変わり、その手には真新しい羊皮紙の契約書がぎゅっと握りしめられている。
左耳の通信ピアスが、王都の混乱を伝える通信ノイズを拾ってチリチリと青い火花を散らしていた。
「おかえりなさい、カイン。ずいぶんと早かったわね」
リーゼロッテは、朝摘みの『銀霧草』を乾燥トレイへと並べる手を止めず、至って平然と振り返った。
向かいの作業台では、麻のキャスケット帽を目深に被ったベルが、乳鉢を抱えたまま紫水晶の瞳をパチクリと瞬かせている。
「早いも何もねえよ! 王都の外壁、正門前の第3防衛線まで魔獣の津波が押し寄せてやがる。お前を安値で買い叩こうとした無能どもを、ギルドの法規で徹底的に締め上げて書類を作らせてきたぜ」
カインは卓上に、バンッ! と音を立てて羊皮紙を広げた。
そこには、国王の実印である黄金の獅子紋章と、王宮主席文官の血判じみた代理署名が燦然と刻まれていた。
「王立冒険者ギルド最高評議会承認、国家存亡特務依頼・SSランク契約書だ。条件は全部、俺がねじ込んできた」
「あら、仕事が早いわね。どんな条件をもぎ取ってきたのかしら?」
リーゼロッテが楽しそうに細眉を上げると、カインはニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。
「まず、基本報酬は大金貨五千枚の一括前払い。着手金だから、王都がどう転ぼうが全額お前の懐に入る。……それから、これが一番大事なやつだ」
カインはもう一枚、豪奢な金糸で縁取られた小さな羊皮紙の証書を抜き取り、ベルの目の前へと滑らせた。
そこには、王家の百合の紋章とともに、明確な条文が刻まれている。
「『ベル』に対する、国家最高位の永世自由市民権の付与証書だ。国王自らの勅令による身元不可侵の誓約書も添えてある。今後、いかなる貴族や公的機関であれ、このガキの角を詮索したり、害を成そうとした瞬間、その貴族家は国際法違反で取り潰しだ」
「……べるの、かみきれ……?」
ベルがおずおずと小さな指先で証書の端に触れた。
紫水晶の瞳が、金色の文字を不思議そうに見つめている。
カインはベルの頭のキャスケット帽を乱暴にポンと叩いた。
「そうだ。お前はもう、誰にも追われる筋合いのねえ、堂々としたこの国の自由市民だ。胸張ってそこでケーキ食ってていいんだよ」
「……っ! べる……おうちにいられる……?」
「ああ。誰にも文句は言わせねえ」
カインのぶっきらぼうだが温かい言葉に、ベルの顔がぱぁっと明るくなった。
リーゼロッテは満足げに目を細め、契約書の最後の条項へと視線を落とした。
「そして三つ目……『今回の現場作業の完了をもって、リーゼロッテに対する王宮からのあらゆる干渉権の恒久放棄、ならびに完全なる自由行動権の承認』。復縁要請や爵位の押し付けも一切禁止、ね」
「当然だ。現場を救わせておいて、また面倒な宮廷の生贄にされてたまるかよ。お前はただの外注コンサルタントだ。終わったら定時で帰ってきて、ここで好きなだけハーブをこねくり回してりゃいい」
「完璧な契約書ね、カイン。優秀な監察官を持って誇らしいわ」
「褒めても何も出ねえぞ。……で、どうする? 受けるんだろ、このクソ面倒な現場」
「ええ、もちろんよ」
リーゼロッテはハーブの籠をコトッと置き、琥珀色の瞳を王都の空へと向けた。
天を覆う黒い瘴気は、もはや別邸の木々の隙間からでもはっきりと目視できるほどに濃くなっていた。
大地を揺るがす微かな振動が、魔獣の群れが城壁へと激突している音であることを告げている。
「大金貨五千枚に、ベルの完全な自由。これだけの報酬(残業代)が出るというのなら、プロの職人として現場の後始末をしてあげるのが筋というものよ」
リーゼロッテは作業用のエプロンを外し、セバスチャンへと手渡した。
そして、作業台の前にしゃがみ込み、ベルと目線を合わせる。
「ベル。お留守番をお願いできるかしら?」
「……りーぜ、いくの……?」
ベルの小さな手が、リーゼロッテの袖をぎゅっと掴んだ。
瞳には微かな不安が揺れていたが、以前のように怯えて泣きじゃくる様子はない。
「ええ。少し王都まで、散らかったお部屋のお掃除に行ってくるわ。すぐに終わらせて戻ってくるけれど……その間、あなたにとても大切なお仕事をお願いしたいの」
「べるのおしごと……?」
「そうよ。あそこの庭の四隅に埋めてある、青い防護杭が見えるかしら?」
リーゼロッテが指差した先には、彼女が設置した結界発生装置が四本の角杭となって地面に打ち込まれていた。
「私が留守の間、あそこへあなたの魔力をほんの少しだけ流し込んで、アトリエの防護結界を維持してほしいの。あなたの黒炎の魔力はね、とても密度が高くて純粋だから、外からの邪悪な瘴気を完璧に弾き返せるのよ」
「べるのちから……りーぜのおうち、まもれる……?」
「ええ、あなたにしか頼めない最高のお仕事よ。できるかしら?」
ベルはきゅっと唇を結び、紫水晶の瞳に強い光を宿した。
かつて一族から「呪われた力」と蔑まれ、迷宮の底に捨てられた己の魔力。
それを、リーゼは「最高のお仕事」と呼んで信じてくれたのだ。
「……うん! べる、がんばる! おうち、ぜったいまもる!」
「えらいわ、ベル。いい子ね」
リーゼロッテが頭を優しく撫でると、ベルは力強く頷いた。
その光景を見届けたセバスチャンが、恭しく一礼して奥の部屋から重々しい黒塗りの木箱を運んできた。
「お嬢様。……『現場作業着』のご用意が整っております」
「ありがとう、セバスチャン」
箱の蓋が開けられる。
中に収められていたのは、豪奢な貴族のドレスなどではない。
深い闇のような輝きを放つ、黒ミスリル鋼で鍛え上げられた無駄のない軽鎧。
そして、その隣に鎮座する、身の丈ほどもある漆黒の巨大な両刃剣――『黒鉄の百舌鳥』として、数多の凶悪な厄災指定魔獣を単身で解体してきた、彼女の真の得物だった。
リーゼロッテは迷いのない手つきで軽鎧を身に纏い、革の留め金をカチリと締め上げた。
深緑の長髪を高い位置でポニーテールに束ね、背中のホルダーへと巨大な黒ミスリル大剣を滑り込ませる。
ガシャン、と重厚な金属音が響いた瞬間。
先ほどまでのんびりとハーブを摘んでいたおっとりとした令嬢の気配は、完全に消え失せていた。
そこに立っていたのは、数千の魔獣の前にただ一人で立ちはだかり、無慈悲に急所を両断する、大陸最強の討伐者そのものだった。
「準備完了ね」
腰のベルトに、隣国の迷宮深層で採取してきた『万能霊樹の雫』を惜しみなく配合した、超濃縮の冷却ポーションを数本吊るす。
「カイン、ギルドへの連絡は?」
「とっくに済ませてある。王都前線の騎士団には『最強の外注コンサルが向かうから、首を洗って門を開けて待ってろ』って通信を入れてやったぜ」
「物騒な言い回しね。私はただ、契約通りの作業を淡々とこなすだけよ」
リーゼロッテはクスリと笑い、庭の出口へと歩みを進めた。
門扉の前で立ち止まり、振り返る。
「行ってくるわ、ベル。セバスチャン、夕食には熱々のビーフシチューをお願いね」
「かしこまりました。最高のお肉を煮込んでお待ち申し上げておりますぞ」
「りーぜ、いってらっしゃい!」
ベルが元気に手を振る姿を目に焼き付け、リーゼロッテは大剣の柄に手をかけた。
遠く王都の空で、再び雷鳴のような轟音が響き渡る。
だが、その破滅の足音に怯える者は、もはやこのアトリエには誰一人としていなかった。
「さて――」
リーゼロッテの琥珀色の瞳が、獲物を狙う猛禽のように鋭く光る。
「私の穏やかな非番の日々を取り戻すために、さっさと厄介なゴミ掃除を終わらせてしまいましょうか」
黒き風が吹き抜け、彼女の姿は一瞬にして前庭から掻き消えていた。
国家の命運を賭けた、圧倒的な現場無双の幕が、今まさに上がろうとしていた。




