第28話 国王自らの親書
黒煙渦巻く王都の空の下、王宮正殿の空気は死の静寂に包まれていた。
玉座に崩れ落ちるように腰掛けた国王の眼前には、泥と血にまみれた近衛騎士団・第3大隊長のガレスが片膝をついている。
普段ならば不敬と咎められるはずの、返り血を浴びた甲冑のままでの登城。
だが、もはやそんな形式的な礼儀作法を口にする重臣は誰一人として存在しなかった。
「……ガレス。外壁の状況はどうだ」
国王の掠れた問いに、ガレスは唇を噛み締め、悔しさを滲ませながら頭を垂れた。
「……第3大隊、第4大隊ともに死傷率が四割を超えました。地下炉心から噴き出す瘴気に呼び寄せられ、近郊の三つのダンジョンから溢れ出た魔獣の数はすでに五千を突破。外郭門のバリケードはあと半日と持ちません」
「防衛魔法陣の再構築は……魔導院には頼めぬのか」
「魔導院の残党は、炉心の熱暴走を前にして一人残らず逃亡いたしました。……もはや、我が騎士団の生身の肉壁で押し留めるのも限界です」
ガレスの言葉が、冷たい刃となって国王の胸を抉る。
すべては、自らの不見識が招いた結末だった。
現場を理解せず、書類の帳尻合わせと甘言に踊らされ、真に国を支えていた少女を切り捨てた。
その結果が、この国家滅亡の危機である。
逃げ出した新任魔導院長バルタザールや、保身のために虚偽の密告を繰り返したダミアンへの怒りすら、今や自分自身の愚かさへの絶望にかき消されていた。
「……余が、国を滅ぼしたのだ」
国王は震える両手で顔を覆った。
王冠が額から滑り落ちそうになる。
もしこのまま王都が陥落すれば、数十万の民が魔獣の爪牙にかかり、数百年の歴史を誇る王国は今日この日をもって地図から消滅する。
「陛下」
重苦しい沈黙を破ったのは、ガレスの低く力強い声だった。
「残された道は、ただ一つしかございません」
「……一つ?」
「冒険者ギルドへ、国家存亡に関わる特務依頼を正式に発行なされることです。それも、一介の討伐依頼ではなく……王国の全権委任を伴う最高ランクの特命契約として」
「ギルドだと……? だが、王都のギルド本部は先刻、憲兵隊が別邸へ乱入した件を理由に、我が国との公式協力関係を全面凍結したと通告してきたばかりだぞ」
「ですから、陛下ご自身の手でございます」
ガレスは琥珀色の瞳を真っ直ぐに上げ、国王を見据えた。
「プライドをお捨てなさいませ。王家の体面も、過去の経緯も、すべてをかなぐり捨てて……国王陛下自らの直筆をもって、リーゼロッテ様に頭をお下げになるのです」
「……リーゼロッテ、に」
「あの方しかおられません。この地獄のような炉心を鎮め、押し寄せる魔獣の津波を押し返し、王都の民を救えるのは……あの方をおいて他に、この大陸のどこにも存在しないのです!」
ガレスの魂の叫びが、広大な謁見の間に木霊した。
国王は息を呑み、天井を仰いだ。
かつて息子ジークハルトが「可愛げのない悪女」と罵り、自分自身もまた「生意気な公爵令嬢」として軽く見ていた少女。
その少女に、一国の王が公的に頭を下げ、救いを乞う。
それは王家にとって、建国以来最大の屈辱であり、敗北宣言に他ならなかった。
だが――。
(屈辱など……民の命に比べれば、砂粒ほどの価値もない)
国王の瞳に、わずかな光が戻った。
自らの愚行を償うための、最後にして唯一の覚悟。
「……文官を呼べ」
国王は立ち上がり、玉座の脇の執務机へと向かった。
「最上級の羊皮紙と、王家の真紅の封蝋を用意せよ。――余が自ら、親書を認める」
***
数時間後。
王都の中心部にそびえる、冒険者ギルド中央本部ビル。
一階のロビーは、近郊から避難してきた冒険者や市民たちでごった返していたが、三階の『特務監察室』のフロアだけは、氷のような静寂が支配していた。
コン、コン。
控えめなノックの音と共に、豪奢な礼装に身を包んだ王宮の主席文官が、数名の近衛兵を引き連れて部屋へと足を踏み入れた。
文官の額には脂汗が滲み、その手には紫色の絹布で包まれた、重々しい木箱が捧げ持たれている。
「……王立冒険者ギルド特務監察官、カイン・レドフォード殿とお見受けいたします」
部屋の奥。
執務机に両足を投げ出し、気怠げに通信ピアスの周波数を調整していたカインが、ゆっくりと灰色の瞳を向けた。
「ノックは三回って学校で習わなかったか? それに、今はギルド業務の全面凍結中だ。王宮の役人が土足で踏み込んでいい場所じゃねえよ」
「非礼は重々承知の上でございます! ですが……どうか、これをお改めいただきたいのです!」
文官は深々と頭を下げ、卓上に木箱を差し出した。
箱の蓋が開けられる。
中から現れたのは、金糸の縁取りが施された羊皮紙の巻物。
そこには、現国王の実印である黄金の獅子紋章と、直筆による震えるような署名が刻印されていた。
「国王陛下自らの直筆による親書でございます。――冒険者ギルドに対する『国家存亡特務依頼』。ランク指定は、大陸規約に基づく最高峰……SSランク」
「……へぇ」
カインは投げ出していた足を下ろし、手袋を嵌めた指先で巻物を引き寄せた。
パラパラと視線を走らせる。
『王都大魔力炉の緊急鎮定、ならびに近郊ダンジョン氾濫魔獣の殲滅』
『受任指名者:王立冒険者ギルド所属 リーゼロッテ・フォン・アルステット殿』
「指名依頼、ねぇ。あの傲慢な王宮が、ずいぶんと殊勝な真似をしてくれるじゃねえか」
「我が国の存亡がかかっております! リーゼロッテ様の手をお借りできねば、王都は今日明日にでも灰燼に帰すのです! どうか、至急この依頼書をあの方へお渡し願いたい!」
文官は床に額を擦り付けんばかりにして懇願した。
かつてリーゼロッテを「冷血な悪女」と蔑み、ダミアンの讒言に乗って憲兵隊を差し向けた王宮の面影は、もはや微塵も残っていなかった。
だが、カインは同情するどころか、冷え切った口元に薄い笑みを浮かべた。
「国王直筆の親書、しかと確認した。……だがな、役人さんよ」
カインは査察手帳を取り出し、ペン先を机にトントンと打ち鳴らした。
「ギルド規約第十五条『特命指名依頼の受託要件』。指名された討伐者がその依頼を受けるかどうかを決める権利は、百パーセント受任者の側にある。王命だろうが何だろうが、今のリーゼロッテはただの民間冒険者だ。嫌だと言われりゃ、この紙切れはただのゴミ箱行きだぜ?」
「そ、そこを何とか……! 報酬なら王家の国庫を開いてでも――」
「報酬の話をするなら、もっと腰を据えてやろうや」
カインは灰色の瞳をギラリと光らせ、獰猛な笑みを深めた。
「俺はギルドの特務監察官だ。うちの最高戦力を危険な現場へ派遣する以上、安売りする気は一ミリもねえよ。……さあ、契約条件の詰めに入ろうか。王宮の予算、全部吐き出す覚悟はできてるんだろうな?」
絶望に青ざめる王宮使節団を前に、有能にして容赦のない公務員による、冷徹極まりないビジネス交渉の幕が切って落とされようとしていた。




