間話 極寒の修道院と、泥に塗れた男爵領
王都から遥か北方に位置する、雪に閉ざされた辺境の修道院。
吹きすさぶ吹雪の中、一人の青年が重い斧を振り下ろしていた。
「くそっ……! なぜ、私がこんなことを……!」
元第一王子、ジークハルトである。
着飾っていた豪奢な礼装は取り上げられ、今はチクチクとする粗末な麻の修道服を身に纏っている。
これまで剣の稽古すら真面目にしたことのなかった彼の手のひらは、硬い樫の薪を割る作業によって無数のマメが潰れ、赤黒い血と泥にまみれていた。
スパーンッ、と綺麗に割れることはない。
何度も何度も不格好に刃を打ち付け、手が痺れるほどの痛みに耐えながら、ようやく一本の薪が割れる。
(※奇しくも同時期、リーゼロッテのアトリエでは、小さな魔族の少女ベルが特大包丁を使って、楽しそうに綺麗な薪を量産していた)
「おい、新入り! 手が止まっているぞ! 今日のノルマが終わるまで、夕食の硬パンとスープは抜きだからな!」
監視役の屈強な修道士から、容赦ない怒声と鞭の音が飛ぶ。
「ひっ……! わ、分かっている!」
ジークハルトは震える手で斧を握り直した。
ここは王宮ではない。身分を剥奪された彼に傅く者は誰一人おらず、ただの労働力として扱われるだけの冷酷な世界だった。
「……リーゼロッテめ……! あの女さえ、あの日夜会に来ていれば……!」
ジークハルトは荒い息を吐きながら、未だに己の不幸を元婚約者のせいにして呪詛を吐き続けていた。
だが、その時。
修道院の門が開き、王都から物資を運んできた行商人の馬車が雪を掻き分けて入ってきた。
御者台から飛び降りた商人たちが、修道士たちと何やら青ざめた顔で話し込んでいる。
「聞いたか!? 王都の大結界が消滅したらしいぞ!」
「魔導院の炉心が爆発して、街が黒い瘴気に包まれたって話だ! 近郊のダンジョンから魔獣が何千頭も溢れ出して、外壁が破られるのも時間の問題だと……!」
その言葉が風に乗って耳に届き、ジークハルトの動きがピタリと止まった。
「……は? 王都が、魔獣に……?」
思わず斧を取り落とし、ジークハルトは行商人たちへと駆け寄った。
「お、おい! それは本当か!? 大結界は魔導院が完璧に管理しているはずだ! そんな簡単に落ちるはずが――」
「あんた、ニュースを知らないのか?」
行商人が哀れむような目でジークハルトを見た。
「大結界を一人で維持して、近郊の魔獣を毎朝一人で間引いてた『黒鉄の百舌鳥』……アルステット公爵令嬢が、アホな王子に婚約破棄されて王宮を出ていったんだよ。現場の要を追い出したんだ、残された無能な貴族どもに維持できるわけがないだろう」
「な……」
ジークハルトの頭を、鈍器で殴られたような衝撃が貫いた。
現場の要。
一人で維持していた。毎朝間引いていた。
かつての記憶が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
いつ王宮で会っても、彼女は可愛げのない作業着姿で、微かに泥や鉄の匂いを漂わせていた。
愛を語りかけても「事務的な返答」しか返ってこなかった。
それは、彼女が自分を見下していたからではない。
国を、そして自分たち王族の命を守るため、誰にも知られずに毎朝未明から魔獣の血と泥にまみれ、文字通り身を粉にして現場で戦い続けていたからだ。
彼女の手は、今の自分と同じように、いやそれ以上に、剣のタコと魔力焼けによる傷だらけだったはずだ。
それなのに自分は、彼女のその手を「可愛げがない」と切り捨て、着飾って媚びを売るだけの女を選んだ。
「あ……ああ……」
ジークハルトは雪の上に膝から崩れ落ちた。
王宮が燃えている。自分の家族が、民が、魔獣に食い殺されようとしている。
その引き金を引いたのは、他でもない自分自身の『無知と傲慢』だったのだ。
「私が……私が、この国を滅ぼしたのか……!」
ジークハルトは顔を両手で覆い、極寒の雪空の下、誰にも届かない絶望の慟哭を響かせた。
***
同じ頃、王都から遠く離れた貧しい男爵領。
かつて王立学園で「可憐な桜」と持て囃されていた男爵令嬢アンネリーゼは、泥にまみれた粗末な木綿の服を着て、荒れた芋畑で土にまみれていた。
「ああっ、もう! どうして私がこんな泥仕事を……!」
アンネリーゼは土のついた手で顔を拭い、苛立たしげにクワを投げ捨てた。
王太子を唆した悪女として社交界から追放され、実家の男爵領へ幽閉されて数週間。
公爵令嬢から王子を奪い取り、次期王妃として華やかなドレスを着て贅沢三昧の生活を送るはずだった彼女の夢は、儚く散り去っていた。
「おい、アンネリーゼ! サボるんじゃない!」
畑のあぜ道から、血走った目をした父親の男爵が怒鳴りつけてきた。
手には、王都の借金取りから突きつけられた督促状が握りしめられている。
「お前が王太子殿下をたぶらかして失脚したせいで、我が家は完全に社交界のつまはじきだ! 援助も打ち切られ、もはや破産寸前なんだぞ!」
「私ばかり責めないでよ! お父様だって『王子を捕まえろ』って応援してたじゃない!」
「口答えするな! ……いいか、王都の豪商であるゲイツ氏が、お前を後妻に迎えてもいいと言ってくださっている。年齢は六十を越えているが、背に腹は代えられん。来週には嫁入り道具をまとめて出ていけ!」
「ろ、六十の平民の商人!? 嫌よ! 私は王太子の妃になるはずだった女よ!」
アンネリーゼが悲鳴を上げて座り込むが、父親は冷酷に言い放った。
「その王太子はもう修道院の罪人だ! それに、今や王都は大魔力炉の暴走で魔獣に包囲され、滅亡寸前だという噂だ。お前を買い取ってくれる物好きな成金がいるだけでもありがたいと思え!」
父親が苛立たしげに去っていくと、アンネリーゼは泥だらけの畑で一人、声を上げて泣き崩れた。
「どうして……どうしてこうなったの……!」
涙で視界が滲む中、彼女の脳裏に、あの日夜会に来なかったリーゼロッテの姿がよぎった。
いつも無表情で、自分と王子がイチャついていても、まるで路傍の石を見るように気にも留めなかった公爵令嬢。
自分は「あきらめて逃げた」のだと勝ち誇っていた。
だが現実は違った。リーゼロッテは、最初から自分たちのような取るに足らない存在を、同じ土俵にすら上げていなかったのだ。
国を背負う本物の強者。
その足元で、自分は「愛」だの「寵愛」だのと騒いで、必死に王子という名の泥船にしがみついていた、ただの哀れなピエロでしかなかった。
「……私の、負け……。最初から、戦いにすら……なっていなかったのね……」
アンネリーゼの虚ろな呟きは、誰の耳にも届くことなく、荒れた冬枯れの畑の風に消えていった。
破滅の引き金を引いた愚か者たちが、それぞれの場所で完全なる絶望と後悔に沈む中。
彼らが追い出した「悪役令嬢」は、ただ一人、国の命運を握る外注コンサルタントとして、今日もアトリエで極上のハーブティーを優雅に楽しんでいるのだった。




