第27話 国王の絶望と、真実の露見
王宮の地下通路は、吐き気を催すような硫黄の臭気と、ドス黒い瘴気で満たされていた。
非常用の青白い魔導灯がチカチカと不吉に明滅する中、重々しい足音が瓦礫を踏みしめて響く。
豪奢な王外套の裾を煤で汚しながら、近衛兵たちに守られて地下へ駆け下りてきたのは、この国の最高権力者である国王その人だった。
「……なんという様だ」
中央炉心区画の巨大な防壁鉄扉を押し開けた瞬間、国王の喉から呻きが漏れた。
かつて静謐な青白い魔力光を湛えていたはずの水晶の空間は跡形もなく吹き飛び、そこには巨大な黒い火口のような異界が広がっていた。
炉心の中央コアは赤黒く沸騰し、蜘蛛の巣のように走った亀裂から、コールタール状の瘴気が滝のように床へと溢れ出している。
数百年にわたり王都の防衛を支えてきた制御用の魔導術式はことごとく焼け焦げ、計器盤は破裂して火花を散らしていた。
「バルタザールはどうした! 魔導院長はどこにおる!」
国王の怒声に、煤まみれになって床に倒れ込んでいた老魔導士が、震える声で答えた。
「は、伯爵閣下なら……炉心が暴発した直後、『直ちに本邸へ戻り、対抗術式の典籍を調べる』と言い残し……すでに馬車で逃走されました……」
「逃げただと……!?」
国王は額に青筋を浮かべ、拳を握りしめた。
あの男が「リーゼロッテの仕掛けた罠を正す」「我がグロース家の魔導こそが至高」と豪語していたからこそ、予算を倍増させ、炉心の全権を預けたのだ。
それが、事態が取り返しのつかない崩壊を迎えた途端、真っ先に部下を見捨てて逃げ出したというのか。
「陛下! ここも危険です、直ちに地上へ避難を!」
「地上とて同じことだ!」
国王は近衛兵の手を振り払った。
すでに王都大結界は完全に消滅し、噴き上がった瘴気は天を覆い、全方位から押し寄せる魔獣の津波によって外壁の門は破砕寸前。
逃げ場など、この王国のどこにも残されていなかった。
「なぜだ……! なぜ、これほど脆く崩れ去るのだ! 我が国の王都防衛機構は、過去数百年にわたり盤石を誇っていたはずではないのか!」
国王の悲痛な叫び。
その言葉に、計器盤の残骸にしがみつき、必死で冷却ラインの元栓を締めようとしていた一人の現場技師が、弾かれたように顔を上げた。
手のひらを火傷で真っ赤に腫らし、作業着を泥と油で汚した、下級の魔導職人だった。
「……盤石だったんじゃないッ!!」
職人の男は、国王に向かって血を吐くように叫んだ。
不敬罪など知ったことかと言わんばかりの、極限状態の怒りと絶望。
「この炉心が動いていたのは、王家の血筋でも、魔導院の偉そうな貴族様たちのおかげでもねえ! 全部……全部、リーゼロッテ様がお一人で支えてくださっていたからだァッ!!」
「な……何を申すか……! リーゼロッテだと……?」
「そうだ! あんたら宮殿の連中は、あの方が毎朝何時にここへ降りてきていたか知ってんのか!?」
男は涙と煤の混ざった顔を歪め、焼け焦げた床を激しく叩いた。
「毎朝四時だ! 夜会も着飾りも放り出して、たった一人でこの焦熱の底へ潜り、歪んだ配管をその手で叩いて直し、何百本もある魔力循環ラインをミリ単位で調律してくださっていた! 炉心が熱を持てば、自ら危険な迷宮から採取してきた極上の冷却薬草を惜しげもなく投入し、変異が起きれば自ら大剣を担いで近郊ダンジョンのボスを間引きに行っていたんだ!」
「ば……馬鹿な……。そのような報告、余の耳には一度も――」
「届くわけねえだろうがッ!」
男は床に唾を吐き捨てた。
「バルタザール伯爵も、ジークハルト殿下も、現場の報告書なんて読んじゃいなかった! 『今日も異常なし』という書類のハンコだけ見て、自分たちの手柄にして予算を着服していたんだ! あの方がいなくなってから、まだ一ヶ月も経ってねえんだぞ!? たった一ヶ月でこのザマだ!」
「…………っ!」
国王の身体が、雷に打たれたように硬直した。
現場の職人たちの叫び。
そして、先ほど地上で血まみれになって戦っていた近衛騎士団・ガレス大隊長の憤怒の形相。
すべての点と点が、恐るべき一本の線となって国王の脳内で繋がった。
愚息ジークハルトが「冷血で可愛げのない悪女」と罵り、公衆の面前で切り捨てた少女。
無能な貴族たちが「手柄を横取りし、後任に嫌がらせをして逃げた国賊」と擦り付けていた公爵令嬢。
彼女こそが。
この国の安全、流通、防衛、そして生命線のすべてを、人知れず一人で回し続けていた真の守護神だったのだ。
自分たち王家が追い出したのは、ただの生意気な令嬢などではない。
この国の命を繋ぎ止めていた、たった一つの『心臓』そのものだった。
「……余は……王家は、なんという取り返しのつかない過ちを犯したのだ……」
国王の膝が、ガクガクと震えた。
床に崩れ落ちそうになる身体を、近衛兵が慌てて支える。
「陛下! 瘴気の濃度が限界です! 地上へ!」
「……手遅れだ。余の国は……今日、滅びる……」
虚ろな瞳で天井を見上げる国王。
割れた結界の隙間から、遠く外壁で戦う兵士たちの悲鳴と、魔獣の地響きのような咆哮が、地下深くにまで容赦なく木霊していた。
自らの傲慢と愚かさによって手放した至宝の重みを、滅びの淵に立たされて初めて、王家は骨の髄まで思い知らされていた。
***
その頃。
立ち上る黒煙と魔獣の咆哮に包まれた王都から、街道を大きく離れた原生林の奥深く。
木漏れ日が柔らかく差し込む別邸アトリエの中庭には、まるで別世界のような静寂が広がっていた。
澄んだ風がハーブの葉を揺らし、鳥のさえずりが心地よく響いている。
錬鉄製の丸テーブルの上には、先刻届いたばかりの濃紺の封筒が置かれていた。
隣国ガルディニア帝国の国章である『双頭の飛竜』の金の封蝋。
その横には、開かれた羊皮紙が滑らかな紙肌を広げている。
「帝国直轄の最高ランク研究機関をまるごと一棟新設、全権委任長に就任。研究費は国家魔導予算の三割を無制限支給……それに、ベルの永世名誉市民権の付与と身元不可侵の完全保証、ねぇ」
テラスの木製チェアに腰掛けたカインが、査察手帳を指先で回しながら、呆れたようにため息を漏らした。
「何度見ても目ん玉が飛び出るような条件だな。おいリーゼ、本気で本国を見限ってこれにサインしたって、世界中の誰も文句は言わねえぞ。王都の空を見ろよ。真っ黒な瘴気が天蓋を塞いで、完全にお陀仏寸前だ」
「あら、サインならいつでもできるわ」
リーゼロッテは、朝摘みの『銀霧草』を乾燥トレイへと手際よく並べながら、平然と肩を竦めた。
深緑の長髪を無造作に後ろで束ね、身に纏っているのは着慣れた麻の作業着。
王都の上空に噴き上がる不吉な黒い瘴気など、彼女の目には「天候の崩れ」程度にしか映っていないようだった。
「でもね、カイン。隣国へ行くということは、現地の貴族連中へのご挨拶や、新しい設備の立ち上げといった面倒な雑務が山積みになるということよ。せっかく手に入れたこの快適なアトリエと、自由気ままな非番ライフを、引っ越し作業なんかで潰すのはもったいないと思わないかしら?」
「お前のその、国家存亡の危機を前にしてのマイペースぶり……本気で頭蓋骨を開けて学会に提出したくなるぜ」
「失礼ね。極めて合理的な労働環境の比較よ」
リーゼロッテはクスリと笑い、テーブルの向かいへと視線を向けた。
そこでは、麻のキャスケット帽を目深に被ったベルが、小さな両手でガラスの乳鉢を抱え込み、真剣な面持ちで薬草を擂り粉木でゴリゴリとすり潰していた。
紫水晶の瞳を細め、集中している。
かつて迷宮の冷たい石牢で怯えていた面影は消え去り、その横顔には小さな職人としての誇らしげな光が宿っていた。
「……りーぜ、これくらい……? さらさらになったよ」
「どれどれ……あら、素晴らしいわ、ベル。粉末の粒が均等に揃っているわね。百点満点よ」
「えへへ……! べる、がんばった!」
リーゼロッテが頭をぽんぽんと撫でてやると、ベルは嬉しそうに目を細め、胸元にすり寄ってきた。
頭頂部のキャスケット帽の奥、小さな二本の巻き角からは、余分な黒炎の火花一つ漏れ出ていない。
リーゼロッテの『魔力調律』によって、体内の魔力回路は完全に安定し、幼い魔族の少女は穏やかな日常を完全に謳歌していた。
「セバスチャン、ベルに冷たい果実水を一杯持ってきてあげてちょうだい」
「かしこまりました、お嬢様。すぐにお持ちいたします」
テラスの影から優雅に一礼したセバスチャンが、銀のトレイを手に厨房へと戻っていく。
その穏やかな光景を見つめながら、カインは苦笑混じりに天を仰いだ。
「しかしよ、リーゼ。地下炉心の暴走が地上まで吹き抜けたってことは、もうあの国の魔導院じゃ逆立ちしたって止められねえぞ。炉心コアが完全に沸騰して、周囲のエーテルを喰らい尽くす魔獣の巣穴と化してるはずだ」
「ええ、知っているわ。私が現場を離れてから、ちょうど一ヶ月。よくここまで持ったほうだわ」
リーゼロッテはハーブの籠をコトッと置き、冷めかけたカップを手に取った。
「私が毎日欠かさず行っていた、炉心の魔力歪みの補正。そして、隣国の未踏迷宮から調達していた特殊な冷却触媒液による循環ラインの洗浄……それらを全部『無駄なコスト』と切り捨てて、安価な代替品を詰め込んだのでしょうね。結果は火を見るより明らかだわ」
「自業自得、因果応報ってやつだな」
「そうよ。自分たちで招いた破滅のツケを、他人にタダで払わせようとするなんて厚かましいにも程があるわ」
琥珀色の瞳を冷ややかに細めるリーゼロッテ。
彼女はかつて、婚約者であったジークハルトにも、王宮の重臣たちにも、何度も現場の重要性を説いてきた。
だが返ってきたのは、嘲笑と、蔑みと、公衆の面前での婚約破棄だった。
「だからこそ、待つのよ」
リーゼロッテは隣国からの親書を指先でトンと叩いた。
「王都が完全に魔獣に包囲され、自分たちの無力と罪の重さを骨の髄まで理解した時……国王自らが、泥水に頭を擦り付けてここへ頭を下げにやってくるはずよ。――その時こそが、最高の商談の始まりだわ」
「……へっ。悪役令嬢とはよく言ったもんだ。どっちが国を脅かす魔王か分かりゃしねえな」
「あら、正当な市場価値に基づいた価格交渉よ。職人の技術を安売りしないのは、プロとして当然の矜持でしょう?」
テラスに、ふたりのカラッとした笑い声が響く。
王国の命運が風前の灯火となる中、すべてを一人で支えていた現場の支配者は、どこまでも優雅に、破滅の足音を迎え撃つ準備を整えていた。




