第26話 【臨界点】王都大魔力炉の制御不能
王宮の地下数十メートル。
数百年にわたり王都の全機能を支え続けてきた心臓部、『王立大魔力炉・中央炉心区画』。
かつてリーゼロッテが管理していた頃、そこは澄み切った青白いエーテル光が静謐に巡る、巨大な水晶洞窟のような神聖な空間だった。
だが今、その場所は完全に阿鼻叫喚の焦熱地獄へと成り果てていた。
ビシィッ……! メキメキメキッ!
炉心を取り囲む分厚いミスリル鋼の防壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走り、凄まじい金属疲労の悲鳴が地下空間に反響する。
中央に鎮座する巨大な球体コアは、許容量を遥かに超えた魔力圧により、ドス黒い赤紫色の光を放ちながら不規則に激しく脈動していた。
「ひ、ヒィィッ! 炉心温度、さらに上昇! 限界安全値を八百パーセント突破しました!」
「冷却水循環パイプ、全ラインが破裂! 蒸発した魔力蒸気で隔壁が溶け始めています!」
計器盤の前に張り付く下級魔導士たちが、絶望的な数値を叫び立てる。
床に散乱しているのは、割れた氷霊石の破片と、無残に焼き焦げた安価な代替薬品の残骸。
新任のバルタザール伯爵が「コスト削減と我が家の正統魔導の導入」と称して炉心へ無理やり流し込んだ不純物が、魔力回路を完全に目詰まりさせ、巨大な魔力の逆流を引き起こしていた。
「な、なんとかしろッ! 冷却術式を二重に展開しろと言っているだろうが!」
煤で顔を汚したバルタザールが、引きつった声で喚き散らす。
だが、現場の魔導士の誰もが、その命令の無意味さを知っていた。
「無理です閣下! 純度の低い魔力結晶を無理やり押し込んだせいで、炉心自体が暴走した『魔獣の巣穴』と同じ状態に劣化しています!」
「リーゼロッテ様の特殊触媒液による魔力調律がなければ、炉心内部の圧力勾配を整えることなど神にしかできません!」
「ええい、黙れ黙れ! あの小娘の名を出すな!」
バルタザールがヒステリックに叫んだ、その瞬間だった。
ドゴォォォォォォンッッッ!!!!
腹の底を揺さぶるような大爆発が、中央コアの基部で発生した。
吹き飛ぶ計器盤。
飛び散る破片と高圧の魔力蒸気が、周囲の魔導士たちを容赦なく薙ぎ払う。
そして――。
炉心の亀裂から、ドロリとしたコールタールのような『黒い瘴気』が、猛烈な勢いで吹き上がり始めた。
「な……なんだ、あれは……!?」
バルタザールが腰を抜かし、這いつくばりながら見上げる。
それは、行き場を失い、腐敗し、暴走した高密度魔力が凝縮して生まれた、純粋な『厄災の泥』だった。
瘴気は地下の換気シャフトを伝い、恐るべき速度で地上へと噴き上がっていく。
直後。
空を覆っていた『王都大結界』が、甲高いガラスの割れるような音を立てて――完全に弾け飛んだ。
***
王都の上空。
数百年にわたり街を守り続けてきた青い光膜が、砂のようにサラサラと崩れ去っていくのを、数十万の市民たちが呆然と見上げていた。
結界の消失。
それと同時に、王宮の尖塔の頂点から、不吉な黒い瘴気の柱が天高く噴き上がった。
黒煙は空を覆い尽くし、真昼の太陽を呑み込み、王都全域を不気味な薄闇へと塗り替えていく。
「け、結界が消えた……?」
「空から、黒い霧が……!?」
市民たちが恐怖にざわめく中、さらに恐ろしい異変が地上を襲った。
グオオオオオオオッッ!!
ギャアアアアアッッ!!
王都を取り囲む四方の山々、そして街道の彼方から、大地を揺るがす無数の咆哮が地鳴りのように響き渡った。
暴走した大魔力炉から噴き出した超高濃度の瘴気。
それは、本能で魔力を求める魔獣たちにとって、大陸全土に届くほどの『極上の撒き餌』に他ならなかった。
近郊のあらゆるダンジョン、未踏の森林、深い渓谷から溢れ出した魔獣の群れが、黒煙の立ち上る王都を目指して狂乱の行進を始めていた。
有史以来、一度も起きたことのない規模の――超巨大ダンジョン・スタンピードの発生である。
「た、隊長! 北の森から三千を超える魔獣の群れが街道を埋め尽くしています!」
「南の坑道からも変異種の巨獣が出現! 防壁のバリケードが丸ごと圧殺されました!」
外壁の城門前で、近衛騎士団・第3大隊長のガレスが、血の涙を流さんばかりの形相で剣を構えていた。
大結界という盾を完全に失い、押し寄せる魔獣の津波を、生身の騎士たちだけで迎え撃たねばならない。
「全軍、迎撃態勢をとれッ! 命に代えても王都の民を守り抜けェェッ!!」
ガレスの絶叫が、黒く染まった空へと虚しく響き渡る。
無能な上層部が招いた破滅の濁流が、ついに王国そのものを呑み込もうとしていた。
***
その頃。
黒煙渦巻く王都から数キロ離れた、原生林の別邸アトリエ。
木漏れ日が揺れる庭園では、王都の異変を伝える地鳴りが、微かな振動となって芝生を揺らしていた。
「……あ。りーぜ、お空がまっくろになってる」
庭のテーブルで薬草を乳鉢ですり潰していたベルが、手を止めて遠くの空を指差した。
麻のキャスケット帽の陰から覗く紫水晶の瞳が、王都の上に立ち上る黒い瘴気の柱を捉えている。
「ええ。ついにやらかしたみたいね」
リーゼロッテは、手にした剪定鋏をカチリと鳴らし、至って平然と空を見上げた。
琥珀色の瞳は、吹き上がる瘴気の魔力波長を一瞬で分析し、その深刻さを正確に把握していた。
「代用品で誤魔化すにも限界があると言ったのに。炉心のエーテル循環を完全に逆流させて、結界を吹き飛ばしたわね。……あれはもう、素人の小細工じゃ止まらないわ」
「おいおい……マジかよ」
テラスの柵に寄りかかっていたカインが、左耳の通信ピアスを押さえながら顔を引きつらせた。
ピアスからは、本国のギルド本部が受信している悲鳴のような緊急警報が、ひっきりなしに漏れ聞こえている。
「王都大結界が完全消滅、地下炉心から高濃度瘴気の噴出、近郊全域でスタンピード誘発……。これ、一国の防衛崩壊どころじゃねえぞ。国家滅亡の特級災害警報だ」
「でしょうね。私が残した冷却触媒のストックも、とっくに使い切ったか捨てたのでしょうし」
リーゼロッテはふぅと短く息を吐くと、摘み取ったばかりの『銀霧草』の束を籠へと収めた。
その佇まいには、動揺も、恐怖も、焦りも、ただの欠片すら存在しない。
「カイン。隣国からのスカウトの親書、まだそこにあるかしら?」
「あ? ああ、テーブルの上に置いてあるが……」
「綺麗に埃を払って、一番目立つ場所に飾っておいてちょうだい」
リーゼロッテは楽しそうに目を細め、琥珀色の瞳をギラリと知的に輝かせた。
「そろそろ王宮の偉い方々が、プライドも体裁も全部かなぐり捨てて、泥水に頭を擦り付けにやってくる頃合いよ。――最高の商談の席を、整えて差し上げなくてはね」
滅びゆく王国の悲鳴を遠くに聞きながら、悪役令嬢はどこまでも優雅に、冷徹な微笑みを浮かべるのだった。




