第25話 隣国からの破格のスカウト
銀のトレイの上に載せられた、濃紺の上質な封筒。
封蝋には、隣国ガルディニア帝国の国章である『双頭の飛竜』が、金の浮き彫りとなって燦然と輝いていた。
「……隣国の特使から、私宛てに親書?」
リーゼロッテは手袋を外し、セバスチャンから封筒を受け取った。
ペーパーナイフで丁寧に封を切ると、中からは高貴な香煙の香りをまとった、極厚の羊皮紙が現れる。
テラスの向かいで苦いハーブティーを啜っていたカインが、左耳の通信ピアスを揺らしながら眉をひそめた。
「おいおい、隣国の王家直轄ルートじゃねえか。ギルドの正規連絡網をすっ飛ばして、直接別邸に送りつけてきやがったぞ。何が書いてあんだ?」
「そうね、ええと……」
リーゼロッテは琥珀色の瞳を走らせ、サラサラと綴られた流麗な文字を拾い上げていく。
作業台の隅でガラスの乳鉢を握っていたベルも、何事かと紫水晶の瞳をパチパチと瞬かせていた。
「『親愛なるリーゼロッテ・フォン・アルステット殿。先日の未踏迷宮踏破、並びに深層の異常個体鎮定の手腕、心より敬服いたす』……あら、あの時の遠征、隣国の宮廷魔導部にも筒抜けだったみたいね」
「当たり前だろ。地下百層を踏破してピンピン帰ってきたんだぞ。どこの国だって血眼で調査するわ」
カインが呆れたように肩を竦める。
リーゼロッテはそのまま視線を下へと滑らせ、ふっと口元を緩めた。
「本題はここからよ。『つきましては、貴殿の類稀なる調律技術と討伐能力を高く評価し、我が帝国への移住を心より要請いたしたく存じます。受け入れ条件として、以下の特権を無条件で確約いたします』――ですって」
「特権?」
「一つ、帝国直轄の最高ランク研究機関をまるごと一棟新設し、その全権委任長に就任すること。研究費は年間、国家魔導予算の三割を無制限支給」
「……は?」
カインの手が、カップを持ったまま空中で静止した。
「一つ、未踏迷宮周辺の広大な原生林一帯を個人領地として割譲。薬草園としての独占開発権を認める」
「……おいおいおい」
「そして最後。――『同伴する保護対象(ベル殿)に対し、帝国の永世名誉市民権の付与、ならびに魔力属性を問わぬ一切の身元不可侵を皇帝陛下の名において保証する』」
静まり返るテラス。
カインは口を開けたまま固まり、隣に控えていたセバスチャンすらも、カイゼル髭をピクリと震わせて感嘆の息を漏らした。
「……破格、なんてもんじゃねえぞ」
カインは頭を抱え、卓上の羊皮紙をまじまじと見つめた。
「年間国家予算の三割? 専用の研究所に広大な土地、おまけに魔族のガキの身元と完全な市民権の保証だと!? これ、実質的に帝国の国賓……いや、皇族待遇じゃねえか!」
「お嬢様に対する正当な評価としては、至極当然の待遇かと存じますな」
セバスチャンが誇らしげに胸を張る。
「当然で片付くスケールじゃねえよ! ……おい、リーゼ。これ、本気で受けてもいいんじゃねえか?」
カインは身を乗り出し、真剣な眼差しでリーゼロッテを見据えた。
ギルドの監察官としてではなく、長年現場の苦楽を共にしてきた相棒としての、極めて現実的な助言だった。
「本国の王宮を見てみろよ。お前を追い出した挙句、自分たちで結界を壊して、現場の騎士団を肉壁にして、助けを求めに来たと思えば濡れ衣着せてタダ働きさせようとしてんだぞ? それに比べて隣国は、お前の技術の価値も、ベルのリスクも全部飲み込んだ上でこの条件を出してきてる。泥舟の本国に付き合う義理なんて、一ミリもねえだろ」
「そうね。とても誠実で、魅力的な提案だわ」
リーゼロッテは羊皮紙を丁寧に折りたたみ、テーブルの上へとコトッと置いた。
その顔には、一切の迷いも焦りも見当たらない。
どこまでも平熱の、澄み切った微笑みだった。
「……断る気か?」
カインが訝しげに目を細める。
「いいえ? 捨てるには惜しい選択肢よ。キープはしておくわ」
「キープって……こんな国家規模の特命オファーを保留にすんのかよ」
「だってカイン、よく考えてごらんなさいな」
リーゼロッテは優雅にハーブティーを一口啜り、王都の方角の空を指差した。
「王都の大結界、もう外縁部どころか、中央区画の手前までノイズが侵食してきているわ。魔力炉の冷却水は蒸発し、近郊のダンジョンからは魔獣の変異種が押し寄せている。現場の騎士たちは限界寸前で、無能な上層部は責任の擦り付け合いに終始している……」
淡々と、まるで他国の天気を解説するように現状を並べ立てるリーゼロッテ。
「今の本国の追い詰められ方なら、あと数日もすれば――『もっと面白い条件』が引き出せるはずよ」
「……もっと面白い条件?」
「ええ。隣国のオファーは確かに破格だけれど、向こうへ行けば新しい研究所の立ち上げや、現地の貴族連中との挨拶回りという『面倒な業務』が山積みになるわ。私、せっかく手に入れたこのアトリエでの自由な非番ライフを、引っ越し作業で潰したくはないの」
リーゼロッテは楽しそうに琥珀色の瞳を細めた。
「本国が完全に白旗を揚げて、国王自らが頭を下げてきたら……隣国のこの親書をテーブルの上にポンと置いてあげるのよ。『隣国からはこれだけの条件を提示されておりますけれど、我が国は私に、一体どんな待遇を用意してくださるのかしら?』ってね」
「…………」
カインは背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
目の前にいる元公爵令嬢は、ただおっとりとハーブティーを飲んでいるだけではない。
己の実力と、市場の力関係、そして相手がどれほど絶望的な立場に追い込まれているかを完璧に計算し尽くした、冷徹極まりない『最強の商人』の顔をしていた。
「……おいおい。悪役令嬢ってのは、冤罪じゃなくて本性だったのかよ」
「失礼ね。正当な市場価値に基づいた、極めて健全な価格交渉よ。私を安売りする気はないもの」
ふふっ、と鈴を転がすように笑うリーゼロッテ。
その横で、ベルが恐る恐るリーゼロッテの服の裾を引っ張った。
「……りーぜ、おひっこし、しない……?」
「ええ、しないわよ、ベル。ここが私たちの家だもの」
リーゼロッテが優しく頭を撫でてやると、ベルはぱぁっと顔を輝かせた。
「うんっ! べる、ここがすき! りーぜのおうち、だいすき!」
「さあ、そうと決まれば作業の続きよ。本国が泣きついてきた時に、最高値をふっかけてあげるための準備を整えなくてはね」
アトリエの庭に、明るい笑い声が響く。
だが――。
彼女たちが穏やかな未来の算段を立てていた、まさにその瞬間。
王都の地下深くに眠る『国の心臓』では、もはや破滅を先延ばしにすることすら許されない、絶対的な死のカウントダウンがゼロを迎えようとしていた。




