第24話 ベルの涙と、オカンの教育
静まり返った別邸アトリエのテラス。
先ほどまで庭を取り囲んでいた重装の近衛憲兵隊が去った後には、押し倒された生垣の葉が初夏の風に揺れる微かな音だけが残されていた。
「……う……ぅ……っ、ぐすっ……」
石畳の上にぺたりと座り込んだベルの小さな背中が、小刻みに震えていた。
アイボリーのワンピースの膝を抱え込み、両手で顔を覆っている。
キャスケット帽の隙間から覗く銀灰色のくせ毛が乱れ、こらえきれないしゃくりあげが漏れ出ていた。
「り、りーぜ……ごめんなさい……っ。べるが……べるがここにいるから……っ」
途切れ途切れの、痛ましい懺悔。
かつて迷宮の冷たい石牢に繋がれていた頃の記憶。
自分を一族の厄災として罵り、排除しようとした大人たちの顔が、先ほどの憲兵隊の冷酷な目線と重なってしまったのだ。
自分のせいで、救ってくれた大好きな人を危険に晒してしまった。
その罪悪感が、幼い胸を押し潰していた。
「べるのせいで……りーぜが、つかまっちゃう……。べる、やっぱり……わるいこ、だから……っ」
ポタポタと、涙の雫が石畳を濡らす。
精神の激しい動揺に引きずられ、体内の魔力回路がチリチリと乱れ、帽子の奥の黒い角から黒炎の熱波が微かに漏れ出そうとしていた。
その時だった。
ポコッ。
「ふあ……っ!?」
鈍い、間の抜けた音が響いた。
ベルが両手で頭頂部を押さえ、涙で濡れた紫水晶の瞳を大きく見開く。
痛みはほとんどない。
けれど、確かに頭の上から、軽快な手刀――チョップが一発落とされた感触だった。
「泣いて余分な魔力を漏らす暇があったら、作業台へ戻りなさい」
見下ろしていたリーゼロッテは、腰に手を当て、至って平然と言い放った。
眉一つ動かさず、同情も怒りも滲ませない、いつもの職人の顔だった。
「り、りーぜ……?」
「いいこと、ベル。他人が勝手に喚き散らした言いがかりなんて、ただの『外注の雑音』よ」
リーゼロッテはしゃがみ込むと、作業用の布を取り出し、ベルの濡れた頬をぐいぐいと拭った。
その手つきは、どこまでも雑で、どこまでも温かい。
「私のスケジュールはね、今日これから行う『万能霊樹の雫』の希釈実験と、あなたに任せる土壌改良の調合でぎっしり埋まっているの。門の外で騒いでいた連中ごときに、私の予定を1ミリたりとも狂わせる権利なんてないわ」
「で、でも……べるのせいで、へいたいたちが……」
「あいつらは勝手に来て、カインの公文書にビビって勝手に帰っただけよ。あなたは何一つ悪くないし、私の平穏を脅かしてもいないわ。……それとも何かかしら? あなたには、私が国中の軍隊を相手にして負けるように見えたの?」
「……ううん。りーぜ、いちばんつよい……」
「なら、余計な心配はおやめなさい。胸を張って、自分のやるべき仕事をしなさいな」
リーゼロッテはベルのキャスケット帽を軽く直し、立ち上がって実験台を指差した。
「さあ、作業を再開するわよ。今日中に『銀霧草』のエキスを完璧に抽出しないと、夜のスイーツはお預けよ」
「……っ! うん! べる、やる……!」
ベルは小さな手の甲で力いっぱい涙を拭うと、きゅっと唇を結んで立ち上がった。
乱れかけていた体内の黒炎は、リーゼロッテの迷いのない言葉によって、あっという間に穏やかな循環へと戻っていた。
タタタッと小さな足音を立てて作業台へと戻り、ガラスの乳鉢を真剣な顔で握りしめる。
その光景を横で見ていたカインが、心底呆れ果てたように天を仰いだ。
「……おいリーゼ。お前、泣きじゃくる魔族の幼女をチョップ一発で泣き止ませて、即座に現場復帰させるやつがあるかよ」
「何かしら。泣かせておいても事態は好転しないわ。手を動かして作業に集中するほうが、精神衛生上よっぽど健全よ」
「オカンかよお前は。……いや、スパルタ職人の親方だな。お前のその鋼鉄メンタル、一度頭蓋骨を開けて学会に提出してやりたいぜ」
「失礼ね。私は極めて合理的な生活指導をしているだけよ。――それよりカイン、お茶はまだ飲むかしら?」
「いただくよ。胃薬代わりに、一番苦いハーブティーを頼む」
カインは肩を竦め、テラスの木製チェアにドカリと腰を下ろした。
手帳を卓上に置き、左耳の通信ピアスを軽く指で叩く。
その表情には、先ほど憲兵隊を合法的に追い払った凄腕官僚の鋭敏さと、長年苦労を共にしてきた相棒への深い信頼が同居していた。
「まあ、今日のところはギルド連盟の特命保護令状で追い返したがな……王宮の腐れども、完全に後がなくなってやがるぞ」
「そうね。大結界の出力、さらに落ちているのがここからでも分かるわ」
リーゼロッテは湯気を立てるポットからカップにお茶を注ぎながら、王都の上空へと視線を投げた。
薄い青色だったはずの天蓋は、今やところどころが濁った灰色に染まり、亀裂のような魔力の歪みが肉眼でも確認できるほどに広がっていた。
「自分たちの無能を棚に上げて、濡れ衣で現場監督を連行しようとするなんて、典型的な破綻組織の末期症状ね」
「まったくだ。だが、あいつらが次に何をしてくるか……」
カインがハーブティーを一口啜り、苦虫を噛み潰したような顔をした、その時だった。
カチリ。
アトリエの正面玄関から、セバスチャンが音もなく姿を現した。
手には、銀のトレイに載せられた一通の豪華な親書。
封蝋には、王国の紋章ではなく――隣国の国章である『双頭の飛竜』が燦然と刻まれていた。
「お嬢様。隣国の冒険者ギルド中央本部、ならびに隣国王家特使より、至急の親書が届いております」
「隣国から……?」
リーゼロッテが細眉をぴくりと動かした。
新たな風が、不穏に揺れる王都の空の下、静かに吹き込もうとしていた。




