第23話 ギルド特命監察官の職務権限
静まり返ったアトリエの前庭。
カインが掲げた一枚の羊皮紙の上で、銀糸の魔導術式が淡く紫水晶色の輝きを放っていた。
王立冒険者ギルド中央本部直属、特務監察令。
そして――大陸全土のギルド連盟を統括する最高評議会の直轄印章。
近衛憲兵中隊長の顔から、先ほどまでの冷酷な尊大さが急速に抜け落ちていった。
地方貴族や平民ならいざ知らず、国家の法執行組織の幹部であれば、その印章が持つ絶対的な法的拘束力を知らぬはずがなかった。
「……ぎ、ギルド最高評議会の、特級保護令状だと……!?」
「文字が読めるようで何よりだ」
カインは気怠げに鼻を鳴らし、羊皮紙を指先で弾いた。
パチン、と乾いた音が響く。
「この子供――『ベル』は、国際ギルド緊急規約第十二条に基づき、迷宮深層の変異生態調査における重要観察対象として、俺の責任下で暫定保護されている。身元照会も、危険魔力の封印管理も、すべてギルド中央本部の最高承認を通した正規の案件だ」
「バ、バカなことを言うな!」
横から金切り声を上げたのは、ダミアンだった。
青筋を浮かべ、唾を飛ばしながらカインを指差す。
「そんな紙切れ一枚で誤魔化せると思うな! 我が国の王都が魔獣と結界異常で危機に瀕しているのだぞ! その元凶である魔族を匿い、反逆を企てている逆賊だ! ギルドの規約など知ったことか、王国の安全保障のほうが上位にある!」
「おいおい、どこの馬の骨か知らねえが……」
カインは冷え切った灰色の瞳をゆっくりとダミアンに向けた。
その視線に込められた鋭利な光に、ダミアンの言葉が喉元でつっかえる。
「国家の安全保障条約を口にするなら、その前文を三回音読してから出直してこい」
カインは懐から、真鍮の留め金がついた黒革の査察手帳を抜き取ると、パラパラと頁をめくった。
「大陸間包括安全保障協約第一条。『加盟国は、ギルド連盟が管轄する国際指定調査対象に対し、いかなる名目であれ一方的な武力行使、押収、連行を行うことを禁ずる』。――これ、お前らの国の初代国王が一番最初に署名した血判入りの原本が、本部の地下金庫に眠ってんだよ」
「ぐ……っ!」
「中隊長さんよ。お前ら憲兵隊が、ギルド直轄の査察対象を力ずくで連行するってんなら、止めはしねえぜ? だがその瞬間、お前らの国は『全大陸ギルド協定の重大な違反国家』に指定される」
カインは淡々と、しかし逃げ場を塞ぐように宣告した。
「ギルド連盟からの全物資供給停止。近郊ダンジョンの安全管理委託の即時解除。冒険者の派遣全面凍結。……ただでさえ大結界が落ちて魔獣が溢れ返ってるこの国で、ギルド全体を敵に回して、明日から国が持つと思うか?」
「ひ……っ!?」
憲兵中隊長の額から、大粒の脂汗がボロボロと吹き出した。
脅しではない。
国家のインフラの半分以上は、冒険者ギルドが供給する素材と討伐力に依存している。
ここでギルドと全面衝突を起こせば、王都は魔獣の波に呑まれて確実に滅亡する。
その責任を負わされるのは、命令を出したバルタザール伯爵ではなく、現場で引き金を引いた自分自身だ。
「中隊長殿! 何を怯んでいるのですか!」
ダミアンが焦燥に駆られて喚き立てる。
「一介の監察官のハッタリです! バルタザール閣下が後ろ盾についておられるのですよ! 構いません、その男ごと捕縛なさい!」
「……黙れッ!」
憲兵中隊長は、ダミアンに向けて怒声を張り上げた。
青ざめた顔でカインに向き直り、震える手で敬礼を返す。
「……ギルド連盟の特命監察令、しかと確認いたしました。我らにギルド協定を侵犯する意図は毛頭ございません」
「中隊長殿!?」
「撤収だ! 総員、武器を収めよ!」
中隊長の鋭い号令が飛ぶ。
構えられていた魔導槍が一斉に引かれ、兵士たちは速やかに盾を背負い直した。
プロの軍人だからこそ、踏み込んではならない一線がどこにあるのかを痛烈に理解していた。
「おい、待て! 待て中隊長殿! 私を置いていく気か!?」
見捨てられたダミアンが、悲鳴を上げながら憲兵たちの後を追いかけていく。
整然と隊列を組み直した憲兵中隊は、一度も振り返ることなく、アトリエの敷地から足早に去っていった。
重々しい軍靴の地鳴りが遠ざかり、街道の彼方へと消える。
破壊された生垣を抜ける初夏の風が、再び穏やかな静けさを庭へと運んできた。
「……ふぅ。やれやれ、胃が痛ぇ」
カインは査察手帳をパチンと閉じると、首の骨をポキリと鳴らして深く息を吐き出した。
そして、振り返ってリーゼロッテを見下ろす。
「おい、リーゼ。お前、自分がどれだけ際どい綱渡りしてんのか分かってんのか?」
「あら、カイン。いいタイミングだったわね。紅茶を淹れ直しましょうか?」
リーゼロッテは至って平然とした顔で、作業用の革手袋をはめ直していた。
国家の憲兵隊に包囲されていたことなど、まるで小雨に降られた程度にしか思っていない佇まいである。
「紅茶で誤魔化すな! 俺が走ってこなかったら、今頃アトリエごと憲兵をミンチにして、本物の国際指名手配犯になってただろ!」
「失礼ね。私は平和主義者よ。正当防衛の範囲内で、四肢の関節を外して門の外へ転がすくらいで済ませるつもりだったわ」
「それを世間じゃミンチって呼ぶんだよ!」
カインが頭を抱えて叫んだ。
相変わらずの規格外すぎるメンタルに、公務員としての寿命が縮むのを感じる。
その時だった。
「……う……ぅ……っ」
リーゼロッテの背後から、小さな、しゃくりあげるような泣き声が漏れ聞こえてきた。
麻のキャスケット帽を目深に被ったベルが、両手で顔を覆い、その場にぺたりと座り込んで震えていた。
張り詰めていた恐怖が、敵の撤退と同時に一気に決壊してしまったのだ。
「ベル……?」
リーゼロッテが細眉を寄せ、しゃがみ込む。
少女の小さな肩が、激しく上下していた。




