第20話 塩対応と門前払い
テーブルの上に叩きつけられた、王家の百合の紋章が刻まれた豪奢な巻物。
ダミアンは鼻息を荒くし、勝ち誇った笑みを浮かべたままリーゼロッテを見下ろしていた。
「さあ、分かったか! 我が国の危機を救うため、己の罪を認めて即刻出頭せよ! 公爵令嬢としての矜持がわずかでも残っているなら、これ以上見苦しい抗弁は通用せんと知れ!」
唾を飛ばしながら喚き立てるダミアンに対し、リーゼロッテはゆっくりと視線を落とした。
指先で巻物の端を軽く弾き、朱色の封蝋と日付の欄を冷ややかに一瞥する。
「……なるほど。王家の紋章に内務卿の印章。書類としての体裁は一応整っているようですね」
「フン、当然だ! これぞ正真正銘、国王陛下の名による緊急徴用令である!」
「ですが、ダミアン様。この命令書、法的な有効期間が『先月末』で綺麗に切れておりますよ」
「……は?」
ダミアンの顔から、一瞬にして表情が抜け落ちた。
背後に控える十数名の私兵たちも、顔を見合わせる。
「な、何を馬鹿なことを言っている……? 王命に期限などあるはずが――」
「ございますよ。正確には、王宮魔導院における私の雇用契約、ならびに王家とアルステット公爵家との包括的技術提供協定の失効です」
リーゼロッテは至って平然と、まるで役所の窓口で不備のある申請書を突き返すかのように淡々と語り始めた。
「私は先月、ジークハルト殿下より公衆の面前で正式に婚約破棄されました。それに伴い、結納金の清算および魔導開発における出向契約もすべて破棄・受理されております。さらには、研究に専念するため公爵家の籍からも一時的に離脱し、現在は王立冒険者ギルド連盟に正式登録された一介の民間研究者に過ぎません」
リーゼロッテは琥珀色の瞳をスッと細め、冷ややかにダミアンを射抜いた。
「国家の公務員でもない民間人に対し、無償の強制労働を課す権限は、国王陛下の勅命であっても存在しません。国際ギルド連盟規約第3条『自治権の尊重および所属者の人身保護条項』に明確に違反いたしますが?」
「な、な……っ!?」
ダミアンの顔が、赤から白、そして土気色へと目まぐるしく変化した。
王家の命令書を突きつければ、平伏して泣きついてくるはずだった。
それがまさか、法律と国際協定の条文を立て板に水で並べ立てられ、完全に論破されるなど夢にも思っていなかったのだ。
「へ、屁理屈を……! 屁理屈をこねるなッ! 国家の存亡がかかっているのだぞ! たかが冒険者風情の小娘が、王命を拒絶できると思うてか!」
「お引き取りを。私は非番……いいえ、退職済みです。無能な役人の後始末をボランティアで引き受ける義理など、どこにもございません」
「き、貴様ぁぁッ!!」
恥辱と焦燥に駆られたダミアンの額に、ドス黒い青筋が浮き上がった。
このまま手ぶらで帰れば、国王や魔導院長から何を言われるか分からない。実家の没落を防ぐ最後のチャンスを、こんな小娘の口先一つで潰されてたまるか。
「ええい、何を突っ立っている! 口答えする逆賊だ、力ずくで引っ立てろ!」
ダミアンが金切り声を上げ、手にした乗馬鞭を激しく振り下ろした。
「手足を折ってでも王宮へ引きずってまいれ! その背後にいる薄汚いガキもだ、人質として首根っこを引っ捕らえろ!」
その下劣な命令に、私兵の男たちが下品な笑みを浮かべながら抜刀した。
先頭の一人が、リーゼロッテの背中に隠れていたベルめがけて、長槍の切っ先を突き出しながら踏み込んでくる。
「ヒッ……!」
ベルが怯え、小さく身を縮めた。
――その、刹那だった。
ドォォォォォォンッッッ!!!!
大気が、物理的な悲鳴を上げてきしんだ。
突風が巻き起こったわけではない。ただ、目に見えない何トンもの鉄塊が、上空から一気に叩きつけられたかのような重圧がテラス全域を圧殺した。
「ぐ、あ……っ!?」
ベルへ槍を突き出そうとしていた兵士が、まるで巨大な見えない手に上から押し潰されたかのように、その場で石畳に両膝を叩きつけた。
ガチガチと歯の根が合わない音が響く。
持っていた槍が手から滑り落ち、甲高い音を立てて転がった。
背後にいた兵士たちも、例外ではない。
全員が胃の中身をぶちまけそうなほどの激しい悪寒に襲われ、蒼白な顔で胸元を押さえながら地面にへたり込んでいた。
視線の先。
リーゼロッテが、静かに立ち上がっていた。
背負ったミスリル大剣には、触れてすらいない。
ただ、両手をだらりと下げ、冷淡な琥珀色の瞳でダミアンたちを見下ろしているだけだった。
それだけで、周囲の温度が氷点下まで叩き落とされたかのような、絶対的な死の気配が満ちていた。
体長二十メートルの暴食竜を単身五分で解体し、数多の凶悪魔獣を屠ってきた最高峰の討伐者――『黒鉄の百舌鳥』が解き放つ、純度百パーセントの殺気と覇気。
「……聞こえませんでしたか?」
鈴を転がすような澄んだ美声。
しかしその底には、触れた者を瞬時に両断するような、研ぎ澄まされた刃の冷徹さが宿っていた。
「私の敷地を土足で踏み荒らし、私を恫喝し、あまつさえ……私の前で、この子に刃を向けましたね?」
「ひ、ヒィィッ……!」
ダミアンの喉から、みっともない悲鳴が漏れた。
振るおうとしていた乗馬鞭は指からこぼれ落ち、足腰は完全に言うことを聞かない。
目の前にいるのは、かつて王宮の片隅で無表情に書類を整理していた大人しい令嬢などではなかった。
触れれば肉片一つ残さずに刻まれる、本物の『天災』だった。
「三秒以内に、その折れた門扉の向こうへ消えなさい」
リーゼロッテが一歩、前へと踏み出す。
コツ、と靴底が石畳を鳴らした瞬間、ダミアンの股間からじわりと温かい染みが広がり、濡れた上等な乗馬ズボンが足首へとへばりついた。
「四秒目には、あなたの首が胴体の上に載っている保証はいたしかねますわ」
「た、助けてくれぇぇぇぇぇッッ!!」
ダミアンは完全にプライドをかなぐり捨て、地面を四つん這いになりながら絶叫した。
私兵たちも武器を放り投げ、転がるようにして立ち上がり、主人の後を追って門の外へと逃げ出していく。
ドタバタと無様な足音が遠ざかり、街道の彼方へと消え去った。
アトリエの前庭に、再び初夏の穏やかな風と静寂が戻ってきた。
「……やれやれ。門扉の修理代と芝生の張り替え代、きっちりクライン子爵家へ請求書を送らなければいけませんね」
リーゼロッテは息を吐き出すと、放っていた圧倒的な威圧をスッと霧散させた。
何事もなかったかのようにテラスの席へと戻り、冷めかけたハーブティーのカップを手に取る。
「……りーぜ、すご……い……」
テーブルの物陰から、ベルが紫水晶の瞳を大きく見開いて顔を覗かせた。
恐怖で震えていたはずの少女の顔に、今は驚愕と、それ以上の熱烈な憧れの光が宿っている。
「害虫を追い払っただけよ。怖がらせて悪かったわね、ベル」
「ううん……! べる、こわくなかった! りーぜ、かっこよかった……!」
「あら、そう? ふふっ、ありがとう」
リーゼロッテが目を細めてベルの頭をぽんぽんと撫でると、ベルは嬉しそうに顔を綻ばせ、胸元にすり寄ってきた。
「お嬢様、素晴らしい手腕でございました」
屋敷の玄関から、銀のトレイを手にしたセバスチャンが静かに歩み出てきた。
「門扉の修繕資材の手配は完了いたしました。クライン子爵家への損害賠償請求書も、相場の四倍の金額にて本日中に公証役場へ提出いたしますぞ」
「仕事が早くて助かるわ、セバスチャン。頼りにしているわよ」
「もったいなきお言葉でございます」
老執事は誇らしげに髭を撫で、ベルの前へ新しく焼き直したベイクドチーズケーキを置いた。
逃げ帰った使者は、己の無様を隠すため、王宮でさらなる嘘を重ねるだろう。
そして崩壊寸前の国家は、より強固な権力を笠に着て、この平穏を再び脅かしにかかるに違いない。
だが、どれほど嵐が吹き荒れようと、知ったことではない。
リーゼロッテは青く澄み渡る空を見上げ、優雅にハーブティーを口に運んだ。
彼女の贅沢で自由な非番の日々は、誰にも邪魔させはしないのだから。




