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第19話 アトリエへの傲慢な使者


 王都の外壁周辺で繰り広げられている血みどろの防衛戦など、まるで別の世界の出来事であるかのように。

 深い原生林を背負った別邸アトリエの中庭には、どこまでも穏やかで優しい初夏の陽光が降り注いでいた。


 白亜のテラスに設置された錬鉄製の丸テーブル。

 リーゼロッテは、朝摘みの『銀霧草』を丁寧に乾燥させてブレンドした特製ハーブティーを、磁器のカップへと静かに注いでいた。

 澄んだ琥珀色の液体から、ミントに似た爽やかな清涼感と、ほんのりとした蜂蜜のような甘い香りが立ち上る。


「……ん、いい香り。抽出時間も完璧ね」


 向かいの席では、麻のキャスケット帽をちょこんと被ったベルが、小さな両手で銀のフォークをぎゅっと握りしめていた。

 お皿の上に載っているのは、筆頭執事セバスチャンが腕によりをかけて焼き上げた、焼きたてのベイクドチーズケーキ。

 こんがりとキツネ色に焼き目のついた表面から、濃厚な乳脂肪の甘い匂いが漂っている。


「焦らなくていいのよ、ベル。ケーキは逃げないわ」


「……うん。でも、すごく、おいしそう……」


「ふふっ、召し上がりなさい。フォークの先で小さく切り分けるのよ」


 リーゼロッテが柔らかく微笑むと、ベルは紫水晶の瞳をキラキラと輝かせ、慎重にフォークをケーキへと沈めた。

 サクッ、と底のタルト生地が心地よい音を立てる。

 ベルは角の生えた頭を小さく揺らしながら、切り分けた一口を恐る恐る口へと運んだ。


「……! あまい……! りーぜ、お口のなか、とろとろする……!」


「良かったわね。セバスチャンが喜ぶわ」


 白磁の頬をリスのように膨らませて咀嚼する少女を見つめながら、リーゼロッテは満足げに目を細めた。

 かつて地下九十層の冷たく暗い石牢で、飢えと激痛に震えていたあの痛ましい姿は、今や見る影もない。

 着ている服も、粗末な襤褸布ではなく、上等な肌触りのアイボリーのワンピース。

 毎日の魔力調律と栄養価の高い食事によって、ベルの肌には健康的な血色が戻り、体内の黒炎魔力もまるで子猫のように大人しく循環していた。


 鳥たちの心地よいさえずりが、庭の木々に反響する。

 これぞ、彼女が求めていた至高のスローライフだった。

 窮屈な王妃教育も、腹の探り合いばかりの夜会も、愚かな元婚約者の不機嫌に付き合う義務も、もうどこにもない。

 すべてが満ち足りた、贅沢な昼下がり。


 ――だが。

 その静寂を、下品で暴力的な破壊音が無残に引き裂いた。


 バギィィィッッ!!


 前庭の入り口に設置されていた木製の美しい門扉が、何かの衝撃によって派手に蹴破られた。

 乾いた木片が飛び散り、砂煙が舞い上がる。


 ヒヒィィィンッ!


 けたたましい軍馬の嘶き。

 さらに、複数人の足音が砂利を踏み荒らし、金属鎧の擦れ合うガチャガチャとした不快な金属音が、優雅なテラスへと一気に押し寄せてきた。


「……っ!?」


 ベルの小さな肩が、ビクリと跳ね上がった。

 フォークを取り落としそうになり、ケーキ皿を庇うようにして身を竦める。


「落ち着きなさい、ベル。大丈夫よ」


 リーゼロッテは声のトーンを一つも変えず、そっとテーブルの下でベルの震える膝に手を置いた。

 そして、手袋越しに極小の魔力波をツンと流し込み、ベルの乱れかけた呼吸を瞬時に整えてやる。

 それから、カチリとカップをソーサーに戻し、砂煙が立ち込める前庭へと琥珀色の瞳を向けた。


 現れたのは、豪奢な毛皮付きの外套を羽織った一人の若い貴族だった。

 細身のサーベルを腰に佩き、手には乗馬用の革鞭。

 その後ろには、白銀の板金鎧を身に纏い、長槍や片手剣を抜身のまま構えた十数名の私兵たちが、物々しい殺気を放ちながら整列している。


 ダミアン・フォン・クライン子爵令息。

 かつて王立学園において、第一王子ジークハルトの腰巾着として権勢を誇っていた取り巻き貴族の筆頭である。


「はははっ! やはりここに引き籠もっていたか、リーゼロッテ・フォン・アルステット!」


 ダミアンは馬を私兵に預けると、泥のついた長靴で庭の芝生を無遠慮に踏みにじりながら、大股でテラスへと歩み寄ってきた。

 その青白い顔には、自分自身の優位を露ほども疑わない、醜悪なまでの傲慢な笑みが張り付いている。


「のんきに茶会とは、実に結構なご身分だな! 外で国がどれほどの危機に瀕しているかも知らず、このような田舎の別邸に逃げ込んで優雅に紅茶を啜っていたとは!」


「…………」


 リーゼロッテは立ち上がりもせず、ただ静かに相手を見据えた。

 手入れの行き届いたふかふかの芝生には、ダミアンたちの無骨な軍靴によって無残な泥の足跡が刻まれている。

 そして何より、先ほどリーゼロッテの手で綺麗に磨き上げたばかりの正面門扉が、蝶番ごとへし折られて無残に転がっていた。


「敷地の門扉を破壊しての不法侵入、感心いたしませんね。我が家には呼び鈴という文明の利器が存在するのですが」


「フンッ! 貴様のような国家の逆賊の家に、守るべき礼儀などあるものか!」


 ダミアンは手にした乗馬鞭を、バチンッ! と自分の長靴に打ち鳴らした。

 その威嚇の音に、ベルが再びヒッと短く息を呑み、リーゼロッテの背中へと身を隠すように小さく縮こまる。


「お前は……! おい、その背後にいる小汚いガキは何だ!? まあいい、下賤な孤児を拾って人道派の真似事か? 相変わらず反吐が出るほど傲慢で、偽善に満ちた女だ!」


「用件があるなら、簡潔にお話しいただけますか。お茶が冷めてしまいますので」


 どこまでも平熱、どこまでも事務的なリーゼロッテの態度。

 まるで路傍の小石と会話しているかのような無関心さに、ダミアンの額にピキリと青筋が浮かんだ。


(この女……! 婚約破棄されて社交界から追放された身のくせに、なぜこれほど尊大でいられるのだ! ジークハルト殿下に付き従っていた頃から、いつでもそうだ……私のような上級貴族を、まるでゴミを見るような冷たい目で見下しおって……!)


 かつての劣等感と、現在の狂気的な野心が、ダミアンの脳内で混ざり合う。

 ダミアンは懐から、金糸の縁取りが施された分厚い羊皮紙の巻物を引き抜いた。

 そして、テーブルの上にドサリと乱暴に叩きつける。

 そこには、王家の百合の紋章と、現国王の署名が刻印された朱色の封蝋が光っていた。


「王命である! リーゼロッテ、直ちに私に同行し、王宮へ出頭せよ!」


「王命? どのような名目でございましょう」


「とぼけるなッ! 貴様が退職時に仕掛けた悪質な工作により、王都大結界の送魔配管が焼き切れ、近郊の各ダンジョンからは魔獣が溢れ出しているのだ! 我が国の誇る防衛機構を己の私怨で破壊した罪、万死に値する!」


 ダミアンは唾を飛ばしながら、これ見よがしに胸を反らせた。


「だが! 慈悲深き国王陛下と、新任のバルタザール魔導院長閣下は、貴様に最後の更生の機会を与えてくださった! 直ちに王宮へ戻り、不眠不休で魔力炉と大結界を元の状態へ無償修理するのだ! そして近郊の魔獣どもを貴様の手で討伐し、国家への忠誠を証明してみせろ!」


「無償修理、ですか」


「当たり前だ! 貴様が破壊したものを貴様が直す、それに金など払えるはずがなかろう! 本来ならば即座に断頭台送りになるところを、アルステット公爵家の名誉に免じて、強制労働で罪を償わせてやると言っているのだ! この温情に涙を流して感謝するがいい!」


 ダミアンの後ろで、私兵たちがニヤニヤと下品な笑みを浮かべながら、腰のサーベルの柄をカチャカチャと鳴らした。

 数で勝り、王命という絶対の大義名分を背負っている。

 相手は十八歳の小娘一人。いくら過去にドラゴンスレイヤーなどと持て囃されていようが、公爵家の権力を失った今、従う以外の道などあるはずがないと信じ込んでいた。


「さあ、立て! 髪を掴んで引きずり倒されたくなくば、おとなしく私の足元に跪いて縄を受けろ!」


 ダミアンが革鞭を振り上げ、リーゼロッテの顔の前へと突きつける。


 庭を包む、張り詰めた重苦しい沈黙。

 ベルはリーゼロッテの麻のブラウスの裾を、指先が白くなるほど強く握りしめていた。

 キャスケット帽の陰から覗く紫水晶の瞳には、かつて自分を石牢へ繋ぎ止めた大人たちと同じ、ドス黒い悪意に満ちた男の姿が映っていた。


(……この人たち、りーぜを、いじめる……?)


 ベルの小さな胸の奥で、カチリと何かが外れかけた。

 手足が震えるのは、恐怖からではない。

 自分に温かいスープをくれ、頭を撫でてくれた優しい人を傷つけようとする外敵に対する、激しい憤怒。

 角の根元から、黒炎の熱波が再びドクンと脈打ちかける。


 だが――。


「ベル。タルトの粉がエプロンに落ちているわよ」


「……え?」


 トントン、とリーゼロッテの細く白い指先が、ベルの頭を優しく叩いた。

 そのあまりにも普段通りで、平熱の響きに、ベルの体内で猛り狂いかけた黒炎がすうっと静まる。


 リーゼロッテは、テーブルの上に放り出された王家の命令書を、手袋をつけた指先でつまみ上げた。

 そして、まるで使用済みの紙ナプキンでも眺めるかのように、表と裏をパラパラと適当にめくった。


「……なるほど。王家の紋章に内務卿の印章。書類としての形式は一応整っているようですね」


「フン、分かればいいのだ! さあ、言い訳を言ってみろ!」


 勝ち誇るダミアン。

 私兵たちも武器を手に、一歩一歩とテラスへと詰め寄ってくる。

 理不尽な命令と、暴力の気配がアトリエの庭を呑み込もうとしていた。


 だが、冷めたハーブティーを前にしたリーゼロッテの表情には、焦りも恐れも、ただの欠片すら浮かんでいなかった。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。


次回お楽しみに。

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