第九話「家に帰ったら鍵がない」
田村誠には、鍵を忘れる習慣がある。
忘れる、というより、「置き忘れる」という方が正確だ。
持って出るつもりで机の上に出したまま、それを手に取り忘れて家を出る。
あるいは会社のデスクに一時的に置いたまま、そのまま帰ってくる。
どちらも「持って出る意志はあった」という点で、単純な忘れっぽさとは少し違う。
意志と行動の間に、細い隙間がある。
その隙間に鍵が落ちていく。
今日も、そうなった。
大阪での謝罪交渉を終えて帰宅した。
新幹線の中で報告書の下書きを書き、東京についてから会社に寄って最終版を提出し、部長に口頭で状況を説明してから退社した。
すべて終わったのが夜の九時前で、誠は少し疲れていた。
マンションのエレベーターを降り、玄関の前に立ち、コートのポケットに手を入れた。
右のポケット:スマホ、財布、レシート三枚(コンビニ、駅のキオスク、大阪の喫茶店)。
左のポケット:ハンカチ、のど飴一個、なぜかクリップ。
鍵がない。
鞄を開けた。
ノートパソコン、充電ケーブル、メモ帳、折り畳み傘、社員証。
鍵がない。
誠はしばらく玄関ドアの前に立ったまま考えた。
鍵は今朝、コートを着る前に玄関の棚の上に置いたはずだ。
置いたまま、コートを着て、出た。
つまり鍵は今も玄関の棚の上にある。
家の中に。
誠は佳代に電話した。
「今、莉子と買い物。あと一時間くらいかかる」
颯太に電話した。
「図書館。終わるの十一時ごろ」
誠は「……そうか、わかった」と言い、電話を切った。
一時間から二時間、外で待つことになった。
近くのコンビニに入った。
温かい缶コーヒーを一本買い、雑誌コーナーに向かった。
立ち読みをしながら時間をつぶすつもりだった。
雑誌のラインナップをざっと見た。
週刊誌、スポーツ誌、ファッション誌、ビジネス誌、健康誌、釣り雑誌、競馬新聞。
コンビニの雑誌コーナーは、人間の関心事の縮図だと誠は思った。
自分の関心事はどのコーナーにあるか考えてみた。
よくわからなかった。
健康誌の隣に、一冊だけ面出し(表紙が正面を向いた状態での陳列)になっている本があった。
「謝罪力で人生が変わる! 中年からの逆転術」
表紙に中年男性のビジネスパーソンが深々とお辞儀をしているイラストが描かれていた。
帯には「謝れる男は信頼される! 今日から始める誠実力の磨き方」と書いてあった。
誠はしばらくその表紙を見た。
「謝罪力で人生が変わる」。
変わっているかどうかはわからないが、謝ってきた二十三年だった。
今日も大阪で謝ってきた。
本を手に取ってページをめくってみた。
第一章「なぜ謝れる人が評価されるのか」。
第二章「効果的な謝罪の七つのステップ」。
第三章「謝罪後のフォローアップで差をつけろ」。
第四章「謝罪を武器に人間関係を再構築する」。
誠には「七つのステップ」も「フォローアップ」も「武器」も、意識してやった覚えがなかった。
謝りたいから謝った。
申し訳なかったから申し訳ないと言った。
それだけだった。
謝罪に「力」をつけようと思ったことは一度もなかった。
ページを後ろの方に開いたら、「実践コラム:あなたの謝罪タイプを診断!」というコーナーがあった。
「謝罪のタイプA:感情型」
「タイプB:論理型」
「タイプC:即応型」とあった。
誠は少し考えた。
たぶんどれでもない。
強いて言えば「反射型」だと思う。
考える前に謝っている。
本を棚に戻した。
レジの近くにあるイートインスペースに移動して、缶コーヒーを飲んだ。
向かいの席に作業着姿の男性が座って弁当を食べていた。
誠もなんとなくその隣に座った。
何も言わなかった。
相手も何も言わなかった。
でも不思議と居心地は悪くなかった。
誠はスマホを開いて、佳代に「外で待ってます」とメッセージを送った。
佳代から「あと四十分くらい」と返信が来た。
誠は「わかりました」と送った。
「わかりました」と妻にビジネス敬語で返信したことに気づいて、「了解です」に書き直した。
それも少し変な気がして、「わかった」に直した。
送信した。
コンビニを出て、近くのベンチに座った。
夜の住宅街は静かだった。
遠くで猫が鳴いた。
誠はぼんやりと「俺がいなくてもなんとかなってるな」と思った。
家の中には今、誰もいない。
佳代も莉子も、誠なしで買い物に行っている。
颯太は図書館で自分の勉強をしている。
会社では今日、謝罪交渉をうまく終わらせてきたが、それも誠でなければできなかったわけではないかもしれない。
誰か別の人が行っても、何かしら結果は出たかもしれない。
「俺がいなくてもなんとかなる」というのは、悲しい話なのか、それとも安心できる話なのか、誠にはよくわからなかった。
家族がいなくても自分はなんとかなる、というのと、自分がいなくても家族はなんとかなる、というのは、似ているようで少し違う。
前者は自立の話で、後者は必要性の話だ。
俺は、誰かに必要とされているのか。
乾部長は「田村くんがいなくなったら困る」と言った。
田嶋課長は「田村さんが来てくれた以上、問題ない」と言った。
西尾部長は「正直なやつが好きや」と言った。
取引先の人たちは、いろんな言葉で何かを言ってくれた。
取引先には必要とされているのかもしれない。
では家族には。
妻は「このままでいいの」と言った。
息子は「パパさあ……」と言いかけてやめた。
娘は「うん」と言った。
どれも必要とされているとも、されていないとも、判断がつかない言葉だった。
ベンチの上で、誠は缶コーヒーの空き缶を両手で持ちながら、夜空を見た。
マンションのビルが邪魔で星はほとんど見えなかった。
見えない星を眺めながら、「ま、いるんだろう、たぶん」と思うことにした。
根拠はなかった。
でも根拠のない確信は、誠にとって必ずしも悪いものではなかった。
月曜日が苦手でも月曜日はくる。
カレンダーを見間違えても文化祭は来る。
鍵を忘れても、家族は戻ってくる。
そういうものかもしれない。
一時間後、佳代と莉子が帰ってきた。
鍵を忘れてベンチに座っている父親を見て、莉子が「……何してるの」と言った。
「待ってた」
「鍵、忘れたの?」
「うん」
「信じられない」
信じられない、という言葉だったが、莉子の声はそれほど怒ってはいなかった。
むしろどこか、呆れながらも「まあ、しょうがないか」という響きがあった。
佳代はため息をひとつついてから「ほら、開けるから」と言い、鍵を出してドアを開けた。
「……大阪、どうだったの」と佳代が玄関で聞いた。
「なんとかなった」
「そう」
「うん」
それだけだった。
でも「なんとかなった」に対して「そう」と返した佳代の声は、怒ってはいなかった。
少しだけ、安堵に近いものが混じっていた気がした。
莉子が「パパ、一時間もここで何してたの」と聞いた。
「……考えごと」
「何を」
「……俺って、必要とされてるのかなって」
莉子が少し黙った後、「何それ」と言った。
笑ってはいなかった。
「……別に、大丈夫でしょ。いるじゃん、ここに」
それだけ言って、莉子は部屋に入っていった。
誠は玄関に立ったまま、「いるじゃん、ここに」という言葉を頭の中で繰り返した。
必要とされているかどうかより前の話だった。
いる、ということ。
ここに、いる、ということ。
台所から佳代の声がした。
「ご飯、あるから食べる?」
「食べる」と誠は答えた。
夕食を食べながら、誠はずっと気になっていたことを思い出した。
文化祭の演劇の感想を、まだ莉子に言えていなかった。
謝罪交渉の前後でそれどころではなくなって、言いそびれていた。
食べ終わってから、莉子の部屋のドアをノックした。
「なに」
「文化祭の演劇、よかったよ。あのセリフ、ちゃんと言えてたね」
三週間、言えなかった感想だった。
莉子は少し止まった。
ドア越しに、気配が止まった。
「……うん、ありがとう」
それだけだった。
ドアは開かなかった。
でも「うん」の重さが、文化祭当日の「うん」とは違った。
誠にはそれがわかった。




