表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/26

第九話「家に帰ったら鍵がない」

 田村誠には、鍵を忘れる習慣がある。


 忘れる、というより、「置き忘れる」という方が正確だ。

 持って出るつもりで机の上に出したまま、それを手に取り忘れて家を出る。

 あるいは会社のデスクに一時的に置いたまま、そのまま帰ってくる。

 どちらも「持って出る意志はあった」という点で、単純な忘れっぽさとは少し違う。

 意志と行動の間に、細い隙間がある。

 その隙間に鍵が落ちていく。

 今日も、そうなった。


 大阪での謝罪交渉を終えて帰宅した。

 新幹線の中で報告書の下書きを書き、東京についてから会社に寄って最終版を提出し、部長に口頭で状況を説明してから退社した。

 すべて終わったのが夜の九時前で、誠は少し疲れていた。


 マンションのエレベーターを降り、玄関の前に立ち、コートのポケットに手を入れた。

 右のポケット:スマホ、財布、レシート三枚(コンビニ、駅のキオスク、大阪の喫茶店)。

 左のポケット:ハンカチ、のど飴一個、なぜかクリップ。

 鍵がない。


 鞄を開けた。

 ノートパソコン、充電ケーブル、メモ帳、折り畳み傘、社員証。

 鍵がない。


 誠はしばらく玄関ドアの前に立ったまま考えた。

 鍵は今朝、コートを着る前に玄関の棚の上に置いたはずだ。

 置いたまま、コートを着て、出た。

 つまり鍵は今も玄関の棚の上にある。

 家の中に。


 誠は佳代に電話した。

「今、莉子と買い物。あと一時間くらいかかる」

 颯太に電話した。

「図書館。終わるの十一時ごろ」

 誠は「……そうか、わかった」と言い、電話を切った。

 一時間から二時間、外で待つことになった。


 近くのコンビニに入った。

 温かい缶コーヒーを一本買い、雑誌コーナーに向かった。

 立ち読みをしながら時間をつぶすつもりだった。

 雑誌のラインナップをざっと見た。

 週刊誌、スポーツ誌、ファッション誌、ビジネス誌、健康誌、釣り雑誌、競馬新聞。

 コンビニの雑誌コーナーは、人間の関心事の縮図だと誠は思った。

 自分の関心事はどのコーナーにあるか考えてみた。

 よくわからなかった。


 健康誌の隣に、一冊だけ面出し(表紙が正面を向いた状態での陳列)になっている本があった。

「謝罪力で人生が変わる! 中年からの逆転術」

 表紙に中年男性のビジネスパーソンが深々とお辞儀をしているイラストが描かれていた。

 帯には「謝れる男は信頼される! 今日から始める誠実力の磨き方」と書いてあった。


 誠はしばらくその表紙を見た。

「謝罪力で人生が変わる」。

 変わっているかどうかはわからないが、謝ってきた二十三年だった。

 今日も大阪で謝ってきた。


 本を手に取ってページをめくってみた。

 第一章「なぜ謝れる人が評価されるのか」。

 第二章「効果的な謝罪の七つのステップ」。

 第三章「謝罪後のフォローアップで差をつけろ」。

 第四章「謝罪を武器に人間関係を再構築する」。


 誠には「七つのステップ」も「フォローアップ」も「武器」も、意識してやった覚えがなかった。

 謝りたいから謝った。

 申し訳なかったから申し訳ないと言った。

 それだけだった。

 謝罪に「力」をつけようと思ったことは一度もなかった。


 ページを後ろの方に開いたら、「実践コラム:あなたの謝罪タイプを診断!」というコーナーがあった。

「謝罪のタイプA:感情型」

「タイプB:論理型」

「タイプC:即応型」とあった。

 誠は少し考えた。

 たぶんどれでもない。

 強いて言えば「反射型」だと思う。

 考える前に謝っている。

 本を棚に戻した。


 レジの近くにあるイートインスペースに移動して、缶コーヒーを飲んだ。

 向かいの席に作業着姿の男性が座って弁当を食べていた。

 誠もなんとなくその隣に座った。

 何も言わなかった。

 相手も何も言わなかった。

 でも不思議と居心地は悪くなかった。


 誠はスマホを開いて、佳代に「外で待ってます」とメッセージを送った。

 佳代から「あと四十分くらい」と返信が来た。

 誠は「わかりました」と送った。

「わかりました」と妻にビジネス敬語で返信したことに気づいて、「了解です」に書き直した。

 それも少し変な気がして、「わかった」に直した。

 送信した。


 コンビニを出て、近くのベンチに座った。

 夜の住宅街は静かだった。

 遠くで猫が鳴いた。

 誠はぼんやりと「俺がいなくてもなんとかなってるな」と思った。


 家の中には今、誰もいない。

 佳代も莉子も、誠なしで買い物に行っている。

 颯太は図書館で自分の勉強をしている。

 会社では今日、謝罪交渉をうまく終わらせてきたが、それも誠でなければできなかったわけではないかもしれない。

 誰か別の人が行っても、何かしら結果は出たかもしれない。

「俺がいなくてもなんとかなる」というのは、悲しい話なのか、それとも安心できる話なのか、誠にはよくわからなかった。


 家族がいなくても自分はなんとかなる、というのと、自分がいなくても家族はなんとかなる、というのは、似ているようで少し違う。

 前者は自立の話で、後者は必要性の話だ。

 俺は、誰かに必要とされているのか。


 乾部長は「田村くんがいなくなったら困る」と言った。

 田嶋課長は「田村さんが来てくれた以上、問題ない」と言った。

 西尾部長は「正直なやつが好きや」と言った。

 取引先の人たちは、いろんな言葉で何かを言ってくれた。

 取引先には必要とされているのかもしれない。

 では家族には。


 妻は「このままでいいの」と言った。

 息子は「パパさあ……」と言いかけてやめた。

 娘は「うん」と言った。

 どれも必要とされているとも、されていないとも、判断がつかない言葉だった。


 ベンチの上で、誠は缶コーヒーの空き缶を両手で持ちながら、夜空を見た。

 マンションのビルが邪魔で星はほとんど見えなかった。

 見えない星を眺めながら、「ま、いるんだろう、たぶん」と思うことにした。

 根拠はなかった。

 でも根拠のない確信は、誠にとって必ずしも悪いものではなかった。

 月曜日が苦手でも月曜日はくる。

 カレンダーを見間違えても文化祭は来る。

 鍵を忘れても、家族は戻ってくる。

 そういうものかもしれない。


 一時間後、佳代と莉子が帰ってきた。

 鍵を忘れてベンチに座っている父親を見て、莉子が「……何してるの」と言った。

「待ってた」

「鍵、忘れたの?」

「うん」

「信じられない」


 信じられない、という言葉だったが、莉子の声はそれほど怒ってはいなかった。

 むしろどこか、呆れながらも「まあ、しょうがないか」という響きがあった。

 佳代はため息をひとつついてから「ほら、開けるから」と言い、鍵を出してドアを開けた。


「……大阪、どうだったの」と佳代が玄関で聞いた。

「なんとかなった」

「そう」

「うん」

 それだけだった。

 でも「なんとかなった」に対して「そう」と返した佳代の声は、怒ってはいなかった。

 少しだけ、安堵に近いものが混じっていた気がした。


 莉子が「パパ、一時間もここで何してたの」と聞いた。

「……考えごと」

「何を」

「……俺って、必要とされてるのかなって」


 莉子が少し黙った後、「何それ」と言った。

 笑ってはいなかった。

「……別に、大丈夫でしょ。いるじゃん、ここに」

 それだけ言って、莉子は部屋に入っていった。


 誠は玄関に立ったまま、「いるじゃん、ここに」という言葉を頭の中で繰り返した。

 必要とされているかどうかより前の話だった。

 いる、ということ。

 ここに、いる、ということ。


 台所から佳代の声がした。

「ご飯、あるから食べる?」

「食べる」と誠は答えた。


 夕食を食べながら、誠はずっと気になっていたことを思い出した。

 文化祭の演劇の感想を、まだ莉子に言えていなかった。

 謝罪交渉の前後でそれどころではなくなって、言いそびれていた。


 食べ終わってから、莉子の部屋のドアをノックした。

「なに」

「文化祭の演劇、よかったよ。あのセリフ、ちゃんと言えてたね」

 三週間、言えなかった感想だった。


 莉子は少し止まった。

 ドア越しに、気配が止まった。

「……うん、ありがとう」


 それだけだった。

 ドアは開かなかった。

 でも「うん」の重さが、文化祭当日の「うん」とは違った。

 誠にはそれがわかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ