母上と少年と。
「やぁ、アシュレイ。待たせたね」
反射的に二人は声の主を探した。
硝永の邸から戻ってきた昂聖が余裕たっぷりの口調で歩いてきた。後に息も絶え絶えになった羽鳥が続く。
『―――……っ』
ほっとしたのも束の間。昂聖の登場に安心したアシュレイは、ぺたりとその場にへたり込んでしまう。
思わず、張り詰めた緊張の糸を切ってしまった。
「アシュレイ」
顔を上げると、淡く微笑んだ昂聖がアシュレイを見下ろしている。
「ご苦労様…と言いたい所だけれど、まだ油断は出来ないよ。大丈夫かな?」
力の抜けた体を茉莉花に支えられ、アシュレイは再び立ち上がった。力強く頷き、服についた土を払う。
「良い子だね。さぁ、二人とも少し離れていてくれるかな?」
庭の隅を姿勢で示し、昂聖は首につけたペンダントをアシュレイに握らせた。
落ち着いた、深い青。妙な輝きを放つ大きな石に豪華な装飾が施してある。
ペンダントを握り、昂聖を見上げると、彼はにっこりと笑ってアシュレイの頭をぽんと撫でた。
「それはお守りだよ。大切な物だから無くさないで欲しい」
アシュレイは小さく頷く。
「…昂聖様」
「ああ、わかっているよ」
対立する女性の動きを睨むように見張っていた羽鳥が、痺れを切らして昂聖を急かしていた。
羽鳥の先には、肌が紙のように白い女性が立っている。
アシュレイの元に現れた時は、もう少し雰囲気が重くて、暗かったのに、今は何処かうっすらと微笑んでいるようにも見えた。
それでも、手に持つ嫌な凶器は隠そうともしない。
時計の蓋を開いて、昂聖はいくつかの針を眺めた。
――ノアの空間時計。
それぞれ別々の文字を指し示す針は、一つ一つが違った形状をしている。
ダークブルーの瞳を細めて、昂聖は懐中時計を閉じる。
ふぅと短く息を吐く。
『――昂聖…』
ほんのりと笑う女性。しかしそれはその姿のせいか、不気味なものに見える。
昂聖の元に一歩、足を踏み出す。
同時に昂聖は一歩、後へ引いた。
彼女は首を傾げる。
『昂聖?』
首が落ちたかと思った。
そう錯覚するほど、彼女は人間離れした首の傾げ方をする。
やはり《蝕》に侵されているのか。
ごくりと、羽鳥は息を飲んだ。
「…母上」
静かに、その場を支配する声が響く。
「あなたは、何をしているのかな?」
羽鳥の前に、昂聖は自ら歩み出た。
「こ、昂聖様っ」
引き戻そうと昂聖に手を伸ばしかけた羽鳥を静し、肩越しににこりと笑う。
「まだ君の出る番ではないよ」
そこには、絶対服従の意味が含まれている。
音にならない言葉を飲み込み、手を引っ込める。
くすぶる蟠りを胸に、羽鳥は睨むように女性を見た。
《蝕》に侵された者は、心が無い。だからどんな行動に出るのかがわからない。
それは侵食が進んでいればいるほど。
細心の注意を払わなければ、昂聖の命に関わるかもしれない。
「母上。僕はあなたのような人に呼ばれる名前は持っていないよ?」
ふと、羽鳥は昂聖を見た。
昂聖の言葉に母上と呼ばれる女性はいぶしげに唇をへの字に曲げる。
彼女からしてみれば、母親であるのに何故そう言われるかがわからないのだろう。
いや、《蝕》に侵されているからか。
「僕のためと思うのなら、最初から家を出て行かなければ良かったものを。僕のためを思って殺人かい?」
ふん、と鼻で笑い、昂聖は母親を睨みつける。
口元は笑っている。
「あなたはただ、僕の家族を殺して楽しんでいるだけじゃないか」
ダークブルーの瞳は、濡れている。
「昂聖様!」
羽鳥が動くと同時に、彼女は凄まじい叫び声を上げた。
「本当は気づいていていたんじゃないかい?僕の考えが、昔とは変わっている事に!」
『いやぁぁぁああ!!』
「聖!違うのか!?」
「昂聖様!落ち着いてください!」
「あなたは間違っている!多くの人の命を奪い、作り上げた幸せが僕の為になるとでも?笑わせてくれるじゃないか!」
酷く愉快そうに昂聖は笑う。笑って、精一杯笑い、今にも泣きそうに叫ぶ。
昂聖の母親は、聖は、髪を振り乱し、力の限り叫んだ。
羽鳥の腕の中で昂聖は身を乗り出し、聖を煽る。
『――――!!』
様々な感情の叫びが交差する中で、今にも走り出しそうな昂聖を取り押さえる羽鳥は、声ではないものを見つけて視線だけで振り返った。
「アシュレイくん!?アシュレイくん!」
茉莉花の腕の中で人一倍感受性が強く、影響されやすいアシュレイが頭を守るように体を丸め、声にならない声で泣き叫んでいた。
アシュレイの声は直接頭に響く。
どいつもこいつも感情の声に呑まれて。
「収めるこっちの身にもなってくださいよ…っ!」
小さく羽鳥は舌打ちをして、勢い良く体を捻った。
「昂聖様…すみません!」
左足を軸に、羽鳥の腕を退けようと掴みかかる小柄な体を地面に投げる。
軽い体は遠心力の力もあって、簡単に倒れてしまう。
「羽鳥く…!」
「いい加減にしてください!」
頭に血が登っている昂聖は、すぐに怒りの矛先を羽鳥へと変えてくる。
その頭に、羽鳥は初めて大声を上げる。
「何…!」
「昂聖様。あなたは、お母様を助けたいと思っていたんじゃないんですか?また会いたいと思っていたんじゃないんですか!?」
「………っ」
悔しそうに眉を寄せ、昂聖は羽鳥から目を逸らした。
羽鳥は息を切らしながら昂聖を見下ろす。
「あなたは、人を脆いと言った。それは、お母様が、家を出て行ってしまわれたから。耐えきれなくなって、いなくなってしまわれたから。私は同時、新人だったので、詳しいことは知りません。でも、あの日、あなたは悲しい目をしていました。そしてその目を、この事件が始まってから、ずっとしていた。こんな形になってしまったことを、悔やんでいた」
事件が始まって、昂聖はいつもより頻繁に懐中時計を見ていた。
それは犯人が自分の母親だとわかっていたから。
聖の心の残量を確かめていたから。その度に瞳を細めるのは、聖がもう、呑まれてしまうと悟ったから。
悔しかった。
大好きだった母親を助けられないのが。
いつの間にか昂聖は唇を噛み、強く芝生を握っていた。
俯いたその体は震えている。
「あなたは、本当に我が儘です。自分勝手ですよ…昂聖様。あなたの苛立ちは、私が受け止めます。私が替わりに傍にいますから。だから、自分の苛立ちからお母様を責めるのは、止めてください。例え、手遅れだったとしても…」
「もういいよ、羽鳥くん…」
切なる思いを胸に、羽鳥は静かに昂聖を見つめる。
昂聖は、顔を上げた。真っ直ぐに聖を見つめて。
「彼女を…母上、を……楽にしてあげてほしい…」
「…はい」
目を伏せ、羽鳥は傅いた。
聖は呆然と立ち尽くし、濁った瞳で、覚悟を決めた我が子を見つめる。
それは、羽鳥が目の前に立っても、揺らぐことはなかった。
「……すみません」
聖の胸に手を翳す。
嫌な予感がして、茉莉花は急いでアシュレイの目を手のひらで覆った。そして強く目を瞑る。
アシュレイにそんなことをしても意味がないことは知っていた。
「失礼します」
羽鳥の右手は、彼女の胸の中へ沈み込んで行った。
昂聖にはその部分が見えない。けれど、何が起こっているかはわかっていた。
沈み込む羽鳥の手は、あの黒い塊の感触を見つける。そして、それを握った。温かい、鼓動を感じる。
聖は目を見開いた。
そして、昂聖から目を離すことなく、微笑む。
「母…上…」
崩れていく母親の姿を見ても、昂聖の表情は何一つ変わらなかった。目を反らすこともしなかった。
ただただ、その最後の姿を見て、目を見開くだけだった。
何かを伝えようと、聖の唇が開いては閉じる。
黒い影を消し去り、羽鳥は右手を引き抜いた。
白い手袋は汚れることはない。
何故なら、彼女に刺さっていた右手は彼女心に触れていたから。
だから、穴が開くこともない。
「…………」
最後の微笑み。その優しい笑みを残したまま、深い眠りにつく。
重たい体を支え、羽鳥は知らずに涙を流していた。
聖の心に触れ、共感しとしまった。
ただ、寂しそうな顔をする大切な人に、笑って欲しいだけだった。
偽りの笑顔ではなく、心から。
ただ、それだけだった。
なのに、それが出来ずに苦しんでいるのを見ていることしかできない、やるせない気持ち。
彼女はそれを感じていた。
ある意味、この方と俺は似ていたのかもしれない。
だからこそ、共感してしまった。
「………僕には、わからないよ。母上…」
どうして笑うんだい?
母親の眠る顔を見つめ、昂聖は「わからない」と呟いた。
アシュレイが、悲しみの渦に巻き込まれ、茉莉花の腕の中で泣いていた。
その手には、青いペンダントが握られていた。




