《蝕》に囚われし彼女と銀髪少年
風が騒いでいる。妙な違和感覚えてアシュレイは振り返った。
当然のように、そこには誰もいない。居たのは近くで花に水をやる茉莉花の姿だけだった。
何かが起こる。
そうアシュレイは直感して、茉莉花の隣にくっついた。
「アシュレイくん?」
近づいてきたアシュレイの様子が先ほどまでと違うことに茉莉花は気がつく。
周りをじろりと睨むアシュレイの空気は鋭く、冷たい。
花が揺れる。風がやんだ時、アシュレイの育てていた黄色い花だけがゆらりと揺れた。
何かが、来る。
アシュレイは急いで銀色に光る携帯を開き、《一ノ瀬昂聖》を呼び出す。
突風が起こって、それからぴたりと風が止んだ。
ひやりとアシュレイの背中から氷解が滑り落ちる。
後ろにいる茉莉花が震える手をアシュレイに添えた。
ぷつんと音が聞こえ、慣れ親しんだ声が響く。
「………」
当然のようにアシュレイは無言で携帯を握り締める。ぞわぞわと何かが背筋を這い上がった。
『すぐに戻るから、それまで持ち堪えてくれるかな』
感情を押し殺した声がアシュレイの耳に届いた。
「――――っ!」
刹那、黒い影が飛び出した。
二人は反射的に身を竦め、固まる。
アシュレイの胸は大きく跳ね上がった。熱いものがこみ上げてくる。
これは、
恐怖だ。
怒り。母親を殺された、憎しみ。
それも深く、悲しいほどの。
同時に、瞼が熱くなる。
けれど、涙が零れるようなことは、決してない。
それはどうしてか。
昂聖は言った。
――それは、アシュレイの感情が豊かだからだよ。
豊か過ぎるが故に、表現できないんだ。
もう少し大きくなればきっとわかるよ――
その通りだと、思った。
こんなにも辛くて苦しいのに、それだけでは修まらない気持ち。言葉が的を射ていない。
――アシュレイの中で感情と言葉が上手くリンクしていないだけだよ。
アシュレイの中で、すべての感情に当てはまる言葉はまだない。出来上がっていない。
でも、その入り組んだ感情は徐々に形を成していくる。
様々なものが、入り組んで、混ざって、まとまって。
純粋な、怒りとなる。
返せ。
アシュレイはうっすらと涙を浮かべ、肩を震わせた。
「あ、シュ…」
語尾は言葉として音にならず、霧散して消えていく。
怯えた茉莉花がアシュレイの体を抱きしめた。
影の姿が明確なものとなる。
否。初めからわかっていた。ただ、アシュレイの頭がその姿を認めるのを拒否していただけ。
女だ。髪の長い、どこかで見たことのある…
ダークブルーの瞳。
「自分の感情に、呑まれては、いけません…っ」
「!!」
アシュレイは目を見開いた。
茉莉花が、アシュレイの体を押さえるように抱きしめなおす。
いつの間にか、体が動いていたらしい。
恐怖に打ち勝つほどの負の感情。
茉莉花には、伝わってしまったらしい。
「いけません…人を傷つけるようなことは、例え何があっても…」
もどかしさに、アシュレイは唇を噛み締めた。
怒りの静まったアシュレイを拘束する腕の力を抜いて、茉莉花は一先ず安心する。
まだ、体の震えは止まらない。
女はしばらく回りを見渡して、茉莉花を見つけると、焦点を定めていない瞳を輝かせた。
『あなたは、一ノ瀬のメイド?』
ぞっとするほど低くて、切ない声だった。
『昂聖と会ったことはある?話したことは、あるわよね』
矛盾を伴うような一方的な質問だった。
どの質問にも、アシュレイなど眼中にない。
あるのは、茉莉花一人だけ。
あの夜に襲ってきた人だ。
あの時にも、そんな質問をされた。自分にされたとは思ってもいなかったから、ただの物音のようなものにしか捕らえなかった。
彼女は言っていたのだ。
自分はあの子の母親。息子を返して、と。
「昂聖様は、そんな事を望んでなどいません…!」
間二打声で告げる茉莉花に、女はにっこりと笑った。
『あの子は寂しがっていた。誰にも心を開けず、一人で居ることを。長い間、ずっと苦しんでいたの』
白い布を構える女。
茉莉花の表情は引きつった。
もう、何も言えなかった。
気持ちが伝わらない。何も見ていないのだ。
彼女は。
笑っている。
布は、
赤く染まっている。
目を逸らせずに固まる茉莉花の視界が遮られた。
「アシュレイ…くん…?」
かすれた声を洩らす茉莉花。
茉莉花と女。昂聖の母親の間に、アシュレイは立ちはだかる。
『お姉さんは、僕が守るよ。お兄ちゃんに、頼まれたんだ
声とともに、別なものが、茉莉花の頭の中に流れ込む。
『お兄ちゃんは、このことを知ってたんだ…』
これは、アシュレイの考え。
想い。音でもないその声、言葉。震えているようだった。
――怖いなら、無理をしないで。
強くそう願っても、アシュレイはそこから動こうとはしなかった。
『ボク…そこから退けて…』
頑なにアシュレイは首を振る。
『お願い』
彼女は困っているように見えた。
多くの人間を殺しているのに、何故?
どうして戸惑う。
昂聖に話を聞かされていない茉莉花にはわからなかった。
彼女は、特定の使用人だけを狙っているということ。
《蝕》によって引き起こされている現象を。
『お母さんなのに、そんなことしちゃ、いけない』
不意に、声が流れ込んできた。
アシュレイは真っ直ぐに女を見つめている。
女に言っている。昂聖の母親である、彼女に語りかけている。
『退けて』
どんなにアシュレイが語りかけても、彼女は茉莉花から標的を変えようとしない。
それでも、アシュレイは何度も言った。
それは、自分のように昂聖を辛い目に合わせたくないからか。
『やめて。お兄ちゃんを苦しめないで。悲しませないで。家族を奪っちゃだめ』
地面は濡れていた。
『昂聖…』
彼女は一歩、アシュレイと茉莉花の方へ踏み出した。
どうしてわからないの?
アシュレイの心が大きく揺れる。
その時だった。




