昂聖とは
しゅるりと、何か柔らかい物が走るような音がした。
「?」
豪勢なフリルをふんだんにあしらったメイド服。一ノ瀬が雇った一流デザイナー、メデル作のオーダーメイドのメイド服だ。昂聖の専属デザイナーでもある。
黒と白が見事にお互いを引き立て合っていて、巧く調和している。フリルが多く、良いデザインだと、ここに来るメイドは言う。
茉莉花そのメイドの一人だ。
メデルの作る服は人気が高い。
「……誰か、居るのかしら…」
後方から聞こえる音に、茉莉花は首を傾げて振り返った。だが、茉莉花が通る廊下は真っ暗で何も見えやしない。せいぜい見えるのは手を伸ばした先ぐらいまで。そんなに広範囲は見えないのだ。
しゅるり。
耳元で布の擦れる音がした。
反射的に振り返った目の前に、ぎらぎらと光る眼が見えた。
さあぁっと血の気が引いて、息が詰まる。背筋から氷塊が滑り落ちる。
「茉莉花さん…!」
「きゃああっ!」
恐怖に怯え、茉莉花はしゃがみ込み、悲鳴を上げた。
いち早く駆けつけた羽鳥が茉莉花の肩を抱く。
「誰だ!」
羽鳥の声と同時に、荒々しい音を立ててそばの扉が開き、影が部屋に飛び込んで行った。
小さく舌打をして苛立たしい気持ちを抑える。
「残念だね、羽鳥くん…どうやら逃げてしまったようだよ…?」
灯りを持ち、ゆっくりと歩いてきた昂聖。ローブ姿で眠たいのか、欠伸をしながらやってくる。場違いにものんびりな昂聖に歯痒さを覚え、羽鳥は歯噛みをした。
「大丈夫ですか、茉莉花さん」
「は、とり…さん…?」
暗闇で視線を彷徨わせた茉莉花が羽鳥の姿を捉えた。
「夜に女性一人で歩くのは危ないね…事件解決と行くまで二人以上で行動することにしようかな?」
「昂聖様…」
「大丈夫かな?ああ…君も一人にならないことだよ。そうだね…僕には今の君が一番危ないと見えるよ。犯人が仕留め損ねたのだからね。茉莉花くんもしばらくは僕と一緒にいるがいい」
にこにこと緊張感の無い笑みを浮かべ、昂聖は茉莉花の前にしゃがみ込む。
かたかたと小刻みに震える茉莉花の手。それでも、羽鳥と昂聖の登場に安心したのか、徐々に落ち着きを取り戻していった。
こういう時は、昂聖のこの笑みは頼もしい。この口調も、重要な場では大きな説得力を持つのだ。
これであと少し、発言を考えてくれれば文句は無い。
誰にも気付かれないように、羽鳥は溜め息にも似た息を吐いた。
「それともあれかな?男二人と一緒に居るのは気まずいかね?」
「い、いえ…!とんでもありません…」
言いよどむ茉莉花を安心させるように、昂聖は茉莉花の手を取った。
そして、あの時と同じように、言い聞かせるように昂聖は同じ口調で言う。
「自分の立場は気にしなくて良い。僕が良いと言っているのだからね」
「…はい」
この言葉を昂聖は全ての使用人に言っている。言わば、昂聖の癖みたいなものだ。羽鳥にも、昂聖はこの言葉を向けている。
「では、今日は客室で眠るとするかな。僕と羽鳥くんは同じベッドで眠るから、茉莉花くんは隣のベッドを使うがいい」
ふわぁっと眠たそうに昂聖は欠伸をして、瞳にうっすらと涙を浮かべる。そして、茉莉花の手を引いて立ち上がった。
今は非常事態だから起きているのだろう。本来ならば、とっく間に寝てしまっている時間だ。昂聖がうとうとしてしまうのも無理は無い。
羽鳥に灯りを渡し、案内するように頼む。自分は不安の影を募らせる茉莉花の手を掴み、羽鳥の後について行った。
羽鳥の持つ灯りのみで、長い廊下を歩き続ける。
「茉莉花くんは一ノ瀬に仕えてどれくらいかな?」
いつものように見た目には似合わない口調で昂聖は茉莉花に話しかけた。その調子は、気を配らなければわからないほど、僅かに変化している。
昂聖が真剣だ。
肩越しに昂聖を振り返る。
最近になって羽鳥は昂聖の感情の変化がわかるようになってきた。日頃昂聖の傍で振り回されているお陰か。普段はあの老人のような口調と、にこにこした顔ではぐらかされ、何を考えているかわからない。
ずいぶん自分も成長したもんだ。それとも、わざとわかりやすく表に出しているのか?
どちらにせよ、振り回され成長していることには変わりは無い。
「だいたい半年ぐらいでしょうか?まだまだなんです。私…」
茉莉花はここへ来て日が浅い。
この邸での仕事になかなか馴染まず、使用人のリーダー格である頼城によく叱られていた。
頼城も茉莉花には早めに慣れてもらいたいのだろう。決して意図して怒っているわけではない。寧ろ、新たな仲間が来ると聞いて一番喜んでいたのは頼城だった。
あの人はどんな人でも受け入れてくれる、懐の広い人だと、羽鳥も尊敬していた。
しゅんとしょ気てしまった茉莉花を励ますように、昂聖は少し声のトーンを上げた。
「いやいや。茉莉花くんは良くやってくれているよ。何も失敗を怖がることは無い。もっと積極的で構わないよ?」
「はい」
主を心配させまいとして、茉莉花は笑顔で頷いた。いつもの緊張したような、強張った顔ではない。茉莉花の笑顔だとよくわかる。
対して、昂聖は「うんうん」と頷いていた。
「では、父上には?」
「ご主人様…にですか?」
ここの全ての使用人は昂聖の父上に雇われている。それは羽鳥も例外ではない。ただ、昂聖は羽鳥を気に入って私的利用しているだけないのだ。
考えてみれば、昂聖は何が面白くて羽鳥を近くに置いているのか。
羽鳥自身、心当たりが無い。執事、と言う自分の立場を抜いてしまえば、ただの一般人に過ぎないのである。
それとも、あれか。昂聖の言った《特別》。それが関係しているのか。
羽鳥が何気なく上を見上げると同時に、「う~ん…」と茉莉花も考え込むように視線を見えない天井に向けた。
「五ヵ月ちょっとだったかと思います…その後、すぐに邸で働くように言われて……二週間ほど前に」
「そうか、そうか。じゃあ、まだこの屋敷の全てを把握しているわけではないんだね?」
「はい……」
「そうか、そうか」
「?」
茉莉花は不思議そうに昂聖を見た。同じく羽鳥も横目で昂聖を見やる。
当たり前のように昂聖は笑顔だった。
羽鳥が開いたドアの向こうでは、小奇麗に整えられた部屋が一向の到着を待ち構えていた。塵一つ無い清潔感の溢れる部屋。特に目立ったものは何も無く、客が過ごしやすいようにシンプルなデザインになっている。
いつも昂聖の部屋ばかり見ているせいか、客の宿泊用の部屋に置いてある物は多いような気がする。
昂聖は自分の欲しいと思う物を欲しがらない。そのくせ、相手には欲しがるものを与える。それは気まぐれだと彼は言う。
使用人は、それを彼の優しさだと言う。
昂聖は決して見返りを求めない。
彼は孤独な存在だと、羽鳥は思う。
それ故に、昂聖はこんな話し方をするのだと。
本当は、寂しいのでは?
十四歳だって、年上の羽鳥からしてみてばまだまだ子供だ。もっと、我儘言って、困らせてくれたって構わないのに。
それでも、そんな昂聖の下で仕えることに誇りを持っている者は少なくない。ここのほとんどの使用人は昂聖の父親の使用人であるが、昂聖をご主人様以上に慕っている。もちろん、ご主人である彼が多くの使用人を自分に近付けないせいでもあるが。
改めて部屋を見回す羽鳥を、ベッドに座った昂聖が面白そうに眺めていた。点検も兼ねて、部屋を一巡し終えた羽鳥は、今更ながらにその視線に気付き、動きを止めた。
「そんなにここは珍しいのかい?」
「いえ、ただここには少々物が多いと思いまして…」
「僕は部屋に必要最低限の物しか置かないからね。デスクと筆記具。あとベッドさえあれば僕は満足だよ」
そう言うと、昂聖はくるりと反転して、ベッドにうつ伏せになる。猫のようにその幼さの残る瞳をすうっと細めると柔らかな布団に顔を埋める。
じっとさえしていれば、普通の子供に過ぎない。
昂聖がこうなのは、生い立ちが深く関係している。直接は言わないが、昂聖は遠まわしにいつか、そう言っていた。
「どうして最低限の物なんですか?」
金持ちで羽鳥がイメージするのは、必要でもない物を気に入れば何でも買い込むマイナスイメージなもの。
対して昂聖のその性格とは相反するもので、羽鳥の予想を裏切るものであり、初めてこの邸に訪れた羽鳥はかなり驚いたのを良く覚えている。
ぱたぱたと布団を叩く足を止め、昂聖はつまらなさそうな瞳をする。
「羽鳥くんがイメージしているのは父上だね。僕はそんなことはしないよ」
「分かっています」
昂聖が《父上》を口にするとき。それはそれはつまらなそうな顔をする。
「羽鳥くん。何でも金があれば手に入るというのは大きな間違いだよ。それは、父上の考えだ。愚か者の考えだ。確かに生きていくためには金が必要になるのだけれども、金で手に入れるものは結局皆、手に入れた瞬間ガラクタさ。そんな物なら僕は何も要らないね。でも…」
例外になるものは意外とたくさんあるものさ。
優しく口元を緩めて、昂聖は表情を和らげた。
「例外、とは?」
羽鳥は首を傾げた。昂聖がこんな表情をするのは珍しい。
対照的に昂聖は瞳を細め、どこか懐かしむように視線を上へ向けた。
いつも昂聖はその顔に似合わない表情をするのだが、この時のこの顔だけは、妙にしっくりくる表情だった。
自然に零れた笑み。
「その物に特別な思い入れがある。例えば、記念日。あれは人にとって計り知れない価値を持たせる。あとは、買い与えてくれた物。嫌いではない限り、それを貰う者としてはとても嬉しいものだよ。全て、好意を抱く者からもらえば、ね」
もぞもぞと布団に潜り、昂聖は一方的に話を打ち切った。まどろむ様に瞳を閉じて、ベッドの端で丸くなる。
空いたスペースは羽鳥の為なのだろう。自分のスペースよりも大きく余らせてある。
占領したって構わないのに。昂聖らしい行動に、羽鳥は苦笑した。
「きっとそれは昂聖様にとって、特別な物なのでしょうね…」
一連の話を聞いていた茉莉花は、そっと呟いた。
「…ああ…とても、特別なものだよ…」
よほど眠たかったのか。昂聖は直ぐに深い眠りに落ちてしまう。幸せそうな呟きを最後に規則的な寝息を立てる昂聖に、羽鳥と茉莉花は顔を見合わせてくすくすと静かに笑った。
もうすぐ日付の変わる頃。
あまり遅くなってはいけないからと、羽鳥は照明を落とした。一緒に寝て良いものかと一瞬迷いはしたが、今日は昂聖の言葉に甘えようと思った。
別に違う場所で寝ても昂聖は文句一つ言わない。ただ、逆にそれが心配になる時がある。だから、出来るだけ、昂聖の言葉には従おうと思ったのだ。
幼さの残る寝顔を確認して、羽鳥は昂聖と同じ布団で眠った。




