■開幕の合図■
あの子は悲しんではいないだろうか。
冷たい冷たい人ごみの中で、独りになっては居ないだろうか。
孤独に震えて泣いては居ないだろうか。
もう一度、この手で抱きしめてあげられたのなら。
お前は弱いから。
すぐにその小さな心の中に閉じ篭ってしまう。
ああ、どうか、そんなに傷ついた目をしないで欲しい。
そんなに偽った自分で飾らないで。
お前がそんなに傷つくのなら。
今すぐ、助けに行ってあげるよ――。
◆ ◆ ◆
「だからだよ。羽鳥くん」
「はぁ……」
愉快そうに紅茶の匂いを嗅ぐ少年に、羽鳥は溜め息を吐く。
何だってそんなことを言うのか。いつもの突拍子ない発言に、羽鳥は呆れ顔を返すばかりである。いい加減慣れてきた。と言うのが本音である。これは日常茶飯事のことだから。
十四歳にして天才、尚且つ羽鳥の主であるこのお方。
一ノ瀬昂聖。
一ノ瀬はここでは有名な名前で、昂聖の父親は一ノ瀬グループを束ねる最高権力を持つ方だ。要するに、昂聖はお坊ちゃまである。
「甘……っ」
紅茶と一緒に用意した角砂糖をそのまま口に放り込み、舌で形を崩す。砂のように細かく散らばった甘さを唾液で薄め、飲み込んだ。
甘いのが嫌なら食べなきゃいいのに。
羽鳥はいつもそう思う。だけど、昂聖はにこにこと笑って次々と口の中に放り込んでは飲み込んでいくのである。
意味が解からない。
羽鳥は再び溜め息を吐いた。見ていた昂聖がくるくると回る椅子から身を乗り出す。
「お疲れかな?」
「いいえ、違いますよ」
ふるふると首を振って羽鳥は姿勢を正した。
甘ったるい塊をその小さな口に運び、咀嚼する。こくりと白い喉が鳴った。
「そう何度も溜め息を吐くと幸せが逃げてしまうよ。羽鳥君は僕の執事。イコール、一ノ瀬に使える執事。幸を逃してもらっては困るよ?」
まぁ、幸を逃して困るのはキミ自身だけどね。
そうして、昂聖は紅茶を啜る。角砂糖を大量に放り込んだ紅茶は、それはもう甘いのだろう。紅茶味の砂糖とはいかなくても、砂糖味の紅茶まではいくのではないかと思わせるほどの砂糖の量だ。
まぁ、リゼはチャイ向きであるものだから、甘くても問題はないのだろうが。
元々甘いのはあまり好きではない羽鳥には良いものとは言い難かった。
糖尿病になってしまったらどうするのだ。ご主人様に申し訳が立たない。
と言うより、昂聖も甘いものが好きではないのだからやめればいいのに。
昂聖の執事として働く羽鳥にとっては、昂聖のそれはちょっとした恐怖だった。
「では、そろそろ行くとするかな」
椅子から飛び降りて昂聖は羽鳥の持つコートに腕を通す。身長が伸びることを想定してオーダーメイドで作った昂聖のお気に入りのコートだ。昂聖の癖として、お気に入りのものは少しでも長く着れるように僅かに大きめに作ってある。
その黒い瞳の色に良く似たコートを翻して、昂聖は羽鳥を振り返った。猫のような瞳がにいっと笑う。
「物語の始まりを見逃してはつまらないからね」
肌身離さず身につけている懐中時計の蓋をぱちんと開閉して、僅かに上を見上げた。
◆ ◆ ◆
暗く、狭く、光の差さない建物と建物の間。
そこを曲がろうと昂聖の足が動いたとき、羽鳥は反射的に昂聖の体を引き寄せた。嫌な予感が、背筋を駆け抜け、脳裏で警鐘が鳴り響いた。
これに関わってはいけない。見てはいけない。近寄ってはいけない。
そして、逃げられない。
羽鳥はそう直感していた。していたが故にこの後に昂聖がどんな行動に出るか、解かっていた。
見たくない。けど、逃げられない。
「思うのだが…どうして人はこんなにも脆いのだろうねぇ?」
「知りませんよ…そんなの…」
目の前の光景に吐き気がした。血生臭い臭いがする。黒と赤が混ざり合っている。
そんな光景。昂聖はわかっているはずなのに、その楽しそうな口調はいつもより残酷な響きを持っている。
羽鳥は昂聖の目を覆う手に力を込めて、目の前の現実から昂聖を切り離そうとした。
だが、昂聖にはもう、ここに広がる光景が目に見えているのだろう。羽鳥の腕の中で大人しく創造の中の光景を楽しむ。有名な絵画を鑑賞しているかのように、優美に微笑み、感想を告げる。
どうしていつも昂聖が外に出るとこうなるのか。羽鳥は本日幾度目かの溜め息を吐いた。
「昂聖様。ここを離れましょう。このままでいると、私が辛いです」
「何だったら手を離してくれても構わないのだよ?」
「いいえ。そうはいきません」
教育に悪い。などと言うときっと昂聖はまた何かを言い返して来る。羽鳥はぐっと話すのを耐えた。
羽鳥の言おうとしていた事が分かっていたのか、昂聖はくつくつと笑い、羽鳥の腕を掴み、上を向く。いつもよりもきらきらと輝く瞳は、新しいおもちゃを与えられた子供を連想させた。
「言いたいことは分かるがね、羽鳥くん。だが、残念なことに、この死体は父上に仕える執事のものだ。どの途、関わらない訳には行かないよ」
やはり。
ここからは逃げられなかったのだ。
ふっと全身から力が抜けて、羽鳥は溜まっていた息を限界まで吐き出した。
猫のように瞳を細めて、口元だけがにいっと歪む。昂聖の言葉に、羽鳥は外出してしまったことを後悔した。今更後悔しても、もう遅い。後悔するなら、昂聖の執事になったことを後悔するべきだ。
だが、そこまで考えると後悔の念など、羽鳥にとってはなんでもない。
それでも…
「現場で死体を見ることは無いじゃないですか……」
思い切り顔を顰めた羽鳥を見上げ、昂聖は体に纏わりつく腕を払った。
人気の無い路地裏に横たわる死体。地面に広がる赤い水溜りはぬるりと光っていて、そう時間は経っていないことが解かる。
ああ……嫌だ。出来ればこんな者、絶対に見たくは無かった…。
抉れた腹。無残にもその内臓は引きずり出されていた。人の身長の何倍のある内臓。
本物をこの目で見る日が来るなど、夢にも思わなかった。苦悶に満ちた表情がグロテスクだ。
「何か細いもので首を絞めたんだろうね。ほら、痕が残っているよ」
好奇心に煽られたのか、興味津々に昂聖は死体に近づこうとする。
「昂聖様!」
羽鳥は慌てて昂聖を引き戻した。本来なら無礼に当たる事なのだが、こうせずにはいられない。
「……っ、昂聖様、メデル様の折角のオーダーメイドのコートが汚れてしまいます」
思わず叱ってしまいそうになる勢いを噛み殺して、嗜める。
昂聖は初めて羽鳥に会った時に言った。今と変わらない口調で、にっこりと笑って。
――礼儀や立場を意識することは実に良いことだよ。
あのくるくると回る椅子に座って、口の中に放り込んだ飴玉を舌の上で転がす。からりと白い歯に飴玉がぶつかる音がして、次に聞こえた音は硬い飴玉を噛み砕く音。
羽鳥はじっと昂聖の前で固まり、気を付けをしていた頃。
――だけどね、僕にそんなものを意識していると痛い目に遭うよ?自分の立場は気にしなくて良い。僕が良いと言っているのだからね。
そうして、昂聖は羽鳥に歩み寄り、無邪気に笑った。
今なら解かる。昂聖は《そんなもの》を気にして相手に出来る人じゃない。
よくあるTVの悪戯や暇つぶしなら、ごく普通の執事としてやっていける自身が羽鳥にはある。子供は嫌いではないからだ。でも、昂聖は予想を遥かに上回るから。
「また殺されてしまったね…全く。どれだけ優秀な執事を雇っても無駄だと言うのに。飽きないんだね、あの人は」
羽鳥に抱えられ、昂聖は興味の失せた目で羽鳥を見上げた。
「またって……前にも執事が殺されているんですか?」
「いや、正確には一ノ瀬に仕える使用人だね。メイドや庭師までもが殺されているよ。でも全て父上が手を回して隠蔽している。使用人が号外しない限り広まらないだろうさ」
抱えられたまま、昂聖は何の気なしにぺらぺらとしゃべる。語尾に「いつかはバレる事だろうけどね」と付け足し、羽鳥の腕から逃れる。
どこまでも態度は子供な昂聖に、羽鳥は不服な顔をして付いて行った。
「羽鳥くんも、死にたくなきゃ十分気を付けることだね。彼女は一ノ瀬に近いものから
喰らっているよ?」
振り返ってきた昂聖に、一瞬どきりとした。
《彼女》とは誰だ?
その悲しい瞳は――――
「くれぐれも、僕から離れないようにね。これは命令だよ。羽鳥くん」
すうっと昂聖の口から感情らしきものが一瞬、消えた気がした。
「ああ、でも…キミは大丈夫か。羽鳥くんは特別だからね」
そして、直ぐに元通りの笑顔になる。
《特別》?
「昂聖様、特別とは、どう――」
「嫌でもそのうち知ることになるよ。僕が口を出すことではないね。その専門は父上だ。父上でもまだ、羽鳥くんのそのことについては気付いていないようだけどね」
羽鳥の言葉を遮り、昂聖は足早に暗い路地裏を出て行った。
はっとした羽鳥も慌てて校聖の後を追う。
「昂聖様!待ってください!」
「ぼけっとしていると容赦なく置いて行くよー?」
羽鳥よりも先を歩きながら、昂聖はオレンジに染まる街を堪能した。




