【第十三章:エルフ・アバヴ】
「かつて我らはハイ無上なる『ハイエルフ』であった! それがいまやどうだ、低俗な他種族と雑居し、あまつさえ我らの神聖なる疆域であった『ハイ州』に、連中を住まわせているのだ! 現職の議長という名のあの魔女は、すべてのエルフを裏切った! 彼女は人間や他の種族と密通し、深淵侵攻の戦争を利用して、エルフの神聖なる格位を貶めたのだ! 我らに異族と平座することを強いたのだ!」
「同胞たちよ、目を見開け! あの魔女に欺かれるな! 我らハイエルフはこの大陸の栄光そのものだったはずだ! ハイエルフとして生まれた我らは、あの女に破壊し尽くされた栄光を取り戻さねばならぬ! 『エルフ・アバヴ』に集え! 過去の栄華をその手に取り戻すのだ!」
人流の激しい交差点で、数人のハイエルフたちが自らの信仰を喚き散らしていた。
しかし、演説者の慷慨激昂した言論は、種族を問わずほとんどの通行人に無視されていた。時折、通りがかったエルフが足を止め、その高圧的な扇動を短く見つめた後、慌てたように立ち去る程度であった。
その時、演説者の傍らに立っていたエルフが、足を止めた一人の斑紋ハイエナを嫌悪と怒りの入り混じった目で見据え、怒鳴りつけた。
「何を見ている、卑しきハイエナめ!」
路上のハイエナは心底軽蔑したように鼻を鳴らすと、人間の仲間の隣へと戻り、吐き捨てるようにこぼした。
「チッ……法規さえなきゃ、あいつらの頸動脈の血がどれだけ不味いか試してやるところだがな……」
「ああ、気にするなよ、あんな狂信者ども。今日の目的は女の子が多い場所に行って目の保養をすることだろ?」
ハイエナは不満げに「フン」と鼻を鳴らすと、空を見上げて物思いに耽りながら答えた。
「……ああいう神経質な連中は反吐が出る。俺の田舎の州境にもエルフたちが大勢移住してきてるが、俺たちハイエナ族のギャングだってエルフに暴言を吐いたりはしねえ。むしろ、立場の弱いエルフを助けてるくらいだぜ」
二人は談笑しながら歩き去る。傍らの車道には、一台のセダンが通り過ぎていった。車内には、ハンドルを握るオークの随扈と、精気のない議長令嬢が乗っていた。
信号待ちの間、オークの随扈は路上の過激団体に気づき、短く彼らを見つめると、言いようのない無力感を覚えた。
(……今の民衆は平和に慣れすぎている。かつて深淵がもたらした傷跡も、その意味も、すべて忘れ去られてしまったのか……)
ふと隣の助手席に目をやると、令嬢はあの大男――「ビッグボーイ(大男孩)」と出会う前の、あの抜け殻のような状態に完全に戻っていた。オークの胸に、疼くような痛みが走る。彼は精一杯の慰めを口にした。
「お嬢様……ビッグボーイは、きっと何か急な仕事で忙しいだけですよ。数日もすれば、また姿を現すはずです」
「……ええ」
令嬢は顔を向けず、車窓に身を預けたまま外を眺め続けていた。
(……おかしいわ。もう何日経ったのかしら? 私、何か間違ったことをした? それとも、本当に用事があるだけ? でも、あいつは何一つ言ってくれなかった……)
信号が変わり、重苦しい沈黙のまま二人は屋敷へと帰宅した。車のドアが閉まる音が二度響く。オークの随扈はその場に立ち尽くし、屋敷へと消えていく令嬢の背中を見送った。
彼は、この数日間お嬢様の要求に従い、放課後になるとまず工場へと向かっていたことを思い返した。しかし、工場内では修理工たちの作業音が響くだけで、ビッグボーイの姿はどこにもなかった。
ふと、車内の音楽アルバムに目を向けると、数日前のあの衝撃的なライブが脳裏をよぎった。
(……何か、あの子の気を逸らせるようなものでも用意すべきか)
彼は何も言わず、再び運転席に戻り、エンジンを始動させてその場を後にした。
走行中のオークの随扈が数々の住宅を通り過ぎる中、ラジオからはある曲が流れてきた。
『――自分を責めないで、君が悪いんじゃない……』
『――わが子よ』
荒れた手のひらが、ビッグボーイの頬を優しく包み込む。目の前には、汗染みのついたシャツを着て軍用コートを羽織り、細めた瞳に深い哀愁を湛えた男の顔があった。
「……父さん」
その言葉を最後に、ビッグボーイは再び目を開けた。天井を見つめ、自分が手術後の病床に数日間横たわっていたことを思い出す。
傍らで計測器のデータを確認していたマッド・ゴブリンが、手元の冊子に記録をつけながら、振り返りもせずに淡々と尋ねた。
「……またオヤジさんの夢か?」
ビッグボーイはしばらく天井を呆然と見つめた後、ゴブリンに顔を向けて答えた。
「ああ。ソフトウェア(記憶)を完全に消去しきれてない。システムがしょっちゅうフリーズしやがる」
ゴブリンは苦笑を浮かべ、ビッグボーイの側に歩み寄った。
「違いない。あのオヤジさんに一度でも会った奴は、死ぬまで忘れられねえからな」
「不快感はあるか? 計測儀のデータは安定しているし、身体に拒絶反応は見られない」
マッド・ゴブリンは大男の体に繋がれた数本の配線を取り外し始めた。
ベッドに横たわった大男は脚を上げ、切断された脚の末端に装着された金属プレートをじっと見つめた。それから腰を押さえ、苦悶の表情で答えた。
「……悪くない。ただ、長く寝すぎて背中が痛くてかなわん」
「はっ! 早く慣れろよ。まだ次の手術が控えてるんだ。次はもっと長く寝ることになるぞ」
ゴブリンは軽口を叩きながら、ビッグボーイをジロジロと眺めた。
「それにしても、あんたはあのオヤジさん以上にイカれてるな。脊椎の両脇にコネクタを埋め込むなんて、俺だって試したことがねえ……」
「喜べよ。あんたの腕を信じてる証拠だ」
天井を見上げたまま、ビッグボーイは口角を片方だけ上げた。
ゴブリンは大男を支えて座らせると、傍らの台車に置かれた義足を取り出した。
「とりあえず、この臨時用の義足をテストしてみてくれ」
ゴブリンが義足を大男の金属プレートに固定すると、接続を示すインジケーターが点灯した。
「感覚はどうだ?」
見慣れた、しかし見知らぬ自分の「脚」。ビッグボーイは義足を軽く振り、足首を回してから、地面に足を下ろした。彼は眉をひそめて答える。
「……奇妙な感じだ。普段通りの動作でコントロールはできる。だが……義足からは、地面を踏んでいるという感覚がまったく伝わってこない」
ビッグボーイはそのままゆっくりと立ち上がろうとしたが、次の瞬間、上半身がバランスを崩して横に傾いた。すかさずゴブリンが彼を支える。
「当然だ。機械は機械、肉や細胞じゃねえんだからな」
「慣れるまで時間がかかるぞ」
ゴブリンは大男を支え、再びベッドの端に座らせた。
ビッグボーイは無機質な冷たい義足を見つめ、思案するように息を吐いた。
地下駐車場のオークの随扈は、長く溜息を吐き出すと、ハンドルから手を放した。車を降りてドアを閉めると、エレベーターへと向かった。
同じフロアの駐車スペースには、数台の大型セダンが不自然に並び、車内のエルフたちは狼のように神経を研ぎ澄ませて待機していた。
オークが辿り着いたのは、楽器のフロアだった。エレベーターを降りると、目も眩むような数の楽器が並んでいる。
彼はギター売り場を彷徨い、陳列されたクラシックギターを見つめた。だが、その外見はライブの記憶にある楽器とは何かが違った。続いて隣のベースに目を引かれる。シルエットは似ているが、やはり何かがおかしい。
苦悩していると、いつの間にか女性ゴブリンの店員が傍らに立っていた。オークは少し驚き、気まずそうにベースを指して尋ねた。
「あの……数日前のライブで、ボーカルの男が持っていたのはこれでしょうか?」
年配のオークからの意外な質問に、店員は一瞬呆気に取られたが、すぐに礼儀正しく応対した。
「メインの彼が持っていたエレキギターのことですね? 展示ケースの裏側にありますよ」
オークがエレキギターのケースの前に立ったその時。
階下から響いてきた激しい騒動が、彼の耳を捉えた。モールの警報が鳴り響き、銃を手にし、覆面を被ったエルフたちが楽器フロアへと乱入してきた。
「死にたくなかったら、大人しく一階へ降りろ!」
エルフの一人が銃口を向け、脅しをかける。
(……おいおい。なんてツキのなさだ……)
オークの随扈は息を殺し、素早く二人のテロリストと、制圧された民衆を観察した。相手に警戒させず、かつ付随被害を出さないための「隙」を探し、反撃の糸口を伺う。
指示に従い、オークは人流に混じってゆっくりと移動した。歩幅を抑え、目立たぬ位置をキープする。
「おい! あのオークの右腕は義肢だ! 先に外させろ!」
反撃の絶好の機会が訪れようとした瞬間、上の階からの叫び声が計画を遮った。
「貴様! こっちへ来い! 余計な真似をするな!」
オークは密かに拳を握りしめたが、銃口を突きつけられると、ゆっくりと手を緩めた。彼は乾いた笑いを浮かべて言い訳した。
「……ただの普通の義肢ですよ」
「つべこべ言うな! 外せ!」
テロリストが銃口をオークの頭に押し当てる。
選択の余地はなく、オークは右腕を連結部から取り外した。テロリストはその義肢を奪い取ると、力任せに放り投げ、弾丸を撃ち込んで破壊した。
人質たちはそのまま一階のロビーへと追い立てられた。
「同胞たちを分けろ! 傷つけるな! 他の卑劣な連中はおとなしくしてろ、さもないと痛い目を見せるぞ!」
広場に集められた人質の中で、リーダー格のエルフが部下たちに指示を出し、種族ごとに選別を始めた。
『――緊急ニュースです。先ほど、有名チェーンのショッピングモールでテロ事件が発生しました。警察は現場周辺に近づかないよう呼びかけています。特派記者が現場へ向かっており……ザッ……』
『……すべてのハイエルフの同胞たちよ。我々は今日、重い決断を下した。この歪んだ局面を打破するため、エルフ議会議長を引き渡せ――』
投影画面がハッキングされ、テロリストの宣言が強制的に流された。続いて画面が人質たちの映像に切り替わった瞬間。
放心したように画面を見つめていた議長令嬢は、見覚えのある後ろ姿を目にし、跳ね起きた。彼女は我を忘れたように、家を飛び出していった。
家を出たばかりのビッグボーイは、路肩に停まったトラックの脇で車椅子に乗っていた。膝に義足を載せたまま、バックドアを開けたマッド・ゴブリンに尋ねる。
「……他の連中には知らせたか?」
ドワーフのパイロットが大男を荷台に押し上げると、彼はすぐに備え付けられた投影装置を起動させた。
「他のみんなも現場へ向かってる」
ゴブリンはドアを閉めると、運転席に戻りアクセルを踏み込んだ。
現場付近。封鎖線の手前で、マッド・ゴブリンは偽造された身分証と、荷台に積んだ偽の撮影機材を警官に提示した。
ゴブリンの口八丁な言いくるめに、警官は半信半疑ながらもトラックを通した。モールへと近づく道すがら、増援のパトカーが次々と現場へ駆けつけていく。
ゴブリンは人通りの少ない路地にトラックを滑り込ませた。
運転席後方の荷台では、ビッグボーイが複数のモニターを凝視していた。モールの構造図、セキュリティ制御、そして艦内――ではなくモール内の監視カメラ映像が、彼の前に展開される。
「ゴブリン、ハイエナ。裏口と地下駐車場で伏せろ」
他のメンバーが次々と到着する中、ビッグボーイはモニターを見つめながら指示を飛ばす。画面の中では、テロリストがエルフの人質だけを別の部屋へと引き立てていた。
大男は通信機の向こうの恋銃癖に命じた。
「相手の生死は問わん。人質の安全を確保できるか試してみろ」
時間は一分一秒と過ぎていく。ビッグボーイは全神経を集中させて恋銃癖とテロリストの動向を追っていた。
……しかし、彼はまだ気づいていなかった。ある監視モニターの隅を、一人の影が音もなく非常扉へと掠めていったことに。




