【第十二章:世代(ジェネレーション)】
鍵を差し込み、自宅の扉を開ける。エルフ議長は疲れを滲ませながら、踵でハイヒールを脱ぎ捨てた。左手に脱いだ上着をかけ、右手で凝り固まった後頸部を揉みほぐす。
ふぅ、と深く息を吐き出した。明日は公休。ようやく時間が取れる。ソファに横たわり、心ゆくまでドラマを鑑賞する――そんな怠惰な贅沢を想像し、彼女は密かに胸を躍らせていた。
「お母様!」
扉の閉まる音を聞きつけたのか、議長令嬢が弾けるような笑顔で駆け寄ってきた。議長の瞳に一瞬だけ「死んだ魚の目」が浮かんだが、瞬きする間にいつもの穏やかで、しかし疲弊した母親の表情へと戻った。
令嬢は母親の手を握りしめ、興奮気味に手に持ったチケットを突き出した。
「ふふん、お母様。じゃじゃーん! ――明日の夜、一緒にコンサートに行きましょうよ!」
「コンサート?」
議長は怪訝そうに眉を寄せた。娘が歌劇場に興味を持っていた記憶はない。彼女は娘の額に軽くキスを落とし、短く答えた。
「……夕食の時に話しましょう」
議長は寝室に戻ると、部屋着に着替え、長い髪を一つに束ねてキッチンへと向かった。
母親が着替えに入った隙に、令嬢は再び客室へと足を運んだ。扉を叩き、中を覗き込む――だが、そこには誰もいなかった。
(……おかしいわね。今日一日、一度も姿を見てないわ……)
令嬢は口を尖らせて部屋を出ると、キッチンへと向かった。そこではオークの随扈が議長と共に夕食の準備をしていた。
次々と料理がテーブルに並べられていく。席についた議長は、三人分用意された食事の傍ら、空席のままのビッグボーイの席に目を留めた。
問いかけるより早く、令嬢がチケットを随扈と議長に差し出した。
議長がチケットの内容を検める。『連合楽団』。場所は市街地近くのスタジアム。指定席は『ロックBエリア』。
「……ロック?」
議長はチケットに記された単語に、戸惑いを隠せない。
「そうよ! お母様、このバンド、今すごく流行ってるの! 演出も最高だし、曲もすごくいいんだから!」
令嬢は期待に満ちた目で母親を見つめる。
「……ビッグボーイは?」
娘の喜びを前に、議長はチケットと「自宅でのドラマ鑑賞」を天秤にかけ――そして、内心で妥協した。
(まあいいわ……。今の若者たちが何を考えているのか、見ておくのも悪くない)
「朝から見てないの。どこに行ったのかしら……。せっかく彼が『一次情報』を調べてくれたのに……」
令嬢は手元に残った二枚のチケットを見つめ、自分の失言に気づいた。彼女は慌てて潔白を証明しようと捲し立てる。
「お母様、違うのよ! 彼は情報をくれただけで、このチケットは私が自分で手に入れたんだから!」
「ほう……?」
議長は片手で顎を支え、目を細めて娘を疑いの眼差しで射抜いた。
その視線に背筋を凍らせた令嬢は、思わず身震いした。
「本当よ! お母様! 信じて!」
横で二人のやり取りを見ていたオークの随扈が、口角を上げて静かに首を振った。
「……彼女の言う通りです、夫人。その場に私もおりました」
議長はオークと視線を交わし、やがて小さく笑い声を漏らした。娘に向き直り、優しく答える。
「……分かったわ、分かった。信じてあげましょう」
令嬢が安堵の溜息を漏らすと、議長は再びオークに視線を向けた。
「ところで。貴方もビッグボーイの行方を知らないの?」
オークは眉を寄せ、記憶を辿ってから推測を口にした。
「夫人、私も朝以降、彼の姿を見ておりません。……おそらく、何か私用があるのではないでしょうか」
「……分かったわ。先に食事にしましょう」
議長は思案げに頷くと、二人に微笑みかけ、ナイフとフォークを手にした。
一方、その頃。
ビッグボーイは、テーブルの向こう側でマッド・ゴブリンとドワーフのパイロットが、阿吽の呼吸で食器を特注の食洗機に放り込む様子を、興味深げに眺めていた。
彼は椅子の肘掛けに身を預け、口角を上げて茶化すように尋ねた。
「……数日前まで、あんなに彼女のことに小言を言っていたのに。今日はどうしたんだ? システムエラーか、あるいは防壁の不具合か?」
ゴブリンは食洗機に背を預け、大男に向き直った。
「へっ。チャンネルさえ合えば、ノイズなんてのは消えるもんだぜ」
「ええ……。たまたま彼が悩んでいたポイントを指摘したら、学術的な話で意外と意気投合しちゃって」
ドワーフのパイロットは大男の視線に、少し照れくさそうに後頭部を掻いた。
大男は口を尖らせ、満足げに頷いた。
「ほう? ドワーフのパイロットが工学にまで通じているとはな」
ゴブリンは不機嫌そうに目を細めて大男を見た。
「おいおい、恋銃癖の悪い影響を受けてるんじゃないか? 新しい奴が来たらすぐに古株を蔑ろにするとはな」
大男は背もたれに寄りかかり、心地よさそうに答えた。
「……分業できる人間が増えるのは、効率化の基本だろう?」
「そいつは違いないが、このルーキーはまだ修行が足りねえよ」
ゴブリンは親指で隣のドワーフを指し、それから改めて釘を刺した。
「……明日の朝には取りかかるぞ。本当に、うちの一階で寝るなんて不自由な真似をするつもりか?」
「ちょっと、失礼ね。私は輸送機を操縦するだけじゃなくて、『シュシュ』のメンテナンスだって自分でやってるんだから」
ドワーフのパイロットは鼻を鳴らし、大男より先に言葉を継ぐと、部屋の隅にあるハイエナ型のロボットを指差した。
「だから工学の基礎ぐらいあるわよ。あんな……壊れかけのハイエナ・ロボットくらい、私ならすぐに修理してみせるわ!」
「おい、ルーキー……。俺と素人を一緒にしないでくれ」
ゴブリンは即座に肘でドワーフを突き、不快そうに訂正した。
「あのゴミの塊は俺の作じゃない。あの『狂犬』のゴミみたいな傑作だ!」
ドワーフが首を傾げる。「え? 狂犬?」
「連合帝国に一緒に行った、あのハイエナのことだ」
大男は鼻から笑いをもらすと、首を振ってゴブリンに応じた。
「俺の性格を知ってるだろう。快適に寝るためにわざわざ二階に上がるなんて、無駄な労力は使いたくない」
ゴブリンは口を尖らせて肩をすくめた。
「……まあいい、好きにしろ」
ドワーフのパイロットは、昨日一緒に仕事をしたハイエナの男を思い出し、困惑気味に呟いた。
「えぇ……彼のこと? 面白い人だったけど……」
ゴブリンはドワーフに向かって盛大に白目を剥いた。
「……面白いわけあるか。ルーキー、あいつは最高に煩いんだ。あの機械の中身は、俺が捨てようとしたジャンクパーツばかりだ。それをあいつが勝手に盗んで組み上げたゴミなんだよ」
三人はしばらく雑談を交わし、ゴブリンはソファに毛布と布団を敷いた。彼は大男に声をかけると、ドワーフのパイロットと共にそれぞれの寝室へと戻っていった。
ゴブリンたちが二階へ上がると、リビングは静寂に包まれた。大男は両手で体を支え、ゆっくりと重心をソファへと移すと、慣れた動作でその身を横たえた。
彼はぼんやりと天井を眺め、静寂の中で意識を空っぽにした。やがて、視界はゆっくりと暗闇へと沈んでいった。
翌朝。アラームの音と共に、議長令嬢は勢いよく目を開けた。
彼女は手早く部屋着から着替え、机の上のチケットを掴むと、足早に客室へと向かった。
だが、開け放たれた扉の先には、生気のない無機質な空間が広がっていた。彼女の心に、困惑と喪失感が広がる。
(……おかしいわ。一晩中帰ってこないなんて、一体どこに行ったのよ。せっかく彼の一人分も用意したのに……)
令嬢はチケットを握りしめ、黙って自分の部屋へと戻ると、ベッドに倒れ込んだ。天井の水晶を覆う線条をぼんやりと見つめているうちに、彼女は再び微睡みの中へと落ちていった。
室内を満たしていた清々しい朝の光は、太陽の移動と共に、窓の外を赤く染める夕映えへと変わっていった。壁に映る影はゆっくりと伸び、部屋は次第に薄暗くなっていく。
不意に、天井のライトが強烈に点灯した。手術台の上に横たわっていた大男は、その眩しさに顔を歪め、目を開けることができなかった。
「……サングラスを持ってこなかったのを、心底後悔してるよ」
「バカンスに来たような口を叩くな」
傍らでは、マッド・ゴブリンが手術台周辺の計器を点検することに集中していた。
「……いいか。これからはただ、普通の呼吸を続けていろ。一眠りするだけだ」
クリーンウェアに身を包んだゴブリンが大男の傍らに立ち、同じく防塵服を着たドワーフのパイロットに指示を飛ばした。
「お前はそこで待機しろ。俺の指示が出るまでは絶対に動くな。いいな?」
ドワーフが頷くのを確認し、目を閉じて薄く笑った大男が自嘲気味に呟いた。
「……頼むから、目が覚めた瞬間に、光の中から家族が笑顔で迎えに来るような真似はさせないでくれよ」
「はっ、安心しろ。あのオークの随扈だってここで寝たんだ。今じゃあんなにピンピンしてるだろ?」
ゴブリンは大男の顔にマスクを被せた。
呼吸と共に、大男の瞼は次第に重くなっていった。猛烈な睡魔が襲い、周囲の計器の音やゴブリンたちの声が混濁していく。
――人混みの溢れる通路に、喧騒が反響していた。
キャップを深く被り、サングラスをかけたエルフ議長は、オークの随扈と娘と共に、人の流れに沿って前へと進んでいた。
三人が観客席に足を踏み入れると、巨大スクリーンで開幕のカウントダウンが始まった。サーチライトが夜空を駆け巡り、ステージ前の魔法水晶が重低音と共に火花を噴き上げる。鼓膜を震わせるような歓声の怒涛が、一瞬にして観客席で弾けた。
あまりの轟音に、オークと議長は戸惑いを隠せなかったが、隣で群衆と共に歓声を上げる娘の姿を見て、議長は複雑な感情に包まれた。
『抱きしめるような愛さえも、見えない壁に拒まれる。
貴方は憎しみを捨て、異族と共にあることを求めるけれど、
彼らと愛し合うことまでは許さない……』
ロックの旋律と共に、ボーカルの高らかな歌声が響き渡る。スポットライトが、異なる種族で構成されたバンドを照らし出した。ボーカルはリズムに合わせて爆発的なシャウトを放ち、その歌詞は、現行体制の閉塞感への告発と、鎖を断ち切り自由を求める渇望を、鋭い刃のように突きつけてくる。
種族の垣根を越え、一つになった新世代の若者たち。彼らが巻き起こす地鳴りのような合唱。一切の保留なしに感情を解放するその姿に、エルフ議長はかつてないほどの衝撃を受けていた。
胸中に去来するのは、筆舌に尽くしがたい想いだった。かつての自分たちが、脅威に対抗するために親の手で作り上げた「異族間の融合」。だが今、新しい世代の若者たちと時代の歯車は、未知の方向へと回り始めている。
この新世代の台頭は、もはや自分たちのような伝統派が容易にコントロールし、宥めることができるものではないのだと、彼女は悟った。
議長は視線を自らの娘へと向けた。令嬢の微かな光を宿した瞳は、一心にステージのバンドを凝視していた。
深い静寂に沈んでいた議長は、やがてふっと肩の力を抜いた。彼女は微笑みを浮かべ、娘の肩をそっと抱くと、ステージから流れる歌声に静かに耳を傾けた。
(……いつの日か、ルールさえも、時代の変化に順応して変わっていく時が来るのかもしれないわね……)




