古代ローマの戦車競争(その二十一)
日が沈んだ。
ローマを囲む防壁の上に、マスルスは来ていた。
いよいよ明日だ。ローマ最大の円形競技場で、『戦車競争』を行う予定になっている。
しかし、未だ一台もたどり着いていない。
ガリアの『鉱石戦車』。
ヒスパニアの『猛牛戦車』。
アテネの『魚鱗戦車』。
シチリアの『跳躍戦車』。
エジプトの『黄金戦車』。
ただし、どの戦車もローマに向かってきている。それは間違いなさそうだ。
ローマの北西から、『猛牛戦車』と『鉱石戦車』が。
ローマの北東から、『黄金戦車』が。
ローマの南から、『跳躍戦車』と『魚鱗戦車』が接近中だという。
それらの目撃情報が次々と届いていた。
マスルスは考える。できることなら、すべての戦車が明日の朝までにたどり着いて欲しい。
どの戦車も過酷な旅だったはず。円形競技場での『戦車競争』を前に、しっかりとした点検が必要になる。
普段は見張りの兵士たちしかいない防壁の上だが、今夜は違っていた。
元老院が特例を認め、ローマ市民たちに一部開放されている。野営で使うテントが、防壁の上にいくつも立っていた。
そうやって夜を過ごし、賭けの最終結果を自分の目で見届けたいのだろう。夜の間はローマの門が閉じてしまうので、戦車が到着するとしたら、明日の日の出以降と予想されている。
マスルスも一旦は自分の家に帰るが、早朝前にはまた防壁の上に戻ってくるつもりだ。
そこでふと、手に持っている物に視線を向ける。
金属製の角笛だ。ただし、元の姿からは大きく歪んでいる。『音響戦車』の部品だったものだ。
昨日のことを思い出す。
ローマの戦車工房が襲撃されるかもしれない。その可能性はマスルスも考えていた。それで工房の警備を強化していたのだが、そこにベスボリウスがやって来て、こう提案していった。
――わざと警備を緩めて、襲撃させてしまいましょう。本物の戦車はローマから脱出させて、別の戦車を破壊させるのです。
そうすれば、相手は油断する。ローマの戦車を破壊したと誤認する。
ただし、身代わりとなる戦車は、どんなものでもいいわけではなかった。敵が本物だと錯覚するような戦車でなければならない。
その結果、あの『音響戦車』が身代わりになった。襲撃後に現場を見たが、ひどい有様だった。
あの戦車職人には悪いことをしたと思う。『音響戦車』の代金は支払ったが、戦車は実際に走ってこそ。それを果たせずに破壊されたのだから、さぞや無念に違いない。
だが、おかげで本物の戦車は助かった。ローマからの脱出に成功している。
明日の朝には戻ってくる予定だ。
ローマの『漆黒戦車』。
それが最後の一台だ。
マスルスは星空を見上げる。
六台の戦車の内、何台がローマにたどり着くのか。
十分な数がそろわなければ、『戦車競争』は中止にせざるを得ない。その埋め合わせは、ベスボリウスが準備している。最終判断を下すのは、明日の朝だ。
「願わくば、六台の戦車すべてに、ここローマに集結してもらいたい」
すべての道は、このローマに通じているのだから。




