古代ローマの戦車競争(その二十二)
いよいよ『戦車競争』の当日だ。
ローマの防壁の上には、大勢の市民たちが詰めかけていた。
間もなく日が昇る。
はたして、マスルスがつくらせた戦車は現れるのか。どの戦車が一番に、ローマに到着するのか。
目の良い者たちはこぞって、遠方に視線を放っていた。周囲の者たちからは、「どうだ?」と繰り返し尋ねられている。ちょっとした人気者になっていた。
人気者になりたくて、それをマネする者までいる。だが、本当に目の良い者たちの前では、ウソは長くもたない。すぐに化けの皮がはがれていた。
マスルスが大物元老院議員と一緒に防壁の上に現れると、ローマ市民たちから歓声が上がった。
この分だと、次の選挙は大丈夫そうだ。手を振って歓声に応えるマスルス。
その傍らにベスボリウスもやって来た。
はたして、今日の円形競技場で行われるのは、『戦車競争』か、謎の競技か。
「何かが来たぞ!」
目の良い者たちの中から、三人が同時に声を発した。
それぞれが見ていた方角はばらばらだ。北東と北西と南である。
そのすべてで、遠方に土煙が上がっていた。
空が徐々に明るくなってくる。
「戦車だ! 戦車が来たぞ!」
しかし、そう言われても、他の者たちにはわからない。土煙はどうにか見えるものの、その下にいるのは本当に戦車なのか。
三方向すべてに本当に戦車がいるのなら、賭けの行方は最後の最後までわからなくなるが・・・・・・。
がんばって目を凝らす市民たち。
すぐに次々と声を上げる。
本当だ。三つの方角から、戦車が向かってきている。
北西にいるのは、ヒスパニアの『猛牛戦車』と、ガリアの『鉱石戦車』だ。二台の戦車は競うように加速している。今のところ、まったくの互角だ。
南にいるのは、アテネの『魚鱗戦車』と、シチリアの『跳躍戦車』だ。こちらは『魚鱗戦車』が前を走っていたが、少し速度を緩める。で、『跳躍戦車』が横に並ぶと、加速を再開した。
北西と南から二台ずつ。それぞれがラストスパートをかけている。
一方で、北東から向かってくるのは、エジプトの『黄金戦車』だ。
こちらは一台による疾走。
(・・・・・・ん?)
目の良い者たちは気づいた。あの戦車だけ、影が大きいような・・・・・・。
「いや、もう一台いる! 黒い戦車もいるぞ!」
ローマの『漆黒戦車』に気づいて、声を張り上げた。影ではなく、『黄金戦車』のすぐ後ろに、別の戦車がいるのだ。
次の瞬間、北東にいる二台、『黄金戦車』と『漆黒戦車』が横並びになる。そして、ラストスパートに入った。
今まさに六台の戦車がローマに向かってくる。
この光景は壮観だ。円形競技場で見る『戦車競争』とは、また違った興奮がある。
はたして、どの戦車が最初にたどり着くのか。
ガリアの『鉱石戦車』。
ヒスパニアの『猛牛戦車』。
アテネの『魚鱗戦車』。
シチリアの『跳躍戦車』。
エジプトの『黄金戦車』。
そして、ローマの『漆黒戦車』。
賭けの対象は、ガリアからエジプトまでの五台だが、あの黒いのは地元の戦車だと知り、市民たちから応援する声が飛ぶ。
この騒ぎを聞きつけて、防壁の上へと急ぐ人々。
六台の戦車はものすごいスピードを出している。
もしも、あの中で最高の戦車を挙げろ、と言われたら・・・・・・。
六台すべてを挙げたい、そういう心境の市民も少なくない。
さらに近い距離まで戦車がやって来たことで、人々は気づく。
無傷の戦車はいない。何かしら傷ついている。
だが、どの戦車も力強く疾走している。
さまざまな困難を乗り越えて、このローマにたどり着こうとしていた。
すべての道はローマに通じる。
市民たちが目撃する中、一つの戦いが結末を迎えた。
ほぼ同着ではあったものの、わずかな優劣があった。
賭けは成立する。防壁の上に最終結果を知らせる声が飛び交った。
喜ぶ者がいる。悔しがる者もいる。しかし、悔しがっていても、その表情はどこか明るい。
「この『戦車競争』を本気で楽しむために、俺は金を払ったんだ。見物料だよ、見物料」
そう言って、完全には負けを認めない。
マスルスは大物元老院議員と話をしていた。
「・・・・・・本当にいいのか?」
「ぜひお願いします」
「そんなことをしても、あいつらは感謝せんと思うぞ」
「それは期待していません。次の選挙で雌雄を決します」
マスルスが頼んでいるのは、賭けを妨害していた「反マスルス派」の釈放だ。
市民たちには秘密裏に拘束したし、そのあとも情報がもれないよう苦心した。彼らの評判に傷はついていない。ローマ市民たちは何も知らないのだ。
「わかった。君がいいと言うなら、そうしよう。今日の円形競技場には、きっと雁首を並べるだろうな」
大物元老院議員が去っていくと、マスルスはベスボリウスに向き合った。
「見ての通りの結果だ。すまないが、『戦車競争』の方を行う。色々とご苦労だった」
ベスボリウスは一礼する。こうして戦車がそろったのだ。当然の決断だろう。惜しい気もするが仕方がない。
しかし、マスルスの言葉には続きがあった。
「少し先になると思うが、ローマ最大の円形競技場をまた抑えるつもりだ。そこでやる催し物を一任したい。やってくれるか、ベスボリウス」
ん? これはつまり・・・・・・。
「君が準備していたものを、その時に見せてくれ。大勢のローマ市民たちも、きっと期待している」
ベスボリウスは笑った。
防壁の上の喧騒はまだ収まらない。この雰囲気のまま、円形競技場に移動しそうだ。
今日のローマは、今日の円形競技場は、確実に熱くなる。
一方、防壁の下では六台の戦車が集まっていた。
しばらくは互いのローマ到着をたたえ合っていたが、すぐに火花を散らし始める。
戦いはまだ終わらない。
本当の決着は円形競技場で。
防壁の上ではマスルスが、歪んだ角笛を口にあてている。
深い音色が朝の空に響き渡った。
次回は「メキシコ」のお話です。




