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まなざしの向こう岸  作者: 十二滝わたる
14/15

或る女

 その女は一人息子を深く愛していた。愛していたと言うよりは、無意識のうちに、夫を事故でなくした喪失感と一人で息子を育てる苦しみの代償として息子をこよなく愛せざるを得なくなっていた。


 晩婚のこの女は、若いときは映画スターを夢見るような幼いロマンチストであったが、そう錯覚した夢を抱く程の美貌を持っていた。


 惜しむらくは、生来の、恐らくこの世に生を受けるときに生じた口元から顎にかけてのできたアザがなかっならば、愚かさを上回るその美貌により、演技ができるならば女優になれるような美しさはあった。


 演技の程は、その機会もなかったのだろう、才能の程度は見当もつかないが、歌声は聴くものを魅了する声の持ち主だ。


 貧しい家の四女は学問を求めることも叶わず、そもそも求めてもいなかったのだろう、ろくすっぽ学校も開けなかったであろうかの戦争が終わると、卒業と同時に何の当てもないままに、東京へと出向いた。


 そこで、どんな生活をしていたのかは誰もよく知らない。ただ、戦後の食糧難の時代に、貯めたお金で砂糖菓子を買いに行くのが楽しみだったと、よく思い出すように話しているのを聞いたことはある。


 金の卵としてもてはやされた集団就職のための上京には、少しも速い時代である。焼け跡の東京に何があったのかは想像すらできない。


 ただ、そこでも、夢見るように、東京の映画館に出入りしてはハリウッド映画を沢山見ていたのだろう。確かに彼女は和製イングリットであった。


 しばらくして、彼女は諏訪湖の畔の診療所の事務手伝いとなる。生来の放浪癖があるのかも知れない。


 そんな田舎の診療所では、多少垢抜けした東京からのにわか都会娘でも、町のそして診療所の患者の結構な評判となり、一躍、何人からもの求婚を求められるような存在となっていく。顔のアザをさほど気にする必要もない、ここでの暮らしは、恐らく彼女にとっては幸せな一時であったに違いない。


 しかし、ここでも突然、理由も告げぬままに、彼女は行方を眩ます。


 この後に、彼女の消息が繋がり出すのは、同じ信州の山奥の鉱山だ。山懐深い鉱山で、鉱夫相手の大きな食堂の切り盛りを任せられている彼女を見つけるのはかなりの時間を要した。


 彼女のどこかに、やはり顔のアザを原因とする心の傷は深く刻まれていたのだ。誰も気にしないと言いながらも、ふと、相手の目線が素早くアザに落とされ、気づかれないように素早く視線を戻すその目の動きを、彼女は気づいていた。そのことを知らない振りをしている自分自身に耐えられなくなったのだ。


 もっと山深い鉱山の男どもは、そんな視線を送るような奴等はいなかった。山男どもの繊細さの欠片もない無骨さかげんが彼女は心地良かった。


 しばらく、ここに留まった後に、この上ない無骨な鉱夫と結婚した。この飲んだくれのどうしようもない男の持つ花を愛するような優しい心を、彼女は見逃さなかった。


 しかし、そん男も幼い子供を残して事故で亡くなると、彼女の腕ひとつに生活の切り盛りが重くのし掛かってきた。


 必死で働く彼女は、男から託された一人息子を育てることだけを生きがいに、給料のいい街に戻り働き出す。


 息子は成長とともに、親から離れようとする思いと、さみしい彼女は生きがいの息子をてばなしたくない、という思いとが激しくぶつかる。


 映画スター、歌手から山奥の静かな生活へと求めても叶えられずに街に戻った女は、簡単な、当たり前の最愛の息子からの一時的な離反も理解できないままに、悲しみのまま病に伏す。


 息子が彼女を迎えに戻るとき、彼女は自分が誰であるのかも分からなくなっているかのように、すべての希望から解き放たれたような、不思議な穏やかな笑みを浮かべていた。


 

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