002 GHOST
楠木ハヤテが月曜日に登校した時、周囲の反応は「珍しい」というものだった。
火曜日に続けて登校した時は「あれ?」となり、水曜日の時点で「これはおかしい」という雰囲気が立ち込めた。そして、金曜日まで丸々一週間の連続登校が達成されると、教師も生徒たちも、「世界が滅亡する予兆だろうか?」などと真剣に心配し始めた。
クラスメイトたちが遂に我慢できなくなったらしく、次々と尋ねてくる。
「どうした? ハヤテ」
「学校に毎日来るなんて、体調悪いのか?」
「勉強するより、お前には大事なことがあるはずだ」
「そうだそうだ。ハヤテ、お前は人殺してナンボだろ?」
どれもこれも、あんまりな言い草である。
ハヤテはたまたま一番近くにいた友人にアイアンクローを喰らわせながら、取り囲むクラスメイトたちに抗議した。
「人殺しが大事とか、なんだよそれ。俺がまるで、クレイジーなヤバい奴みたいに思われるだろ? そういうのは冗談だったとしても、ちょっと傷つくぞ」
ハヤテは真面目に云ったつもりである。
だが、クラスメイトは全員、キョトンとした表情になってしまった。それから、遠慮なく大笑いし始める。普段はあまり話さないような女子まで、「またまた、ハヤテ君は冗談がうまいんだから」と、和やかな雰囲気でニコニコしていた。
ハヤテは絶望的な気分で肩を落とす。
「まったく、俺が何をしたって云うんだ……」
現在、十七歳。
高校の二年生であるものの、学生生活は真面目にやっていない。そもそも、登校すること自体が珍しい。
小学校からエスカレーター式に進学する高校なので、クラスメイトが昔馴染みばかりなのは幸いだろう。
クラスメイトは全員、ハヤテのことを気安く名前で呼ぶ。誰一人として、苗字の楠木では呼ばない。
楠木颯という本名よりも、プレイヤーネームであるHAYATEの方が誰にとってもなじみ深いからだ。
ハヤテ自身は複雑な気分になるが、時々、フルネームを忘れられてしまうぐらいである。実際の所、HAYATEという名はクラスメイトだけでなく、街中に知られていた。さらに云えば、〈虐殺鬼〉という二つ名はたぶん世界でも知らぬ者の方が少ない。
ハヤテはVRMMOのトッププレイヤーである。
一年前に開催された異世界バトルGPのおかげで知名度はさらに上昇していた。
クラスメイトたちに云わせれば、ハヤテのそれは「前代未聞の悪名」であるらしいけれど。ハヤテとしては、他人と少々異なる生き方をしているだけで、そこまで非難されるのは心外とも思っている。
「それで、だ。なんでトッププレイヤーのお前が、真面目に毎日学校に来ているんだ?」
「ああ。実は、まずいことになっている。ゴーストに狙われているんだ」
顔を伏せながら、ハヤテは沈痛な気持ちを吐露した。
小さな頃から付き合いの長いクラスメイトたちである。どちらかと云えば、素直に振る舞うなんて珍しいハヤテだが、精神的に追い込まれていることもあって正直になっていた。
しかし、ハヤテの普段からのキャラクターと盛大にギャップがあったためか、周囲は再び笑いの渦に包まれた。
「ヒドイな! 友達だから真面目に相談しようと思っていたらこれだよ! 人間不信で誰も信じられなくなりそうだ。心に傷を負ったシリアルキラーにでもなりそうだ」
「どこの誰が、お前のメンタルにダメージを与えられるんだよ。それに、シリアルキラーになりそうと云うか、お前はシリアルキラーそのものか、それ以上だろ!」
クラスメイトを代表したツッコミに、全員がうんうんと首を縦に振っていた。
「ゴースト? ハヤテがまさか、オバケが怖いとかイメージ無かったわ」
「まあ、恨みは買ってそうだけどな」
「無残に殺された者が化けて出るってやつ?」
「もしそうなら、幽霊でこの街が埋まる」
「とばっちりで、みんな死ぬ」
「最後まで周りに迷惑かけるとか、さすがハヤテだな」
もう、散々である。
彼らに相談しようと思ったことが間違いならば、そもそも学校に来たことが悪手だったのかも知れない。
「でも、仕方ない」
ハヤテはため息を吐く。
ゴースト。
ハヤテがイメージから名付けたものであるから、実際、本当にオカルトな存在かは半信半疑である。ただし、それが一年近く前からハヤテの悩みの種になっていることは紛れもない事実だ。
確実に、存在する何か。
「ゴーストっていうのは、なんていうかだな……」
笑いがようやく収まり、クラスメイトたちから説明を求められたので、ハヤテはしぶしぶ話を続けた。
ハヤテは、優楽堂のVRMMO〈クロス〉のトッププレイヤーであり、そのために様々な恩恵を受けている。高校生でありながら、出席日数や試験の成績をうるさく云われないのもそのひとつ。そしてまた、プライベートもある程度守られていた。
芸能人や政治家が、まったくセキュリティのない環境で暮らすのは難しい。それと同じである。トッププレイヤーの中でも、さらにとりわけ有名人であるハヤテにはある程度の守りが必要なのだ。
まあ、優楽堂の手厚いサポートを鬱陶しく感じることも多いけれど。
しかし、一年ぐらい前から、日常の何気ない瞬間に違和感を覚えるようになった。気配を感じるのだ。見られている。聞かれている。それをただの錯覚と思い過ごせれば気楽だっただろうが、ハヤテは腐ってもトッププレイヤーである。
優楽堂という面倒な組織に頼るばかりでなく、自分自身でもファイアウォールは構築していた。むしろ、そちらの方が防御力は確かだろう。トッププレイヤーであるから、それぐらいの実力は持ち合わせている。
ハヤテ自身の張り巡らせた警戒網が、ビシバシと反応していた。
VRMMOでHAYATEがモンスターから不意打ちを受けることはない。隠密系のスキルにも長けているから、気配察知はお得意のもの。それと同じで、ハヤテは現実でも何者かの気配を敏感に察知し続けていた。
そこに、いる。
そこに、いた。
トッププレイヤーの実力で、そこまでは見抜ける。だが、尻尾はギリギリ掴ませてくれない。追い詰めてやろうと思ったことも、この一年、一度や二度ではなかった。それなのに、相手はいつも影すら残さず消えてしまう。
果たして、本当に人間か。
ゴースト。
そう思った方が納得できる。
ハヤテからここまで見事に姿を隠せる人間なんて、世界に何人いるものか。正体不明であることが恐怖を煽ってくれた。
VRMMOを介して、人の心と心が直結する時代。もしも、頭の中まで侵入されたらと考えれば、やはりゾッとする。そこまでの被害を受ける可能性はもちろん低いだろうが、街中にある通信端末を介して、私生活を覗き見られているぐらいはありえた。
「えー、つまり……」
ハヤテの話を、クラスメイトの一人がまとめる。
「オンラインストーキングされてるのか?」
「あー、そうか。そう云えばわかりやすかったな」
今度はさすがに、クラスメイトも笑わなかった。
思ったよりも、深刻な問題と思ったに違いない。
「でも、それでどうして学校に?」
「一週間ぐらい前から、ゴーストの気配が強くなった」
見られている、聞かれている。
そこにいる、すぐ近くにいる。
この一年、ふとした時に感じていた何者かの存在を、この一週間は途切れることなく感じていた。ハヤテはもう既に確信している。
ゴーストがやって来た。
VRMMOを介して、ではなく。
間違いなく、現実のこの地に乗り込んで来た。
「ご存知の通り、うちの家は両親がもういない。姉は海外を遊び回っている放蕩者だし、妹は真面目に毎日登校する中学生だ」
「んー、だから?」
「昼間、家にいると一人だ。怖い」
「ただのビビりかよ!」
クラスメイトは呆れたが、警戒心を高めるのは間違いではないはずだ。
しかし、やはり内心で動揺していたのか、無関係のクラスメイトたちに余計な話をしてしまったかも知れない。少なくとも、ビビりちらしていることは隠しても良かった。
チャイムが鳴る。
ハヤテを中心に集まっていたクラスメイトたちは自分の席に戻って行く。教室の扉が開き、初老の担任が顔を見せた。
朝のホームルーム。
VRMMOが『第二の現実』となるぐらい社会が変革しても、変わらないものは変わらない。
「唐突だが、今日から転校生が来ることになった」
朝の挨拶と点呼が終わると、担任はそう切り出した。
途端に、教室がざわめく。
この学校――いや、この街に転校生は珍しい。
しかし、ハヤテは大して興味を抱かない。
「皆さん、無理は云いませんが、できるだけ静かにしてくださいね。これから何が起きても、できるだけ落ち着くように努めてください」
担任が妙なことを云い出した。
柳のように物静かで動じない先生なのだけど、暑い日でもないのに、なにを動揺しているのか、ハンカチでしきりに額の汗をぬぐっている。
それでも、ハヤテは気にしていなかった。
意識のすべて、ゴーストの気配に向けている。これまでで一番近くに感じていた。ピリピリする気持ちを紛らわせるために、ハヤテは教室の一番後ろ、窓際の席から外を眺める。
空の蒼。
朝日の紅。
教室の扉が開き、転校生が入って来る。
「……」
静かだった教室がもう一段階深く、静けさに沈んだ。誰も最初から口を開いていなかったけれど、衣擦れの音すら消え去る。誰一人、身動きできない。全員がフリーズ、思考も完全に止まっていた。
何が。
いや、誰が。
何が起きて、誰がやって来た。
クラス全員が沈黙したままのパニック。
混乱の極地に至る教室にて、一人、窓の外を眺めていたハヤテだけが、のんびり遅れて転校生の方に振り返る。
「〈虐殺鬼〉」
ハヤテは気づく。
ひと目で十分、それで余りある。
この一年間、さんざん悩ませてくれたゴースト。その正体が、あっさり姿を現していた。この気配である。はっきりと覚えがあった。冷たく、熱く。虚ろながら、太陽のような何か。無視できない何者か。無視できないはずだ。そしてまた、トッププレイヤーのセキュリティすらあっさり突破していたことも納得する。
彼女ならば、セキュリティをすり抜けるぐらい簡単だろう。
何と云っても、世界一の才の持ち主である。
彼女は何も云わず、まっすぐにハヤテの目の間にやって来た。
担任の紹介も、クラスメイトの視線も、すべて無視である。
日本の学校制服が意外にも似合っていた。
いや、そうではない。世界一美しい少女ならば、たぶん、汚いボロ布だろうと着こなして見せる。黄金に輝く豊かな髪は、ふたつ結い。真紅と青藍のオッドアイは、ハヤテの記憶にあるものと同じだった。
細かい所まで眺め回す必要はない。
顔つき、身体つき。
何もかも、最高の美という評価を与えておけば、その描写には事足りる。
「……怖っ」
ハヤテは素直な感想を吐き出した。
現実の生身に対して、VRMMOでその代わりを果たすアバター。噂には名高いものの、ちょっと信じられないとハヤテは思っていた。だが、こうして真実を突き付けられてしまう。恐るべき。彼女のアバターのカスタマイズパーセンテージは、本当に噂通りのゼロであるらしい。
すなわち、現実の姿とアバターを完全にリンクさせている。
世界一の美しさ。
作り物ではなく、本物だった。
一年前、歓喜と熱狂に包まれた異世界バトルGPの大舞台で死闘を繰り広げた少女と、寸分変わらない見た目をした少女が、今、このリアルにて、ハヤテのすぐ目の前で仁王立ちしている。
しかし、唯一の違和感。
唯一ながら、絶対に見過ごせないポイント。
仮想世界における最大のアイコン――〈世界の娘〉として、万人の愛を受け止める彼女は感情の一切を表に出さない。
万人の理想像として、空っぽ。
虚無であり、零の少女。
彼女、〈大々魔道士〉ALICEは、そんな存在のはずだった。
「よかった。〈虐殺鬼〉のそんな傑作な表情が見られるなんて、ここまで頑張った私を褒めてあげたい。ねえ、驚いてくれた? どんな気持ち? 実はちょっと、嬉しかったりする? だって、あの〈大々魔道士〉が、あなたのためにわざわざ欧州から日本までやって来たんだからね」
最初は、不敵な笑み。
宿敵に不意打ちが成功したかのような、ギラギラした気配があった。
それが一転して、年相応にコロコロと笑ってみせる。
何はともあれ、ハヤテの知る――否、世界中の人々が知っている〈大々魔道士〉ALICEのキャラクターではなかった。
「それが素か?」
「さて、どうでしょうか?」
彼女は再び、不敵な笑み。
試すような口調で、自己紹介して来た。
「はじめまして、アリス・ウォルドーフよ」
「はじめまして? 違うな。俺たちは一年前に会っている」
「そうね。でも、あの子は挨拶する暇もなかった。せっかく話しかけようとしたのに、あなたに一撃で殺されてしまったから。代わりに、私が名乗った。それだけ」
「……ん? んん?」
いまいち何を云っているのかわからず、ハヤテは首を傾げる。
アリスはお構いなしだった。
くすくす笑いながら、指を一本、突き付けてくる。
ハヤテの額をコツンと突き刺し、こんな風に告げた。
「さて、もう逃さない」
一年前の意趣返しか。
それとも――。
「〈虐殺鬼〉、捕まえた」