04.
またいつもの一日が始まる。
早朝の鍛錬で剣を振っていると、見慣れた金髪が視界の端に見えた。
「随分早いな」
「あ? ……あー」
いつもよりも返しが遅い気がする。がりがりと金の髪をかいて、イリヤは口を開いた。
「なんだ、嫌味か」
いつもより数段機嫌が悪そうな返し。
「別にそういう訳じゃないが」
あっそ、と言いながら小さな欠伸をする。そのまま背を向けて、手を振られた。
「寝る」
「……は?」
思わず聞き返した。
ぎろりと、いつもより悪い目つきで睨まれた。
「文句あんのか?」
「いや、だって仕事」
「一人で行けよ」
言い切る前に言われた。
「行けんだろ?」
にやり、と挑発するように言われて言葉を飲み込む。
「そりゃ子供じゃないんだから行けるさ。けど……」
「けど?」
「俺だけだと収入が足りない」
イリヤは忘れているかもしれないが、ロイドはただの一人なら駆け出しの討伐員だ。腕があるから複数の依頼をこなしてきたが、一人だとそれも時間的に厳しい。
「明日から別の宿にすることになるぞ」
今泊まっている宿も、決して高い訳ではない。これ以上グレードを下げると、最悪雑魚寝になる可能性もある。
「……」
イリヤが理解するまで待つ。ほのかに石鹸の匂いが届いた。
「……雑魚寝じゃなくても、あんだろ他にも」
「でも二部屋は取れない」
恥を忍んで言えば、むっつりと黙り込む。
「……あー、面倒臭えな」
イリヤは舌打ちを隠すこともなく、心底嫌そうな顔でこちらを振り向いた。
「なら一発でかいのいくぞ」
終わったら寝る、と宣言して、くるりと宿に背を向ける。
そのまま組合へ向かいそうなイリヤの服の襟元を掴んで止める。
「まだ開いてない時間だ」
ああ? と不機嫌そうに睨まれても、欠伸で涙が滲んだ顔では怖くもない。
「少しだけ寝とけ」
今日は中々キツそうだな。
「おはようー」
今日は早いねーと、受付に声をかけられて軽く挨拶を返す。
組合では滅多に挨拶を返すことがない。理解はしているが、つい返事をしてしまう。
「おはよう。今日はまあ、あいつが起きたからな」
「パーティだとー、大変だねー」
何となく濁して伝えれば、受付はイリヤをちらりと見て頷いた。
「でもー、呪術師が一人だと、厳しいよー?」
「らしいな」
違いはよくわからない。
そもそも、イリヤが一人で討伐依頼を手こずる姿は想像できない。
でかいのを、と宣言していたイリヤは欠伸を噛み殺しながら依頼書を選んでいる。きっとここで口出ししても時間を食うだけだと、受付と軽く雑談を続けることにする。
まだ早い時間の組合は人も疎らで、いつもの場所と違って見えた。
「魔術師ならー、一人でもいいんだけどー」
ああ、まあと曖昧に頷いておく。
でかいの、と言っていたイリヤは少し手を宙に彷徨わせ、それから一枚を取ってやってきた。
「これ」
無造作に突き出された依頼書に、受付ははーいと視線も向けずに受け取る。
ペンを持つ受付を見て、じゃあ行くか、と声をかけようとしたら、その受付に止められた。
「ねえー、この依頼、二人だけー?」
「文句あんのかよ」
いいからサインしろ、と言うイリヤに、受付は首を横に振る。
「赤熊三匹の討伐、キツくないー? いくら戦場の支配者サマでもー」
ちっ、とイリヤが舌打ちをした。
「知ってんのかよ」
「戦場の支配者?」
うんー、と受付はイリヤを指差しながら頷く。
「その名前で呼ぶんじゃねぇ」
イリヤがたん、たん、と片足で床を踏み鳴らす。
「うーん、どうしようかなー」
手に持ったペンで頭をかきながら、受付が平坦な声で呟く。あまり困っているように見えないが。
「赤熊は、この前の魔狼よりもキツいんじゃないー?」
「問題ねぇよ」
「だってー、君はいいけど、相棒は新人だよー?」
受付の言葉に、イリヤははっと鼻で笑って返す。
「こいつが新人かよ」
「登録して十日も経ってないしー、魔狼以外の討伐記録もないしー」
指折りロイドの功績を上げる受付に、馬鹿にしたようにイリヤは口元を歪めた。
「その魔狼が金目二匹、十分じゃねぇか」
「単独じゃないでしょー」
そう返されても、イリヤはあからさまに口を閉ざした。
「まあ、別にいいけどー」
面倒臭いしね、とさらりとペンを走らせる。
はい、と渡された依頼書を受け取れば、イリヤは足早に組合の扉へ向かっていった。
依頼書に書かれた場所はエリグの湖。少し距離はあるけれど、本気で急げば半日で往復はできるだろう。犬の散歩みたいにのんびり歩くのとは訳が違う。
「なあ、イリヤ」
「あんだよ」
未だに杖を左手で持つイリヤは、機嫌悪く返してくる。
「赤熊三匹、大丈夫なのか?」
はあ? と睨まれるように見られ、少し足を緩める。
これは本気で機嫌が悪い。罵られる覚悟で、ロイドは息を吸った。
「だってお前、その手」
「まだ治ってねぇよだからどうした」
被せるように、早口で言われた。ちっと舌打ちをしながら、イリヤは右手の包帯を見る。
「俺は呪術師だ。最後はお前がやるんだよ」
面倒そうに頭をかきながら言い捨てるイリヤに、小さく溜息を吐いた。
「お前やっぱり寝不足だな」
「察しろ、ばあか」
薬草採取をしている森を抜ければ、そこからほど近い場所にエリグの湖はある。
風が吹けば、さやさやと木の枝が擦れる音が聞こえる。どこか懐かしささえ覚える長閑な風景に、イリヤがまた欠伸を噛み殺した。
「ふ……、赤熊、何匹だっけ?」
依頼の受注からそれほど経っていないのに。
本格的に頭が回っていなさそうで、苦笑が浮かぶ。
「三匹だ。一匹は『キズあり』みたいだな」
「キズありぃ?」
眉をよせて繰り返すイリヤに、まさか見ていないのか、と冷や汗が伝う。
「キズあり、知ってる、よな?」
「なんだよそれ」
依頼書には小さく書いてあるだけだった。魔狼の時も感じた知識の差を感じる。
「『キズあり』、名前の通りだけど」
本当に知らないのか。その言葉が喉の奥で詰まった。
「あー、たまにいるな」
片目が潰れたりしてるやつ。そのイリヤの言葉に安堵する。
「そう、それーー」
「それがどうかしたのか」
イリヤの言葉は、どうってことはないように聞こえた。だからこそ、認識のズレはまずい。
「イリヤ、キズありと対峙したことは?」
「ねぇよ、んなもん」
だよな、と口の中で呟く。
傷を負って生き延びた獣は、時に別物になる。
「やられた討伐員がいるかも」
「だから高ぇんだろ」
バッサリと言い切るイリヤに、言葉を飲み込んだ。
だからどうした、と言われた気がした。
イリヤの呪術は反則的だと思う。
魔物寄せの術をかけてその場にいると、周囲に小さくない気配を無数に感じる。
「弱肉強食だ」
一番でけぇのを釣りゃいいと、媒介にした枝を放り投げるとイリヤはにやりと笑った。
「さっさと出てこいよ、畜生共が」
組合で言われた『支配者』と言う呼び名が腑に落ちる。
イリヤの言葉にも、気配達は動くこともない。本能的な恐怖か、それとも別の何か、か。
しばらくの間、風すらも吹かなかった。
緊張の糸が張り詰めて、きん、と耳鳴りすら聞こえそうだ。
がさり、と茂みが動く。
気配は、小さい。
「……ちっ、雑魚か」
飛び出したのは、小さな影ーー角兎だった。
イリヤは舌打ちをしながらも左手で何かを投げた。
ピイ、と言う甲高い鳴き声と共に、角兎の腹に短剣が刺さった。
「投げナイフか?」
「畜生にはちょうどいいだろ」
じわりと角兎の赤黒い血が地面に染み込む。
動かなくなった兎の身体を左手で抑えて、イリヤは右手でナイフを握った。
「……ってぇ」
抜く瞬間、僅かに顔が歪んだ気がした。
「さて、そろそろお出ましだ」
生臭い血の匂いが風に乗って届いた。
木陰に隠れていた気配が逃げるように離れるのを感じた。
がさがさと獣が動く音が、周りに木霊するように響く。これもイリヤの術かと思って視線を向ければ、首を横に振られた。
「赤熊か……」
ぽつりと口から洩れた。
「畜生にんな頭あるかよ」
イリヤの言葉についため息が漏れる。だから『キズあり』なのだと伝えたのに。
口を開こうとした瞬間、背筋がぞくりとした。
森の方へ身体ごと向けると、大きな黒い影が三つ――赤熊だ。
「来たな」
「待て――何か、おかしい」
左手で握った杖を向けるイリヤに静止の声をかける。左右の二体は通常個体に見える。
「真ん中、あれはヤバい」
両耳を潰された、身体の半分が黒く染まった赤熊がそこに立っていた。
赤熊は、その名の通り燃えるような赤い毛皮を持つ魔物だ。
「黒い、赤熊?」
「まだ、な」
まだ半分だ。半分は赤い。
キズありが咆哮を上げる。
びりびりと皮膚が逆立つ感覚を覚えた。
「イリヤ、あれ頼めるか」
「ちっ、指図すんな――鎖縛!」
キズありの影から伸びた黒い鎖が、じゃらりと音を立てて絡みつく。
両腕、両足、首、胴体――それでも、びきり、と嫌な音が耳に届く。
「そんなにもたねぇな」
舌打ちをするイリヤは、杖をその場に突き刺した。
残りの二匹は、傷ありの姿にも目もくれない。
両腕を上げて、同時に咆哮を上げた。
「お前、一人で二匹いけ」
「いや、無理だな」
赤熊の脅威はその怪力だ。さすがに二匹同時は厳しい。
赤熊達の視線はこちらに向いている。時間稼ぎは愚策だ。
「ちっ、……じゃあ」
口を開くと同時に、赤熊が左右から同時に突進してきた。
思ったより早い。
鋭い爪が太陽を反射する。
まずい、間に合わない――。
どかっ、と鈍い音と衝撃。
背中に鈍い痛みが走った。
視界の端で、ざくり、と湿った土が抉れた。
「ばあか。そっちだけやっとけ」
間一髪。声のする方を見れば、距離が空いていた。
「……悪い。すぐ終わらせる」
「期待はしねぇよ」
剣を握りなおすと、短い音が鳴った。




