走る影
「待って」
背後から聞こえた声は、神崎悠真自身のものだった。
自分の声が、自分ではない何かから発せられる。
その異常さに、悠真は一瞬だけ足を止めそうになった。
だが、雨宮詩織が強く手を引いた。
「振り返らないで!」
その声で、悠真は我に返る。
旧校舎の裏庭を三人は走った。
雑草が足に絡む。割れたコンクリートの欠片が靴底で跳ねる。夕方の校舎裏はまだ現実のはずなのに、空気だけが完全に違っていた。
冷たい。
重い。
息を吸うたびに、肺の中へ泥のようなものが入り込んでくる気がした。
「ちょ、ちょっと待って! これ本当に無理なんだけど!」
小日向ひなたが泣きそうな声を上げる。
さっきまで都市伝説だなんだと目を輝かせていたくせに、今は完全に涙目だった。
当然だ。
普通ならそうなる。
悠真だって叫び出したいくらいだった。
「走れ!」
「走ってるよぉ!」
「なら喋るな!」
「喋らないと怖いんだもん!」
普段なら呆れていたかもしれない。
けれど、今はその声に少しだけ救われていた。
ひなたが喋っている。
詩織が隣にいる。
自分はまだ現実にいる。
そう思えた。
背後から、ぐしゃり、ぐしゃり、と濡れた足音が近づいてくる。
旧校舎の裏庭は広くない。
フェンスを回り込めば校舎横の通路に出られる。そこから正門へ向かえば人目のある場所に出られるはずだ。
そう思っていた。
だが、角を曲がった瞬間、悠真は息を呑んだ。
通路がなかった。
いや、正確にはある。
だが、昨日まで知っていた学校の通路ではなかった。
アスファルトはひび割れ、そこから黒い草のようなものが伸びている。校舎の壁はところどころ剥がれ落ち、窓ガラスはすべて割れていた。
まだ夕方のはずなのに、その一角だけが夜に沈んでいた。
まるで旧校舎の周辺だけ、別の場所と重なっているみたいだった。
「なに、これ……」
ひなたの声が震える。
悠真も同じことを聞きたかった。
けれど、答えは何となく分かっていた。
夜の向こう側。
本来は零時を過ぎなければ見えないはずのものが、今ここに染み出している。
詩織が唇を噛む。
「範囲が広がってる」
「どういうことだよ」
「分からない。でも、前より早い」
彼女の声には焦りがあった。
詩織はこの現象を知っている。
少なくとも悠真たちよりは。
それでも分からないと言うのなら、今起きていることは彼女の知識からも外れているということだ。
背後の足音が近づく。
ぐしゃり。
ぐしゃり。
悠真は振り返らなかった。
振り返れば、きっと足が止まる。
それだけは分かっていた。
「こっち」
詩織が崩れかけた通路を避け、体育館裏へ向かう。
校舎の影に入った瞬間、空気が少しだけ軽くなった。ひび割れていた地面が普通のコンクリートへ戻り、遠くから運動部の掛け声が聞こえてくる。
現実に戻った。
ほんの数メートル移動しただけなのに、別世界から抜け出したような感覚だった。
ひなたはその場で膝に手をつき、大きく息を吐いた。
「む、無理……。私、オカルト好きだけど、あれは現地集合しなくていいやつ……」
「だから帰れって言ったの」
詩織が冷たく言う。
ひなたは涙目のまま顔を上げた。
「雨宮さん、冷たい……」
「本当に危なかったから」
「うん、それは分かった……」
いつもの明るさが少しだけ弱まっている。
だが、それでもひなたは完全には折れていなかった。
震える手でスマホを握り締めながら、旧校舎の方を見ている。
「でも、見ちゃった」
小さく呟く。
「神崎くんと雨宮さんが言ってたこと、全部本当だったんだ」
悠真は返事ができなかった。
できれば、嘘であってほしかった。
美咲が消えたことも。
夜の向こう側も。
黒い影も。
全部が悪い夢ならよかった。
だが現実は残酷なくらいはっきりしている。
窓ガラスには亀裂が入り、旧校舎には影が現れ、ひなたまで巻き込まれた。
もう、知らないふりはできない。
「小日向」
詩織が静かに言った。
「今日見たことは誰にも話さないで」
「なんで?」
「話しても信じてもらえない。信じてもらえないだけならまだいい。下手に広めたら、あなたが危ない」
ひなたは口を閉じた。
普段なら「それって呪い?」とか「都市伝説っぽい!」とか言いそうなのに、今は何も言わなかった。
それだけで、どれほど怖かったのか分かる。
「……分かった」
ひなたは小さく頷いた。
「でも、私は降りないよ」
悠真は思わず彼女を見る。
「は?」
「だって、ここまで見ちゃったんだよ? しかも神崎くんの幼馴染さんが消えてるんでしょ?」
「お前には関係ない」
言ってから、自分でも少し強すぎたと思った。
だが、ひなたは怒らなかった。
むしろ困ったように笑った。
「関係ないけど、知っちゃったら関係あるよ」
その言葉に、悠真は何も返せなかった。
軽いようでいて、意外と芯のある声だった。
「それにさ」
ひなたはスマホを掲げる。
「私、こういうの調べるの得意だし。神隠しの記事も、掲示板も、町の変な噂も、たぶん神崎くんよりいっぱい知ってる」
「だから危ないって言ってるんだろ」
「うん。でも、怖いからって見なかったことにはできないよ」
ひなたの手はまだ震えていた。
それでも目は逸らしていない。
悠真は少しだけ黙った。
朝霧美咲を探すのは自分の問題だと思っていた。
誰にも理解されない。
誰にも覚えてもらえない。
そう思っていた。
けれど今、目の前には二人いる。
美咲の名前を知る詩織。
そして、異常を自分の目で見たひなた。
一人ではない。
そう思った瞬間、胸の奥にあった重さが少しだけ変わった。
軽くなったわけではない。
ただ、前へ進むための形になった。
「……分かった」
悠真は小さく息を吐く。
「でも、勝手に動くな。絶対に」
「うん!」
「今の返事、信用できないな」
「ひどい!」
ひなたがいつもの調子で頬を膨らませる。
ほんの少しだけ空気が緩んだ。
その時だった。
「お前ら、そこで何してる」
低い声がした。
三人が振り返る。
体育館裏の壁にもたれかかるようにして、一人の男子生徒が立っていた。
黒崎大河。
同じ二年だが、クラスは違う。
学校では有名な不良だった。
制服は着崩し、髪は少し乱れている。目つきは悪く、教師にも生徒にも距離を置かれている。
悠真も名前くらいは知っていた。
関わらない方がいい相手。
多くの生徒がそう思っている。
その黒崎が、じっとこちらを見ていた。
いや。
正確には、悠真たちの後ろ。
旧校舎の方を見ていた。
「黒崎……?」
悠真が名前を呼ぶと、黒崎は面倒くさそうに眉を寄せた。
「お前ら、あそこ入ったのか」
詩織の表情がわずかに変わる。
「あなた、何か知ってるの?」
黒崎は答えなかった。
代わりに、旧校舎の窓を睨む。
悠真もつられて見る。
さっきまで何もなかった窓。
そこに、黒い影が立っていた。
距離があるのに、こちらを見ているのが分かる。
黒崎は小さく舌打ちした。
「最悪だな」
「何が」
悠真が聞くと、黒崎はようやくこちらを見た。
その目は、ただの不良のものではなかった。
恐怖を知っている目だった。
「お前ら、もう目をつけられてる」
「黒崎、お前……」
悠真が言いかけた時、旧校舎のチャイムが鳴った。
本来なら鳴るはずのない古い校舎のチャイム。
壊れているはずのスピーカーから、ゆがんだ音が流れる。
キーン、コーン、カーン、コーン。
その音に混じって、誰かの声が聞こえた。
『神崎悠真』
自分の名前だった。
悠真の背筋が凍る。
続いて。
『雨宮詩織』
詩織の顔が青ざめる。
『小日向ひなた』
ひなたが短く息を呑む。
そして最後に。
『黒崎大河』
黒崎の目が細くなった。
壊れたチャイムの音が、夕方の校庭に不気味に響く。
やがてスピーカーから、低く歪んだ声が流れた。
『見つけた』
黒崎が悠真たちの前へ一歩出る。
「走れ」
「またかよ」
悠真が思わず呟く。
黒崎は振り返らずに言った。
「死にたくなきゃ、今すぐ校門まで走れ」
その声には冗談が一切なかった。
旧校舎の窓の中で、黒い影がゆっくりと増えていく。
一つ。
二つ。
三つ。
まるで、校舎の中に何人もいるみたいに。
いや。
人ではない。
悠真は震える足に力を込めた。
そして、四人は校門へ向かって走り出した。
背後で、旧校舎の扉が開く音がした。




