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世界の終わりは夜から始まる  作者: leemero


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8/9

走る影

「待って」


背後から聞こえた声は、神崎悠真自身のものだった。


自分の声が、自分ではない何かから発せられる。


その異常さに、悠真は一瞬だけ足を止めそうになった。


だが、雨宮詩織が強く手を引いた。


「振り返らないで!」


その声で、悠真は我に返る。


旧校舎の裏庭を三人は走った。


雑草が足に絡む。割れたコンクリートの欠片が靴底で跳ねる。夕方の校舎裏はまだ現実のはずなのに、空気だけが完全に違っていた。


冷たい。


重い。


息を吸うたびに、肺の中へ泥のようなものが入り込んでくる気がした。


「ちょ、ちょっと待って! これ本当に無理なんだけど!」


小日向ひなたが泣きそうな声を上げる。


さっきまで都市伝説だなんだと目を輝かせていたくせに、今は完全に涙目だった。


当然だ。


普通ならそうなる。


悠真だって叫び出したいくらいだった。


「走れ!」


「走ってるよぉ!」


「なら喋るな!」


「喋らないと怖いんだもん!」


普段なら呆れていたかもしれない。


けれど、今はその声に少しだけ救われていた。


ひなたが喋っている。


詩織が隣にいる。


自分はまだ現実にいる。


そう思えた。


背後から、ぐしゃり、ぐしゃり、と濡れた足音が近づいてくる。


旧校舎の裏庭は広くない。


フェンスを回り込めば校舎横の通路に出られる。そこから正門へ向かえば人目のある場所に出られるはずだ。


そう思っていた。


だが、角を曲がった瞬間、悠真は息を呑んだ。


通路がなかった。


いや、正確にはある。


だが、昨日まで知っていた学校の通路ではなかった。


アスファルトはひび割れ、そこから黒い草のようなものが伸びている。校舎の壁はところどころ剥がれ落ち、窓ガラスはすべて割れていた。


まだ夕方のはずなのに、その一角だけが夜に沈んでいた。


まるで旧校舎の周辺だけ、別の場所と重なっているみたいだった。


「なに、これ……」


ひなたの声が震える。


悠真も同じことを聞きたかった。


けれど、答えは何となく分かっていた。


夜の向こう側。


本来は零時を過ぎなければ見えないはずのものが、今ここに染み出している。


詩織が唇を噛む。


「範囲が広がってる」


「どういうことだよ」


「分からない。でも、前より早い」


彼女の声には焦りがあった。


詩織はこの現象を知っている。


少なくとも悠真たちよりは。


それでも分からないと言うのなら、今起きていることは彼女の知識からも外れているということだ。


背後の足音が近づく。


ぐしゃり。


ぐしゃり。


悠真は振り返らなかった。


振り返れば、きっと足が止まる。


それだけは分かっていた。


「こっち」


詩織が崩れかけた通路を避け、体育館裏へ向かう。


校舎の影に入った瞬間、空気が少しだけ軽くなった。ひび割れていた地面が普通のコンクリートへ戻り、遠くから運動部の掛け声が聞こえてくる。


現実に戻った。


ほんの数メートル移動しただけなのに、別世界から抜け出したような感覚だった。


ひなたはその場で膝に手をつき、大きく息を吐いた。


「む、無理……。私、オカルト好きだけど、あれは現地集合しなくていいやつ……」


「だから帰れって言ったの」


詩織が冷たく言う。


ひなたは涙目のまま顔を上げた。


「雨宮さん、冷たい……」


「本当に危なかったから」


「うん、それは分かった……」


いつもの明るさが少しだけ弱まっている。


だが、それでもひなたは完全には折れていなかった。


震える手でスマホを握り締めながら、旧校舎の方を見ている。


「でも、見ちゃった」


小さく呟く。


「神崎くんと雨宮さんが言ってたこと、全部本当だったんだ」


悠真は返事ができなかった。


できれば、嘘であってほしかった。


美咲が消えたことも。


夜の向こう側も。


黒い影も。


全部が悪い夢ならよかった。


だが現実は残酷なくらいはっきりしている。


窓ガラスには亀裂が入り、旧校舎には影が現れ、ひなたまで巻き込まれた。


もう、知らないふりはできない。


「小日向」


詩織が静かに言った。


「今日見たことは誰にも話さないで」


「なんで?」


「話しても信じてもらえない。信じてもらえないだけならまだいい。下手に広めたら、あなたが危ない」


ひなたは口を閉じた。


普段なら「それって呪い?」とか「都市伝説っぽい!」とか言いそうなのに、今は何も言わなかった。


それだけで、どれほど怖かったのか分かる。


「……分かった」


ひなたは小さく頷いた。


「でも、私は降りないよ」


悠真は思わず彼女を見る。


「は?」


「だって、ここまで見ちゃったんだよ? しかも神崎くんの幼馴染さんが消えてるんでしょ?」


「お前には関係ない」


言ってから、自分でも少し強すぎたと思った。


だが、ひなたは怒らなかった。


むしろ困ったように笑った。


「関係ないけど、知っちゃったら関係あるよ」


その言葉に、悠真は何も返せなかった。


軽いようでいて、意外と芯のある声だった。


「それにさ」


ひなたはスマホを掲げる。


「私、こういうの調べるの得意だし。神隠しの記事も、掲示板も、町の変な噂も、たぶん神崎くんよりいっぱい知ってる」


「だから危ないって言ってるんだろ」


「うん。でも、怖いからって見なかったことにはできないよ」


ひなたの手はまだ震えていた。


それでも目は逸らしていない。


悠真は少しだけ黙った。


朝霧美咲を探すのは自分の問題だと思っていた。


誰にも理解されない。


誰にも覚えてもらえない。


そう思っていた。


けれど今、目の前には二人いる。


美咲の名前を知る詩織。


そして、異常を自分の目で見たひなた。


一人ではない。


そう思った瞬間、胸の奥にあった重さが少しだけ変わった。


軽くなったわけではない。


ただ、前へ進むための形になった。


「……分かった」


悠真は小さく息を吐く。


「でも、勝手に動くな。絶対に」


「うん!」


「今の返事、信用できないな」


「ひどい!」


ひなたがいつもの調子で頬を膨らませる。


ほんの少しだけ空気が緩んだ。


その時だった。


「お前ら、そこで何してる」


低い声がした。


三人が振り返る。


体育館裏の壁にもたれかかるようにして、一人の男子生徒が立っていた。


黒崎大河。


同じ二年だが、クラスは違う。


学校では有名な不良だった。


制服は着崩し、髪は少し乱れている。目つきは悪く、教師にも生徒にも距離を置かれている。


悠真も名前くらいは知っていた。


関わらない方がいい相手。


多くの生徒がそう思っている。


その黒崎が、じっとこちらを見ていた。


いや。


正確には、悠真たちの後ろ。


旧校舎の方を見ていた。


「黒崎……?」


悠真が名前を呼ぶと、黒崎は面倒くさそうに眉を寄せた。


「お前ら、あそこ入ったのか」


詩織の表情がわずかに変わる。


「あなた、何か知ってるの?」


黒崎は答えなかった。


代わりに、旧校舎の窓を睨む。


悠真もつられて見る。


さっきまで何もなかった窓。


そこに、黒い影が立っていた。


距離があるのに、こちらを見ているのが分かる。


黒崎は小さく舌打ちした。


「最悪だな」


「何が」


悠真が聞くと、黒崎はようやくこちらを見た。


その目は、ただの不良のものではなかった。


恐怖を知っている目だった。


「お前ら、もう目をつけられてる」


「黒崎、お前……」


悠真が言いかけた時、旧校舎のチャイムが鳴った。


本来なら鳴るはずのない古い校舎のチャイム。


壊れているはずのスピーカーから、ゆがんだ音が流れる。


キーン、コーン、カーン、コーン。


その音に混じって、誰かの声が聞こえた。


『神崎悠真』


自分の名前だった。


悠真の背筋が凍る。


続いて。


『雨宮詩織』


詩織の顔が青ざめる。


『小日向ひなた』


ひなたが短く息を呑む。


そして最後に。


『黒崎大河』


黒崎の目が細くなった。


壊れたチャイムの音が、夕方の校庭に不気味に響く。


やがてスピーカーから、低く歪んだ声が流れた。


『見つけた』


黒崎が悠真たちの前へ一歩出る。


「走れ」


「またかよ」


悠真が思わず呟く。


黒崎は振り返らずに言った。


「死にたくなきゃ、今すぐ校門まで走れ」


その声には冗談が一切なかった。


旧校舎の窓の中で、黒い影がゆっくりと増えていく。


一つ。


二つ。


三つ。


まるで、校舎の中に何人もいるみたいに。


いや。


人ではない。


悠真は震える足に力を込めた。


そして、四人は校門へ向かって走り出した。


背後で、旧校舎の扉が開く音がした。


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