表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界の終わりは夜から始まる  作者: leemero


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/11

旧校舎の足音

教室の扉が開いた瞬間、冷たい空気が流れ込んできた。


それは夕方の風ではなかった。


もっと重くて、湿っていて、肌にまとわりつくような空気だった。


悠真は反射的に息を止める。


旧校舎の廊下は薄暗い。窓から差し込む夕日はもうほとんど赤黒く、床に伸びた影がやけに長く見えた。


扉の向こうには、誰かが立っていた。


いや。


誰か、ではない。


人の形をしているだけの何かだった。


顔は見えない。


頭の部分が黒い靄のように揺れていて、目も鼻も口も分からない。制服を着ているようにも見えるが、輪郭がぼやけているせいで、本当に人間なのかさえ判断できなかった。


ただ、一つだけはっきり分かった。


そいつは悠真を見ている。


「走って!」


詩織が叫んだ。


その声で悠真の身体が動いた。


詩織に手首を引かれ、教室の後ろへ走る。普通なら出入口は一つしかない。逃げ場なんてないはずだった。


だが詩織は迷わず掃除用具入れの横へ向かうと、そこに置かれていた古い棚を力任せに押した。


「手伝って!」


「は、はあ!?」


「いいから!」


言われるまま悠真も棚を押す。


木製の棚は重く、床に擦れる嫌な音を立てながら少しずつ動いた。その裏には、人一人がギリギリ通れるくらいの小さな扉が隠れていた。


「なんでこんなところに……」


「旧校舎は昔、防災用の通路がいくつか作られてるの」


詩織は扉を開けながら早口で言う。


「今はほとんど誰も知らない」


悠真は背後を振り返った。


黒い影はゆっくりと教室へ入ってくる。


歩き方がおかしい。


足を動かしているのに、床を踏む音がない。


まるで映像だけがこちらへ近づいてくるようだった。


だが、気配だけは本物だった。


近づいてくるたびに空気が冷えていく。


心臓の奥を直接掴まれるような圧迫感がある。


「神崎くん!」


詩織に呼ばれ、悠真は慌てて小さな扉の中へ身体を滑り込ませた。


中は狭い通路だった。


壁はコンクリートで、埃と湿気の匂いがする。灯りはない。詩織がスマホのライトをつけると、細い通路が奥へ続いているのが見えた。


悠真が中へ入ると、詩織はすぐに扉を閉めた。


直後。


ドン、と外側から何かがぶつかる音がした。


棚が揺れる。


扉も軋む。


悠真は思わず息を呑んだ。


「なんなんだよ、あれ」


「名前は知らない」


詩織は小さく答えた。


「でも、夜の向こう側にいるもの」


「まだ夜じゃないだろ」


「だからまずいの」


詩織の声は震えていた。


「本来、あれは零時を過ぎないとこっち側には干渉できない。なのに今、ここに来た」


悠真は昨日のことを思い出す。


窓を叩いていた黒い指。


美咲の声を真似た何か。


あれと同じものなのか。


それとも、別の何かなのか。


分からないことばかりだった。


「俺が見つかったからか」


その問いに、詩織は答えなかった。


答えないことが答えだった。


通路の外ではまだ音が続いている。


ドン。


ドン。


ドン。


規則正しく扉を叩いている。


いや、叩いているというより、確かめているようだった。


ここにいるのか。


逃げたのか。


探している。


そう思うだけで、喉が乾いた。


「こっち」


詩織はスマホのライトを前に向け、通路の奥へ歩き出した。


悠真も黙って後を追う。


通路は想像以上に長かった。旧校舎の壁の中にこんな場所があるなんて知らなかった。床には埃が積もり、壁には古い配管が剥き出しになっている。


何度か曲がり角を進むうちに、外の音は少しずつ遠ざかっていった。


それでも安心はできない。


背後から何かが追ってきている気がして、何度も振り返ってしまう。


「雨宮」


「何」


「お前はなんで、こんな通路を知ってるんだ」


詩織はすぐには答えなかった。


スマホのライトが壁を照らす。


その横顔は青白く、疲れて見えた。


「逃げたことがあるから」


「逃げた?」


「三年前。私が消えた時」


悠真は言葉を失った。


詩織は歩みを止めないまま続ける。


「最初は夢だと思った。気づいたら夜の町にいて、学校も家も、全部違って見えた。町は壊れていて、人は誰もいなくて、空はずっと暗かった」


彼女の声は淡々としていた。


けれど、淡々としているからこそ怖かった。


感情を入れないようにしなければ話せない。


そんなふうに聞こえた。


「そこで何かに追われた。さっきみたいなものに。逃げて逃げて、気づいたらこの旧校舎の裏に出ていた」


「それで戻ってこられたのか」


「うん」


詩織は頷いた。


「でも戻った時、誰も私がいなくなっていたことを覚えてなかった」


「親も?」


「親も」


その言葉は短かった。


だが重かった。


悠真は何も言えなかった。


もし自分が消えて戻ってきたとして、母親が何も覚えていなかったら。


考えただけで胸が詰まる。


詩織はそれを一人で経験したのだ。


「だから分かるのか」


「何が?」


「美咲がまだ生きてるって」


詩織は少しだけ立ち止まった。


振り返らない。


「私が戻ってこられたから、可能性はある」


「可能性だけか」


「それでも、ゼロよりはマシでしょ」


その言い方は冷たく聞こえた。


でも、悠真には分かった。


詩織は希望を与えようとしている。


確証がなくても、悠真が完全に折れないように。


だから、その言葉にすがるしかなかった。


通路の先に、古い鉄扉が見えた。


詩織が慎重に押すと、ギィ、と錆びた音を立てて開く。


出た場所は旧校舎の裏庭だった。


雑草が伸び放題になっていて、ほとんど誰も来ない場所だ。空はもう夕闇に染まり始めている。


詩織は辺りを確認し、ようやく息を吐いた。


「ここまで来れば、たぶん大丈夫」


「たぶんって」


「絶対なんて言えない」


その時だった。


「おーい!」


場違いなほど明るい声がした。


悠真が振り返ると、フェンスの向こうから小日向ひなたがこちらを覗いていた。


「神崎くーん! 雨宮さーん!」


「小日向!?」


悠真は思わず声を上げる。


「なんでここにいるんだよ」


「神崎くんが旧校舎に入っていくの見えたから!」


「ついてきたのか」


「うん!」


「うんじゃないだろ……」


頭が痛くなってきた。


詩織も珍しく困ったような顔をしている。


「小日向さん」


「はい!」


「今すぐ帰って」


「え、なんで?」


「危ないから」


「それって神隠し的に?」


ひなたの目が輝いた。


悠真は思わず頭を抱えた。


この状況で目を輝かせるな。


だが、ひなたはただの好奇心だけで来たわけではなかった。


フェンス越しにスマホを差し出してくる。


「これ見て。さっき変なの撮れた」


悠真は嫌な予感を覚えながら画面を覗き込んだ。


そこには旧校舎の窓が映っていた。


さっきまで悠真たちがいた空き教室の窓。


その内側に、黒い人影が立っている。


顔のない影。


悠真を追ってきたあの何かだった。


「これ……」


ひなたの声が少しだけ小さくなる。


「人じゃないよね?」


その瞬間。


写真の中の黒い影が、ゆっくりとこちらを向いた。


動画ではない。


ただの写真のはずだった。


それなのに。


影だけが動いた。


ひなたが短い悲鳴を上げる。


詩織の顔色が変わった。


「まずい。もう認識された」


「認識?」


悠真が聞き返す前に、旧校舎の中からガラスの割れる音が響いた。


何かが校舎の中を移動している。


そしてそれは、こちらへ向かっている。


詩織が悠真とひなたを見た。


「走って。今度は本当に」


言い終えるより先に、旧校舎の窓から黒い腕が伸びた。


細長く、不自然に曲がった腕。


それが窓枠を掴み、外へ出ようとしていた。


夕闇の中で、ひなたが震えた声で呟く。


「ねぇ……これ、都市伝説より全然怖いんだけど」


悠真は詩織の手を取り、ひなたに向かって叫んだ。


「逃げるぞ!」


三人は同時に走り出した。


背後で何かが地面に落ちる音がした。


ぐしゃり、という濡れた音。


振り返ってはいけない。


そう分かっているのに、悠真は一瞬だけ振り返ってしまった。


旧校舎の裏庭。


そこに、黒い影が立っていた。


顔のないその影は、ゆっくりと首を傾ける。


そして、悠真の声で言った。


「待って」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ