旧校舎の足音
教室の扉が開いた瞬間、冷たい空気が流れ込んできた。
それは夕方の風ではなかった。
もっと重くて、湿っていて、肌にまとわりつくような空気だった。
悠真は反射的に息を止める。
旧校舎の廊下は薄暗い。窓から差し込む夕日はもうほとんど赤黒く、床に伸びた影がやけに長く見えた。
扉の向こうには、誰かが立っていた。
いや。
誰か、ではない。
人の形をしているだけの何かだった。
顔は見えない。
頭の部分が黒い靄のように揺れていて、目も鼻も口も分からない。制服を着ているようにも見えるが、輪郭がぼやけているせいで、本当に人間なのかさえ判断できなかった。
ただ、一つだけはっきり分かった。
そいつは悠真を見ている。
「走って!」
詩織が叫んだ。
その声で悠真の身体が動いた。
詩織に手首を引かれ、教室の後ろへ走る。普通なら出入口は一つしかない。逃げ場なんてないはずだった。
だが詩織は迷わず掃除用具入れの横へ向かうと、そこに置かれていた古い棚を力任せに押した。
「手伝って!」
「は、はあ!?」
「いいから!」
言われるまま悠真も棚を押す。
木製の棚は重く、床に擦れる嫌な音を立てながら少しずつ動いた。その裏には、人一人がギリギリ通れるくらいの小さな扉が隠れていた。
「なんでこんなところに……」
「旧校舎は昔、防災用の通路がいくつか作られてるの」
詩織は扉を開けながら早口で言う。
「今はほとんど誰も知らない」
悠真は背後を振り返った。
黒い影はゆっくりと教室へ入ってくる。
歩き方がおかしい。
足を動かしているのに、床を踏む音がない。
まるで映像だけがこちらへ近づいてくるようだった。
だが、気配だけは本物だった。
近づいてくるたびに空気が冷えていく。
心臓の奥を直接掴まれるような圧迫感がある。
「神崎くん!」
詩織に呼ばれ、悠真は慌てて小さな扉の中へ身体を滑り込ませた。
中は狭い通路だった。
壁はコンクリートで、埃と湿気の匂いがする。灯りはない。詩織がスマホのライトをつけると、細い通路が奥へ続いているのが見えた。
悠真が中へ入ると、詩織はすぐに扉を閉めた。
直後。
ドン、と外側から何かがぶつかる音がした。
棚が揺れる。
扉も軋む。
悠真は思わず息を呑んだ。
「なんなんだよ、あれ」
「名前は知らない」
詩織は小さく答えた。
「でも、夜の向こう側にいるもの」
「まだ夜じゃないだろ」
「だからまずいの」
詩織の声は震えていた。
「本来、あれは零時を過ぎないとこっち側には干渉できない。なのに今、ここに来た」
悠真は昨日のことを思い出す。
窓を叩いていた黒い指。
美咲の声を真似た何か。
あれと同じものなのか。
それとも、別の何かなのか。
分からないことばかりだった。
「俺が見つかったからか」
その問いに、詩織は答えなかった。
答えないことが答えだった。
通路の外ではまだ音が続いている。
ドン。
ドン。
ドン。
規則正しく扉を叩いている。
いや、叩いているというより、確かめているようだった。
ここにいるのか。
逃げたのか。
探している。
そう思うだけで、喉が乾いた。
「こっち」
詩織はスマホのライトを前に向け、通路の奥へ歩き出した。
悠真も黙って後を追う。
通路は想像以上に長かった。旧校舎の壁の中にこんな場所があるなんて知らなかった。床には埃が積もり、壁には古い配管が剥き出しになっている。
何度か曲がり角を進むうちに、外の音は少しずつ遠ざかっていった。
それでも安心はできない。
背後から何かが追ってきている気がして、何度も振り返ってしまう。
「雨宮」
「何」
「お前はなんで、こんな通路を知ってるんだ」
詩織はすぐには答えなかった。
スマホのライトが壁を照らす。
その横顔は青白く、疲れて見えた。
「逃げたことがあるから」
「逃げた?」
「三年前。私が消えた時」
悠真は言葉を失った。
詩織は歩みを止めないまま続ける。
「最初は夢だと思った。気づいたら夜の町にいて、学校も家も、全部違って見えた。町は壊れていて、人は誰もいなくて、空はずっと暗かった」
彼女の声は淡々としていた。
けれど、淡々としているからこそ怖かった。
感情を入れないようにしなければ話せない。
そんなふうに聞こえた。
「そこで何かに追われた。さっきみたいなものに。逃げて逃げて、気づいたらこの旧校舎の裏に出ていた」
「それで戻ってこられたのか」
「うん」
詩織は頷いた。
「でも戻った時、誰も私がいなくなっていたことを覚えてなかった」
「親も?」
「親も」
その言葉は短かった。
だが重かった。
悠真は何も言えなかった。
もし自分が消えて戻ってきたとして、母親が何も覚えていなかったら。
考えただけで胸が詰まる。
詩織はそれを一人で経験したのだ。
「だから分かるのか」
「何が?」
「美咲がまだ生きてるって」
詩織は少しだけ立ち止まった。
振り返らない。
「私が戻ってこられたから、可能性はある」
「可能性だけか」
「それでも、ゼロよりはマシでしょ」
その言い方は冷たく聞こえた。
でも、悠真には分かった。
詩織は希望を与えようとしている。
確証がなくても、悠真が完全に折れないように。
だから、その言葉にすがるしかなかった。
通路の先に、古い鉄扉が見えた。
詩織が慎重に押すと、ギィ、と錆びた音を立てて開く。
出た場所は旧校舎の裏庭だった。
雑草が伸び放題になっていて、ほとんど誰も来ない場所だ。空はもう夕闇に染まり始めている。
詩織は辺りを確認し、ようやく息を吐いた。
「ここまで来れば、たぶん大丈夫」
「たぶんって」
「絶対なんて言えない」
その時だった。
「おーい!」
場違いなほど明るい声がした。
悠真が振り返ると、フェンスの向こうから小日向ひなたがこちらを覗いていた。
「神崎くーん! 雨宮さーん!」
「小日向!?」
悠真は思わず声を上げる。
「なんでここにいるんだよ」
「神崎くんが旧校舎に入っていくの見えたから!」
「ついてきたのか」
「うん!」
「うんじゃないだろ……」
頭が痛くなってきた。
詩織も珍しく困ったような顔をしている。
「小日向さん」
「はい!」
「今すぐ帰って」
「え、なんで?」
「危ないから」
「それって神隠し的に?」
ひなたの目が輝いた。
悠真は思わず頭を抱えた。
この状況で目を輝かせるな。
だが、ひなたはただの好奇心だけで来たわけではなかった。
フェンス越しにスマホを差し出してくる。
「これ見て。さっき変なの撮れた」
悠真は嫌な予感を覚えながら画面を覗き込んだ。
そこには旧校舎の窓が映っていた。
さっきまで悠真たちがいた空き教室の窓。
その内側に、黒い人影が立っている。
顔のない影。
悠真を追ってきたあの何かだった。
「これ……」
ひなたの声が少しだけ小さくなる。
「人じゃないよね?」
その瞬間。
写真の中の黒い影が、ゆっくりとこちらを向いた。
動画ではない。
ただの写真のはずだった。
それなのに。
影だけが動いた。
ひなたが短い悲鳴を上げる。
詩織の顔色が変わった。
「まずい。もう認識された」
「認識?」
悠真が聞き返す前に、旧校舎の中からガラスの割れる音が響いた。
何かが校舎の中を移動している。
そしてそれは、こちらへ向かっている。
詩織が悠真とひなたを見た。
「走って。今度は本当に」
言い終えるより先に、旧校舎の窓から黒い腕が伸びた。
細長く、不自然に曲がった腕。
それが窓枠を掴み、外へ出ようとしていた。
夕闇の中で、ひなたが震えた声で呟く。
「ねぇ……これ、都市伝説より全然怖いんだけど」
悠真は詩織の手を取り、ひなたに向かって叫んだ。
「逃げるぞ!」
三人は同時に走り出した。
背後で何かが地面に落ちる音がした。
ぐしゃり、という濡れた音。
振り返ってはいけない。
そう分かっているのに、悠真は一瞬だけ振り返ってしまった。
旧校舎の裏庭。
そこに、黒い影が立っていた。
顔のないその影は、ゆっくりと首を傾ける。
そして、悠真の声で言った。
「待って」




