雨宮詩織の秘密
翌朝、神崎悠真はほとんど眠れないまま学校へ向かった。
制服に袖を通し、鞄を持ち、玄関で靴を履く。普段なら何も考えずにこなしている動作の一つ一つが、妙に遠いものに感じた。
頭の中には昨夜の光景がこびりついている。
窓の外から聞こえた朝霧美咲の声。
ガラスに走った亀裂。
黒く細長い指。
そして、机の上で一瞬だけ光った父親のネックレス。
夢だったと思いたかった。
でも、自室の窓ガラスには今も亀裂が残っている。母親には「寝ぼけて物をぶつけた」と適当に誤魔化したが、自分でも下手な嘘だと思った。
母は何か言いたげだった。
それでも、それ以上は聞いてこなかった。
父親が消えてから、母は悠真に無理やり話をさせようとしない。聞きたいことがあっても、悠真が話すまで待つ。昔からそうだった。
だから余計に、胸が重くなった。
美咲が消えたこと。
誰も覚えていないこと。
父親の記事だけ名前が残っていたこと。
その全部を話したところで、信じてもらえる気がしない。
信じてもらえないどころか、母の中にある古い傷をえぐるだけかもしれない。
「行ってきます」
小さく声を掛けると、台所から母の声が返ってきた。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
いつもと同じ言葉。
それがなぜか怖かった。
いつも通りの世界が、いつも通りの顔をしている。
でもその裏側で、何かが確実に壊れ始めている気がした。
学校に着くと、教室は普段通り騒がしかった。
誰かが昨日のテレビの話をしていて、誰かが小テストの範囲に文句を言っている。窓際では女子たちが笑い合い、後ろの席では男子がスマホゲームの結果で盛り上がっていた。
そこに朝霧美咲はいない。
けれど、誰も違和感を持っていない。
美咲の席だった場所には、最初から机などなかったみたいに、何も置かれていなかった。
昨日までは確かにそこにいたのに。
悠真がぼんやりその場所を見ていると、横から勢いよく声が飛んできた。
「神崎くん、おはよー!」
小日向ひなただった。
朝から無駄に元気だ。
元気すぎて、今の悠真には少し眩しい。
「おはよう」
「うわ、声ちっちゃ。さては寝不足でしょ」
「まあな」
「やっぱり! 目の下ちょっと黒いもん。夜更かし? ゲーム? それとも禁断の神隠し調査?」
「最後の言い方やめろ」
「えへへ」
ひなたは笑った。
その笑顔を見ていると、昨日見た黒い指や崩壊した町の写真が少しだけ遠のく。
けれど、それも一瞬だった。
ひなたは机に両手をつき、急に声を潜めた。
「ねぇ、神崎くん」
「なんだよ」
「昨日の夜さ、変な夢見なかった?」
悠真は動きを止めた。
「夢?」
「うん。なんかね、町がボロボロになってる夢。ビルがぐちゃーって崩れてて、道路が割れてて、人が誰もいないの」
ひなたは自分で話しながら首を傾げていた。
「起きたらほとんど忘れちゃったんだけど、なんかすごく嫌な感じだけ残ってるんだよね。こう、胸の奥がざわざわする感じ」
悠真は何も言えなかった。
それは夢なのか。
それとも、ひなたも何かを見たのか。
昨夜、詩織は言っていた。
窓の外を見るな。
聞いちゃだめ。
見つかってしまった。
では、ひなたはどうなのか。
知らないうちに巻き込まれ始めているのか。
「神崎くん?」
ひなたが顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
「全然大丈夫そうじゃない顔してるけど」
「寝不足だから」
「ふーん」
ひなたは納得していない顔をした。
だが、そこで予鈴が鳴ったため、それ以上の追及はされなかった。
授業中、悠真は何度も窓の外へ目を向けた。
昼の町は普通だった。
校舎。
グラウンド。
遠くの住宅街。
駅前のビル。
どこにもおかしなところはない。
だが、昨夜の写真には同じ町が廃墟のように写っていた。
本当にあれがこの町なのだとしたら、夜になると何が起きているのか。
そして美咲は、今どこにいるのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
放課後になっても、悠真の頭は重かった。
雨宮詩織に呼ばれていた。
昨日の電話で、彼女は言った。
放課後に来て。
全部は話せない。
でも、少しだけなら話せる。
指定された場所は旧校舎だった。
今はほとんど使われていない古い校舎で、部活の道具置き場や資料室として使われる程度の建物だ。生徒が用もなく近づく場所ではない。
廊下には埃っぽい匂いが漂っていた。
夕方の光が窓から差し込み、床に細長い影を作っている。人がいないだけで、学校という場所は急に別の顔を見せる。
悠真は階段を上がり、一番奥の空き教室へ向かった。
扉の前で一度立ち止まる。
中から物音はしない。
それでも、なぜか彼女がいると分かった。
扉を開ける。
雨宮詩織は窓際の席に座っていた。
長い黒髪が夕日に照らされ、横顔だけが赤く染まっている。机の上には一冊の本が置かれていたが、読んでいたわけではなさそうだった。
詩織は悠真を見ると、小さく息を吐いた。
「来たんだ」
「来いって言ったのはそっちだろ」
悠真は教室に入り、後ろ手に扉を閉めた。
古い教室に二人きり。
その状況が妙に落ち着かなかった。
「話してくれるんだよな」
詩織はすぐには答えなかった。
窓の外へ視線を向け、少しの間黙っている。
悠真はその沈黙が嫌だった。
彼女は何かを知っている。
美咲のことも。
夜のことも。
父親のことだって、もしかしたら何か知っているのかもしれない。
なのに、いつも肝心なところで口を閉ざす。
「雨宮」
悠真が名前を呼ぶと、詩織はようやくこちらを見た。
「全部は無理」
「分かってる」
「話そうとすると、止められる」
「誰に」
その瞬間、詩織の表情が歪んだ。
本当にわずかな変化だったが、悠真には分かった。
見えない何かが彼女の言葉を塞いでいる。
詩織は胸元を押さえ、呼吸を整えるようにゆっくり息を吐いた。
「そういうこと」
「……本当に話せないんだな」
「信じてくれるの?」
「昨日のあれを見た後で、信じない方が難しい」
窓ガラスを叩いていた黒い指を思い出す。
あの恐怖はまだ身体に残っていた。
詩織は少しだけ目を伏せた。
「朝霧美咲は死んでいない」
その一言で、悠真の全身が強張った。
「本当か?」
「少なくとも、私が知っている限りでは」
「どこにいる」
「この世界にはいない」
「それはどういう意味だよ」
悠真は一歩詰め寄った。
「美咲はどこにいる。昨日、窓の外から声がした。でもあれは美咲じゃなかった。じゃあ本物はどこにいるんだ」
詩織は答えない。
答えられないのかもしれない。
だが悠真には、もう黙って待つ余裕がなかった。
「頼むから教えてくれ。俺以外、誰も美咲を覚えてないんだ。家族も、先生も、クラスのやつらも、全部だぞ。あいつが生きてるなら、俺が探すしかないんだよ」
言っている途中で、自分でも驚くほど声が震えていることに気付いた。
美咲が消えてから、ずっと平気なふりをしていた。
だけど本当は怖かった。
このまま自分まで忘れてしまうんじゃないか。
いつか朝霧美咲という名前を聞いても、何も思い出せなくなるんじゃないか。
それが怖かった。
詩織は悠真を見つめていた。
冷たく見える瞳の奥に、ほんの少しだけ迷いが見えた。
「……私も」
彼女は小さく言った。
「私も、神隠しに遭ったことがある」
悠真は息を止めた。
「三年前。私は一度、この世界から消えた」
夕日が雲に隠れ、教室の中が少し暗くなる。
詩織の声は静かだった。
だがその静けさが、かえって言葉の重さを際立たせていた。
「戻ってきた時、誰も私が消えたことを覚えていなかった。先生も、クラスメイトも、親でさえも。私がいなくなった時間だけ、最初から存在しなかったみたいに処理されていた」
「親も……?」
詩織は頷いた。
「だから分かる。朝霧美咲も同じ。あの子は消されたんじゃない。別の場所へ移された」
「別の場所……」
悠真はその言葉を繰り返した。
別の場所。
夜の向こう側。
崩壊した町。
それらが頭の中で繋がりそうで、まだ繋がらない。
「そこはどこなんだ」
悠真が聞いた瞬間だった。
詩織の顔色が変わった。
唇が震え、呼吸が乱れる。
「雨宮?」
「だめ……」
詩織は胸を押さえた。
額に汗が浮かぶ。
「それ以上は……言えない」
「誰が止めてるんだ」
「言えない」
「雨宮!」
「言ったら、あなたも危ない」
その声は震えていた。
詩織は悠真を守ろうとしている。
それは分かる。
でも、守られるだけでは何も変わらない。
「もう危ないんだよ」
悠真は言った。
「昨日の夜、俺は見つかったんだろ?」
詩織は何も言わなかった。
その沈黙が答えだった。
教室の外で、床板が軋む音がした。
ギシ。
二人は同時に扉を見る。
旧校舎には誰もいないはずだった。
部活も終わり、先生も来ない。
なのに、廊下の向こうからゆっくりと足音が近づいてくる。
ギシ。
ギシ。
ギシ。
詩織の表情から血の気が引いた。
「まずい」
「何が来てる」
「声を出さないで」
詩織は鞄を掴み、悠真の手首を取った。
その手は冷たかった。
足音は止まらない。
教室の前で止まる。
扉一枚を隔てた向こうに、何かがいる。
悠真は息を殺した。
窓の外で見た黒い指を思い出す。
あれと同じものなのか。
それとも別の何かなのか。
ドアノブが、ゆっくりと回った。
詩織が悠真の手を強く握る。
そして、ほとんど声にならないほど小さく囁いた。
「走って」
次の瞬間。
教室の扉が開いた。




