表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界の終わりは夜から始まる  作者: leemero


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/9

雨宮詩織の秘密

翌朝、神崎悠真はほとんど眠れないまま学校へ向かった。

制服に袖を通し、鞄を持ち、玄関で靴を履く。普段なら何も考えずにこなしている動作の一つ一つが、妙に遠いものに感じた。

頭の中には昨夜の光景がこびりついている。

窓の外から聞こえた朝霧美咲の声。

ガラスに走った亀裂。

黒く細長い指。

そして、机の上で一瞬だけ光った父親のネックレス。

夢だったと思いたかった。

でも、自室の窓ガラスには今も亀裂が残っている。母親には「寝ぼけて物をぶつけた」と適当に誤魔化したが、自分でも下手な嘘だと思った。

母は何か言いたげだった。

それでも、それ以上は聞いてこなかった。

父親が消えてから、母は悠真に無理やり話をさせようとしない。聞きたいことがあっても、悠真が話すまで待つ。昔からそうだった。

だから余計に、胸が重くなった。

美咲が消えたこと。

誰も覚えていないこと。

父親の記事だけ名前が残っていたこと。

その全部を話したところで、信じてもらえる気がしない。

信じてもらえないどころか、母の中にある古い傷をえぐるだけかもしれない。

「行ってきます」

小さく声を掛けると、台所から母の声が返ってきた。

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

いつもと同じ言葉。

それがなぜか怖かった。

いつも通りの世界が、いつも通りの顔をしている。

でもその裏側で、何かが確実に壊れ始めている気がした。

学校に着くと、教室は普段通り騒がしかった。

誰かが昨日のテレビの話をしていて、誰かが小テストの範囲に文句を言っている。窓際では女子たちが笑い合い、後ろの席では男子がスマホゲームの結果で盛り上がっていた。

そこに朝霧美咲はいない。

けれど、誰も違和感を持っていない。

美咲の席だった場所には、最初から机などなかったみたいに、何も置かれていなかった。

昨日までは確かにそこにいたのに。

悠真がぼんやりその場所を見ていると、横から勢いよく声が飛んできた。

「神崎くん、おはよー!」

小日向ひなただった。

朝から無駄に元気だ。

元気すぎて、今の悠真には少し眩しい。

「おはよう」

「うわ、声ちっちゃ。さては寝不足でしょ」

「まあな」

「やっぱり! 目の下ちょっと黒いもん。夜更かし? ゲーム? それとも禁断の神隠し調査?」

「最後の言い方やめろ」

「えへへ」

ひなたは笑った。

その笑顔を見ていると、昨日見た黒い指や崩壊した町の写真が少しだけ遠のく。

けれど、それも一瞬だった。

ひなたは机に両手をつき、急に声を潜めた。

「ねぇ、神崎くん」

「なんだよ」

「昨日の夜さ、変な夢見なかった?」

悠真は動きを止めた。

「夢?」

「うん。なんかね、町がボロボロになってる夢。ビルがぐちゃーって崩れてて、道路が割れてて、人が誰もいないの」

ひなたは自分で話しながら首を傾げていた。

「起きたらほとんど忘れちゃったんだけど、なんかすごく嫌な感じだけ残ってるんだよね。こう、胸の奥がざわざわする感じ」

悠真は何も言えなかった。

それは夢なのか。

それとも、ひなたも何かを見たのか。

昨夜、詩織は言っていた。

窓の外を見るな。

聞いちゃだめ。

見つかってしまった。

では、ひなたはどうなのか。

知らないうちに巻き込まれ始めているのか。

「神崎くん?」

ひなたが顔を覗き込む。

「大丈夫?」

「……大丈夫」

「全然大丈夫そうじゃない顔してるけど」

「寝不足だから」

「ふーん」

ひなたは納得していない顔をした。

だが、そこで予鈴が鳴ったため、それ以上の追及はされなかった。

授業中、悠真は何度も窓の外へ目を向けた。

昼の町は普通だった。

校舎。

グラウンド。

遠くの住宅街。

駅前のビル。

どこにもおかしなところはない。

だが、昨夜の写真には同じ町が廃墟のように写っていた。

本当にあれがこの町なのだとしたら、夜になると何が起きているのか。

そして美咲は、今どこにいるのか。

考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。

放課後になっても、悠真の頭は重かった。

雨宮詩織に呼ばれていた。

昨日の電話で、彼女は言った。

放課後に来て。

全部は話せない。

でも、少しだけなら話せる。

指定された場所は旧校舎だった。

今はほとんど使われていない古い校舎で、部活の道具置き場や資料室として使われる程度の建物だ。生徒が用もなく近づく場所ではない。

廊下には埃っぽい匂いが漂っていた。

夕方の光が窓から差し込み、床に細長い影を作っている。人がいないだけで、学校という場所は急に別の顔を見せる。

悠真は階段を上がり、一番奥の空き教室へ向かった。

扉の前で一度立ち止まる。

中から物音はしない。

それでも、なぜか彼女がいると分かった。

扉を開ける。

雨宮詩織は窓際の席に座っていた。

長い黒髪が夕日に照らされ、横顔だけが赤く染まっている。机の上には一冊の本が置かれていたが、読んでいたわけではなさそうだった。

詩織は悠真を見ると、小さく息を吐いた。

「来たんだ」

「来いって言ったのはそっちだろ」

悠真は教室に入り、後ろ手に扉を閉めた。

古い教室に二人きり。

その状況が妙に落ち着かなかった。

「話してくれるんだよな」

詩織はすぐには答えなかった。

窓の外へ視線を向け、少しの間黙っている。

悠真はその沈黙が嫌だった。

彼女は何かを知っている。

美咲のことも。

夜のことも。

父親のことだって、もしかしたら何か知っているのかもしれない。

なのに、いつも肝心なところで口を閉ざす。

「雨宮」

悠真が名前を呼ぶと、詩織はようやくこちらを見た。

「全部は無理」

「分かってる」

「話そうとすると、止められる」

「誰に」

その瞬間、詩織の表情が歪んだ。

本当にわずかな変化だったが、悠真には分かった。

見えない何かが彼女の言葉を塞いでいる。

詩織は胸元を押さえ、呼吸を整えるようにゆっくり息を吐いた。

「そういうこと」

「……本当に話せないんだな」

「信じてくれるの?」

「昨日のあれを見た後で、信じない方が難しい」

窓ガラスを叩いていた黒い指を思い出す。

あの恐怖はまだ身体に残っていた。

詩織は少しだけ目を伏せた。

「朝霧美咲は死んでいない」

その一言で、悠真の全身が強張った。

「本当か?」

「少なくとも、私が知っている限りでは」

「どこにいる」

「この世界にはいない」

「それはどういう意味だよ」

悠真は一歩詰め寄った。

「美咲はどこにいる。昨日、窓の外から声がした。でもあれは美咲じゃなかった。じゃあ本物はどこにいるんだ」

詩織は答えない。

答えられないのかもしれない。

だが悠真には、もう黙って待つ余裕がなかった。

「頼むから教えてくれ。俺以外、誰も美咲を覚えてないんだ。家族も、先生も、クラスのやつらも、全部だぞ。あいつが生きてるなら、俺が探すしかないんだよ」

言っている途中で、自分でも驚くほど声が震えていることに気付いた。

美咲が消えてから、ずっと平気なふりをしていた。

だけど本当は怖かった。

このまま自分まで忘れてしまうんじゃないか。

いつか朝霧美咲という名前を聞いても、何も思い出せなくなるんじゃないか。

それが怖かった。

詩織は悠真を見つめていた。

冷たく見える瞳の奥に、ほんの少しだけ迷いが見えた。

「……私も」

彼女は小さく言った。

「私も、神隠しに遭ったことがある」

悠真は息を止めた。

「三年前。私は一度、この世界から消えた」

夕日が雲に隠れ、教室の中が少し暗くなる。

詩織の声は静かだった。

だがその静けさが、かえって言葉の重さを際立たせていた。

「戻ってきた時、誰も私が消えたことを覚えていなかった。先生も、クラスメイトも、親でさえも。私がいなくなった時間だけ、最初から存在しなかったみたいに処理されていた」

「親も……?」

詩織は頷いた。

「だから分かる。朝霧美咲も同じ。あの子は消されたんじゃない。別の場所へ移された」

「別の場所……」

悠真はその言葉を繰り返した。

別の場所。

夜の向こう側。

崩壊した町。

それらが頭の中で繋がりそうで、まだ繋がらない。

「そこはどこなんだ」

悠真が聞いた瞬間だった。

詩織の顔色が変わった。

唇が震え、呼吸が乱れる。

「雨宮?」

「だめ……」

詩織は胸を押さえた。

額に汗が浮かぶ。

「それ以上は……言えない」

「誰が止めてるんだ」

「言えない」

「雨宮!」

「言ったら、あなたも危ない」

その声は震えていた。

詩織は悠真を守ろうとしている。

それは分かる。

でも、守られるだけでは何も変わらない。

「もう危ないんだよ」

悠真は言った。

「昨日の夜、俺は見つかったんだろ?」

詩織は何も言わなかった。

その沈黙が答えだった。

教室の外で、床板が軋む音がした。

ギシ。

二人は同時に扉を見る。

旧校舎には誰もいないはずだった。

部活も終わり、先生も来ない。

なのに、廊下の向こうからゆっくりと足音が近づいてくる。

ギシ。

ギシ。

ギシ。

詩織の表情から血の気が引いた。

「まずい」

「何が来てる」

「声を出さないで」

詩織は鞄を掴み、悠真の手首を取った。

その手は冷たかった。

足音は止まらない。

教室の前で止まる。

扉一枚を隔てた向こうに、何かがいる。

悠真は息を殺した。

窓の外で見た黒い指を思い出す。

あれと同じものなのか。

それとも別の何かなのか。

ドアノブが、ゆっくりと回った。

詩織が悠真の手を強く握る。

そして、ほとんど声にならないほど小さく囁いた。

「走って」

次の瞬間。

教室の扉が開いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ