窓の向こう
「悠真」
朝霧美咲の声だった。
聞き間違えるはずがない。
幼い頃からずっと一緒だった。
学校帰りに聞いた声。
電話越しに聞いた声。
つい数日前まで当たり前に聞いていた声。
それが今、窓の外から聞こえている。
悠真の思考は完全に止まった。
スマホの向こうでは雨宮詩織が必死に何かを叫んでいる。
だが頭に入らない。
美咲だ。
美咲がいる。
生きている。
その事実だけで胸がいっぱいになった。
「美咲……?」
思わず名前を呼ぶ。
すると窓の向こうから返事が返ってきた。
「うん」
柔らかい声だった。
懐かしい声だった。
涙が出そうになるほど。
「悠真」
「どこにいたんだよ……」
声が震える。
怒りなのか安心なのか、自分でも分からなかった。
「みんなお前のこと忘れてるんだぞ」
「知ってるよ」
「俺、ずっと探して……」
そこまで言って言葉が止まる。
何かがおかしい。
美咲の返事が妙だった。
知ってる。
その言い方が。
まるで他人事みたいだった。
「美咲」
悠真はゆっくり窓へ近付く。
スマホの向こうで詩織が叫ぶ。
『近付かないで!』
しかし足は止まらない。
あと数歩。
あと少しでカーテンに手が届く。
「悠真」
また呼ばれる。
優しい声だった。
だがその優しさに違和感が混じっていた。
美咲なら。
朝霧美咲なら。
きっと最初にこう言うはずだ。
「会いたかった」
とか。
「助けて」
とか。
そういう言葉を。
なのに。
窓の向こうの美咲は違う。
ただ悠真の名前だけを呼んでいる。
まるで。
誘うように。
「悠真」
「……お前、本当に美咲か?」
その瞬間だった。
沈黙が落ちた。
窓の外から声が消える。
スマホの向こうでも詩織が息を呑んだ気配がした。
悠真の背中を冷たい汗が流れる。
何秒経っただろう。
やがて。
クスクス、と笑い声が聞こえた。
女の子の笑い声。
だが。
それは朝霧美咲のものではなかった。
「見つけた」
ぞわりと鳥肌が立つ。
声が変わった。
いや。
最初から違ったのかもしれない。
ドン。
窓が大きく揺れる。
悠真は反射的に後ろへ下がった。
ドン。
もう一度。
今度はさらに強く。
まるで何かが体当たりしているようだった。
『離れて!』
詩織の叫び声と同時だった。
バキッ。
窓ガラスに一本の亀裂が走る。
悠真の顔から血の気が引いた。
「は……?」
あり得ない。
二階だ。
人が立てる高さじゃない。
それなのに。
窓の向こうに何かがいる。
ドン。
ドン。
ドン。
ガラスが悲鳴を上げる。
そして。
ヒビの向こうに。
黒い指が見えた。
人間の指ではない。
異様に長く、痩せ細った黒い指。
それが窓ガラスの隙間からゆっくりと覗いていた。
悠真は息を呑む。
身体が動かない。
恐怖で足がすくんでいた。
その時だった。
机の上に置いてあったネックレスが再び光る。
淡い銀色の光。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけだった。
だが。
窓を叩いていた音が止まった。
部屋が静かになる。
風もない。
音もない。
ただ不気味な沈黙だけが残る。
数秒後。
窓の外から気配が消えた。
まるで最初から何もいなかったかのように。
悠真はその場へ座り込む。
全身が震えていた。
スマホの向こうから詩織の声が聞こえる。
『無事……?』
悠真は返事ができなかった。
窓ガラスには大きな亀裂が残っている。
夢じゃない。
幻覚でもない。
確かに何かがいた。
そして。
机の上を見る。
父親の形見のネックレスは、何事もなかったかのように静かに置かれていた。
『神崎くん』
詩織の声が少し落ち着いていた。
『もう隠してる時間がないかもしれない』
悠真はゆっくりスマホを握り直す。
『明日、放課後に来て』
『全部は話せない。でも……少しだけなら話せる』
「少しだけ?」
『あなたはもう見つかってしまったから』
その言葉に背筋が凍る。
見つかった。
誰に?
何に?
聞きたいことは山ほどあった。
だが詩織はそれ以上何も言わなかった。
通話が切れる。
静まり返った部屋の中で、悠真は窓の亀裂を見つめ続けた。
そして初めて確信する。
朝霧美咲の失踪は事件なんかじゃない。
この町には本当に何かがいる。
人知れず。
ずっと昔から。
夜の中に。




