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世界の終わりは夜から始まる  作者: leemero


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9/9

図書室の奥

その夜、神崎悠真は黒崎大河の言葉を何度も思い返していた。


夜の声には返事するな。


知っている人間の声ほど危ない。


短い忠告だった。


けれど、その言葉はやけに重かった。


部屋のカーテンはきっちり閉めてある。窓ガラスの亀裂には応急処置として透明なテープが貼られていた。母親にはまだ怪しまれているが、今はそれどころではない。


机の上には父親の形見のネックレスが置かれている。


昨夜、あれは確かに光った。


黒い指が窓を叩いていた時、あのネックレスが光った瞬間だけ、何かが止まった。


偶然とは思えない。


悠真は椅子に座り、ペンダントトップを指先で転がした。


銀色の小さな飾り。


昔から見慣れているはずなのに、今はまるで別物に見える。


ただの形見ではない。


そんな気がした。


「父さん……」


小さく呟く。


十年前、父は消えた。


警察も見つけられず、周囲の人間は少しずつその話をしなくなった。


母は「いつか帰ってくるかもしれない」と言ったことがある。


でも悠真は、心のどこかで違うと思っていた。


帰ってくるつもりなら、何か言っていくはずだ。


自分たちを置いて、何も言わずにいなくなるはずがない。


だからずっと、父に腹を立てていた。


家族を捨てたのだと思っていた。


けれど、昨日見た記事には父の名前だけが残っていた。


神崎修司。


ほかの失踪者の名前は空白になっているのに、父の名前だけが残っていた。


なぜなのか。


その答えも、きっと夜の向こう側にある。


悠真はネックレスを握りしめた。


その時、窓の外からかすかな音がした。


コン。


小さな音だった。


風で何かが当たっただけかもしれない。


悠真は息を止める。


コン。


もう一度。


昨日のように激しく叩く音ではない。


控えめで、優しい音。


まるで誰かが遠慮がちに窓を叩いているようだった。


悠真は動かなかった。


カーテンを見る。


黒崎の言葉を思い出す。


返事するな。


見るな。


聞くな。


コン。


三度目の音。


そして、声がした。


「悠真」


朝霧美咲の声だった。


心臓が大きく跳ねる。


昨日と同じ声。


懐かしくて、聞くだけで胸が締め付けられる声。


「悠真、いるんでしょ?」


悠真は口を押さえた。


返事をしてはいけない。


分かっている。


それでも喉が震えた。


美咲の声で呼ばれるだけで、心が勝手に反応してしまう。


「ねぇ、開けて」


窓の向こうで美咲が言う。


「寒いよ」


悠真は強く目を閉じた。


美咲じゃない。


これは美咲じゃない。


昨日、自分で気付いたはずだ。


あれは美咲の声を真似ているだけの何かだ。


「悠真」


声が少し近くなる。


カーテン越しに、窓の外へ誰かが立っている気配があった。


二階の窓の外に、人が立てるはずがない。


「私のこと、探してくれるんでしょ?」


息が止まった。


その言葉だけはずるかった。


探している。


今も探している。


だからこそ、返事をしたくなる。


したくなってしまう。


「だったら、こっちを見て」


机の上のネックレスが、かすかに光った。


淡い銀色の光が指の隙間から漏れる。


同時に、窓の外の気配が少しだけ遠ざかった気がした。


「……っ」


悠真は声を殺して息を吐いた。


助けられている。


このネックレスに。


理由は分からない。


だが、そう思った。


やがて窓の外の声は消えた。


コン、という音もしなくなる。


代わりに、部屋には時計の秒針だけが響いた。


悠真はしばらくその場から動けなかった。


朝になるまで、眠ることはできなかった。


翌日。


学校へ向かう足取りは重かった。


寝不足で頭がぼんやりしている。


それでも、昨日よりはましだった。


少なくとも、今日は一人で抱え込む必要はない。


放課後、図書室の奥。


黒崎はそう言った。


授業は相変わらず頭に入らなかった。


教師の声が遠くで響いている。


ノートに何かを書いているふりをしながら、悠真はずっと考えていた。


黒崎沙耶。


黒崎大河の姉。


三年前に消えた人物。


そして、雨宮詩織が神隠しに遭ったのも三年前。


偶然とは思えない。


三年前に何かがあった。


その出来事が、今の朝霧美咲の失踪にも繋がっているのかもしれない。


昼休みになると、小日向ひなたが弁当を持って悠真の席へやって来た。


「神崎くん、今日ちゃんと来るよね?」


「図書室のことか?」


「そう!」


ひなたは椅子を勝手に引っ張って座る。


その顔にはいつもの明るさが戻っていたが、目の下には少しだけ疲れが見えた。


「小日向も寝てないだろ」


「寝たよ。三時間くらい」


「それは寝たうちに入らない」


「神崎くんも人のこと言えない顔してるけど」


「まあな」


二人で苦笑する。


そこへ、雨宮詩織が静かに近づいてきた。


相変わらず目立たない。


教室の中にいるのに、彼女だけ少し離れた場所に存在しているように感じる。


「今日の放課後」


詩織は短く言った。


「図書室に行く前に、気をつけて」


「何に?」


悠真が聞く。


詩織は一瞬だけ窓の外へ視線を向けた。


「学校の中でも、見られているかもしれない」


ひなたが箸を止める。


「それって、昨日の黒い影?」


「分からない。でも、名前を呼ばれた時点で、こっちを認識されてる」


認識。


昨日も聞いた言葉だ。


嫌な響きだった。


「認識されたらどうなるんだ」


悠真が聞くと、詩織は少しだけ黙った。


「干渉されやすくなる」


「干渉?」


「声を真似されたり、写真に映ったり、夜の向こう側の景色が見えたりする」


悠真は昨夜のことを思い出した。


また美咲の声が聞こえたことは、まだ二人には言っていない。


言えば心配される。


そう思った。


だが、隠しても仕方がない気もした。


「昨日の夜」


悠真は小さく言った。


「また美咲の声がした」


ひなたの表情が固まる。


詩織も目を細めた。


「返事は?」


「してない。黒崎に言われたから」


「よかった」


詩織は本当に安堵したように息を吐いた。


その反応で、悠真は改めて自分が危ないところにいたのだと理解した。


「もし返事してたら?」


ひなたが恐る恐る聞く。


詩織は答えなかった。


答えない方が怖かった。


放課後になるまで、時間は妙に長く感じた。


部活へ向かう生徒たちの声が廊下に響く中、悠真たちは図書室へ向かった。


図書室は校舎の三階にある。


普段から利用者は少ない。特に放課後は、受験生が数人いるくらいで静かな場所だった。


入口のカウンターに座る図書委員がちらりとこちらを見る。


奥へ進むと、本棚の間に黒崎大河が立っていた。


腕を組み、壁にもたれている。


その態度だけ見れば完全に不良だが、なぜか図書室に馴染んでいないのが逆に目立っていた。


「遅ぇ」


「まだ放課後になったばかりだろ」


悠真が言うと、黒崎は面倒くさそうに舌打ちした。


「声でかい。こっちだ」


黒崎は図書室のさらに奥へ進む。


普通の本棚を抜けた先に、古い資料が置かれた一角があった。


町史。


郷土資料。


古い新聞の縮刷版。


ひなたの目が一気に輝いた。


「わ、すごい。こういう場所あったんだ」


「お前、本当にこういうの好きだな」


「好き! 怖いけど好き!」


「昨日泣きそうだったくせに」


「それとこれは別!」


黒崎は二人のやり取りを無視して、一番奥の棚から分厚いファイルを引っ張り出した。


表紙には手書きで『地域新聞 十年前』と書かれている。


十年前。


悠真の胸が強く反応した。


父が消えた年だ。


黒崎は机にファイルを置き、乱暴に開いた。


「ネットの記事は消される。名前も写真もな。でも紙の記録は、完全には消えねぇことがある」


「完全には?」


詩織が静かに聞く。


黒崎はページをめくる。


「文字が欠けたり、写真が黒くなったりはする。でも、跡が残る」


開かれたページには、古い新聞記事が貼られていた。


見出しにはこうある。


『市内男性、夜間外出後に行方不明』


悠真は息を呑んだ。


記事の下には、顔写真があるはずの四角い欄があった。


だが、そこは黒く塗りつぶされたようになっている。


名前の欄にはノイズのような染みが広がっていた。


しかし。


その中に、かすかに読める文字があった。


神崎修司。


悠真の指が震える。


「父さん……」


ひなたが隣で息を呑む。


詩織は静かに記事を見つめていた。


黒崎は悠真の顔を見た。


「やっぱり知り合いか」


「俺の父親だ」


その場の空気が変わった。


黒崎も、ひなたも、詩織も、何も言わなかった。


悠真は記事を食い入るように読む。


十年前、深夜に自宅を出た神崎修司が行方不明になった。


最後に目撃された場所は八坂神社付近。


美咲が消えた場所と同じだった。


「八坂神社……」


悠真の声がかすれる。


黒崎が別のページを開く。


「まだある」


次の記事には、複数の失踪事件がまとめられていた。


七年前。


五年前。


三年前。


そして今年。


それぞれに共通する言葉がある。


夜間。


八坂神社。


旧校舎。


廃病院。


名前はほとんど欠けている。


写真は真っ黒。


だが、そこには確かに記録が残っていた。


この町では何度も人が消えている。


都市伝説ではない。


本当に。


ずっと昔から。


「三年前のところ」


詩織が小さく言った。


黒崎の手が止まる。


彼は少しだけ迷ったあと、そのページを開いた。


見出しは歪んでいた。


『女子高生二名、同日夜に――』


そこから先は読めない。


インクが滲んだように潰れている。


写真欄は二つ。


どちらも黒く塗りつぶされていた。


名前もほとんど消えている。


だが一つ目の欄には、かすかに『雨宮』の文字が見えた。


二つ目には。


黒崎沙耶。


黒崎の姉の名前が、薄く残っていた。


ひなたが口元を押さえる。


「同じ日……?」


黒崎は何も言わない。


だが拳が震えていた。


詩織は顔色を失っていた。


「私と、黒崎くんのお姉さんが……同じ日に」


「知らなかったのか」


黒崎が低く聞く。


詩織は首を横に振る。


「覚えてない。私が消えていた間のことは、断片的にしか」


悠真は記事を見つめる。


三年前に二人が消えた。


詩織だけが戻り、黒崎沙耶は戻らなかった。


なら、美咲も同じ場所にいる可能性がある。


戻れる可能性がある。


希望のようなものが胸に灯る。


その時だった。


ひなたが別の資料を手に取った。


「ねぇ、これ見て」


それは町史だった。


かなり古い本で、表紙は擦り切れている。


ひなたは震える指で一ページを指差す。


そこには八坂神社の由来が書かれていた。


『八坂神社は古くより境界の社と呼ばれ――』


悠真はその一文を見る。


境界。


黒崎が昨日言った言葉と同じだった。


ひなたがさらに読み上げる。


「境界の社……夜と昼、この世とあの世を分ける場所……」


「まんまじゃねぇか」


黒崎が呟く。


詩織は眉を寄せていた。


「でも、それだけじゃない」


「何が?」


悠真が聞くと、詩織はページの端を指差した。


そこには、古い地図のような図が載っている。


八坂神社。


旧校舎。


廃病院。


三つの場所が線で結ばれていた。


三角形。


その中心には、今は使われていない地下施設の跡地が記されている。


悠真はその地図を見つめた。


地下施設。


そんなものがこの町にあるなんて聞いたことがない。


黒崎も眉をひそめる。


「ここ、どこだ」


ひなたがスマホで地図を開き、現在の地図と重ねようとする。


だが、画面が急にちらついた。


「え?」


ノイズが走る。


スマホの地図アプリが勝手に拡大される。


そして、中心地点に赤いマークが表示された。


場所の名前はない。


ただ一つ、文字だけが表示されていた。


『エラー発生地点』


図書室の蛍光灯がちらついた。


一度。


二度。


そして、室内の空気が急に冷える。


悠真はゆっくり顔を上げた。


本棚の奥。


暗い隙間の中に、誰かが立っている。


黒い影。


旧校舎で見たものと同じだ。


「嘘でしょ……」


ひなたの声が震える。


黒崎が低く舌打ちした。


「図書室の中まで来やがった」


詩織が息を呑む。


黒い影は動かない。


ただ、こちらを見ている。


そして、ゆっくりと口のない顔を歪ませた。


声がした。


『記録を閲覧しました』


機械のようで、人間のようで、どちらでもない声。


『修正を開始します』


その瞬間、机の上に広げられていた新聞記事の文字が、ざらざらと崩れ始めた。


神崎修司。


黒崎沙耶。


雨宮詩織。


残っていた名前が、紙の上から消えようとしていた。


「だめだ!」


悠真は反射的に父の名前の上へ手を伸ばした。


その時、胸元のネックレスが強く光った。


今までとは違う。


はっきりとした銀色の光。


図書室全体が一瞬だけ白く照らされる。


黒い影が、初めて後ずさった。


詩織が目を見開く。


黒崎も息を呑む。


ひなたが震えた声で言った。


「神崎くん……そのネックレス、何?」


悠真は自分の胸元を見下ろす。


父親の形見。


ただそれだけだと思っていたもの。


だが、今は違う。


銀色の光の中で、ペンダントトップの表面に細い文字が浮かび上がっていた。


『ARK-00』


悠真はその文字を見つめた。


読めないはずなのに、なぜか意味だけが胸に落ちてくる。


鍵。


これは、何かを開くための鍵だ。


黒い影が本棚の奥で揺れる。


そして、ノイズ混じりの声で言った。


『創設者権限を確認』


その言葉を最後に、図書室の蛍光灯がすべて消えた。


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