その9:「だってあなたは……」
「ミカ! ミカ!」
シオンの呼びかけに、ミカはゆっくりと目を開いた。失血に加え、水に浸かった素肌から熱が奪われて、意識が朦朧とする。目が合うと、シオンは安心したように笑った。
「足の傷は縛った。前よりはいいだろう」
辺りを見回す。狭い部屋のようだった。水位が上がって、水面から天井までは1メートルもない。そして、部屋の壁も天井も、コンクリートで塗り固められていた。潜る以外に、脱出口があるようには見えなかった。ミカは微笑んだ。
「……シオン、あなたは脱出して。……私は……もういいの……」
「何?」
ミカは目を閉じて天井を仰いだ。
「……もう……思い残すことはないわ……」
「何言ってる?! お前はまだ、お前の人生を生きてないだろ!」
慌てたシオンの声に、ミカは青い瞳で天井を見上げる。
「……考えたの……私の……私らしい人生って……。でも分からなかった……。何が私らしいのか……。ずっと自分を責め続けて……否定し続けて……何が私なのか、分からなくなったの……」
舌打ちしたシオンは、乱暴にミカの肩を掴んだ。
「そんなものは、生きながら考えりゃあいいんだ! 何なら、俺が一緒に考えてやる!」
彼の真剣な表情に、ミカは虚ろな目を細めた。
「……シオン……あなた……優しいのね……」
歯軋りしたシオンは、不意に目を伏せた。
「……俺も……何が俺らしいのか分からない……」
「……え?……」
「……元の俺は、志音と同じだったはずだ。じゃあ、この俺はどっから来たんだ。俺の方がオリジナルのはずなのに……」
「……シオン……」
思いがけない彼の言葉に、ミカの意識は引き戻された。
眉根を寄せた彼女は、ゆっくりと手を上げると、それをシオンの腕に沿えた。
しかし、顔を上げたシオンは唇の端を釣り上げた。
「……だが、それがどうした! 俺は生きてる! この人生が俺のもんであることは違いない! お前も一緒だ! それはお前のもんなんだ!」
シオンは彼女の肩を強く握りしめた。
「いいか、俺の記憶じゃあ、この事故で死人は一人も出てねぇ! だから必ず助かる! 諦めるな!」
「……シオン……」
彼女の瞳の中に、微かな光が戻るのを確認すると、微笑んだシオンは下着姿のミカを一瞥した。
「なあ、助かったら、やらせろよ!」
一瞬目を瞠ったミカは、顔を顰めた。
「……ムードの欠片もないわね……」
そして、息をつくと苦笑した。
「……いいわよ……助かったらね……」
その時だった。
鈍い衝撃音が響いた。天井にひびが入り、コンクリートの粉が舞う。
部屋全体を震わす衝撃が繰り返され、遂に天井の一部が崩れ落ちた。眩い光が差し込む。
「二人とも大丈夫?!」
アミカナの声が響いた。唖然としていたシオンは、ハッとして、うすら笑いを浮かべながら怒鳴った。
「遅ぇぞ! 脳筋!」
顔を顰めながら、それでもアミカナは笑った。
「うるせー! ポンコツ!」
外では、降り続いた雨がようやく止んでいた。まだ風は強く、低く垂れ込めた雲は千切れるように流されていた。水族館の屋上へと引き上げられたシオンとミカに、志音は毛布を掛けた。シオンの上着で縛られたミカの右太腿には、まだ血が滲んでいた。その様子を、少しだけ離れた位置から、アミカナは眺めていた。
「……何か……生き残っちゃった……」
思いつめた表情で口を噤むアミカナの視線に気付いて、ミカはばつの悪そうに笑った。
アミカナの眉が顰められた。
次の瞬間だった。
アミカナの平手打ちが飛んでいた。
突然のことに慌てるシオンを、志音が引き留めた。
「……アミカナ……」
頬を押さえて目を瞠るミカに、アミカナは震える声で叫んだ。
「なんであなたはいつもそんななの?!」
両手を握り締めて俯く。
「私は……私が不完全なのは誰のせいとか、どーでもいい!」
吐き捨てるように言うと、アミカナは顔を上げた。今まで伝わらなかった苦しさが、眉間に滲んでいた。
「私は、あなたと一緒にいたいの。一緒に買い物したり、カフェでお茶したり、彼氏の愚痴を言い合ったり……そういう、たわいのない時間を、あなたと過ごしたいだけなの!」
そこまで言うと、彼女はすがるような表情を浮かべた。睫毛が震える。
「だってあなたは……私のことを一番よくわかってくれる……たった一人の存在なんだもの……。無事でよかった……」
くずおれるようにして、アミカナはミカに抱き付いた。
大きく見開かれたミカの瞳からは、やがて大粒の涙が溢れ出した。肩に顔を埋めるアミカナをしっかりと抱き締める。
「……アミカナ……ごめん……ごめんね……」
震える声で話すミカに、アミカナは苦笑した。
「やめてよ……ミカは謝ってばっかり……」
「そうだね……ありがとう……ありがとう! アミカナ……」
とめどなく溢れるミカの涙が、アミカナの肩口を濡らしていた。泣きじゃくるミカに、アミカナの体が震え出す。
「……ゔゔ……泣きたいのに……泣けない……ぐぐぅ……」
歯を食いしばった彼女だったが、堪え切れずに天を仰いだ。
「……ぅミカ、大好きーっ!!」
アミカナの絶叫が、水族館の屋上に響いた。
突然のことに一瞬驚いたミカだったが、込み上げる気持ちに堪えられないように顔を歪めると、同じように声を張り上げた。
「アミカナ、大好きーっ!!」
互いに泣き笑いの表情を浮かべながら、二人は改めてしっかりと抱き合った。
志音とシオンは、言葉もなく、抱擁する二人を見つめていた。
やがて、天を仰いだシオンは微かに体を震わした。大きく息を吸うと志音の腹にパンチを食らわす。突然の出来事に、志音は腹を押さえてかがみ込んだ。思わず咳き込む。
「ちょっと、いきなり何?!」
苦しそうな顔をあげる志音に、シオンはうすら笑いを浮かべた。
「分からん! そんな気分になった。アンドロイドなら耐えろ」
意味不明な理由に肩をすくめながら、志音はゆっくりと起き上がった。
改めて二人の彼女を見る。
「……よかったね……」
安心したように志音が呟くと、シオンも微笑んだ。
「……ああ……言っただろ? 今日は快晴だ……」




