その8:「僕に決めさせて欲しい」
アミカナを背負いながら、志音は水の中を歩いていた。水位は下がっていたが、それでも流れに足を取られそうになる。のしかかるアミカナの重さに、志音は歯を食いしばった。
ふと気付いて、志音は背中のアミカナに声をかけた。
「アミ。どうやったらリミッターを外せるの?」
アミカナはハッとした。そう、型式は分からないが、志音もアンドロイドのはずだ。
「……正面を向いたまま目を閉じて」
彼女に言われるまま目を閉じる。
「視界の右上にメニューが見えない?」
「いや、真っ暗だけど……」
「……そう……じゃあ、残念だけど設定は変更できないわ……」
「そうか……まあ、このまま頑張るよ……」
志音はアミカナを背負い直した。相変わらず、彼女の両腕は力なく垂れ下がったままだ。志音の首に巻き付けることもできないでいる。そして、背負ってからずっと、彼女の体の不規則な震えが、志音の剥き出しの背中に伝わっていた。
「……志音、ごめんね……」
アミカナが、耳元で消え入るように呟いた。
「……私……こんな時に役立たずで……ほんと、ごめん……」
最後の方は、声が掠れていた。震える息が、志音の耳元にかかる。
彼は努めて明るく言った。
「謝らなくていいよ」
アミカナは苦しそうに目を閉じた。口を噤む。唇の震えが収まるのを待とうとして、やがて諦めると、ずっと心の中に溜め込んでいた苦悩を吐き出した。
「……だって……私……ちっとも……あなたを満たせてない……」
志音は目を見開いた。それは、彼が抱えていた悩みと同じだった。彼女は一体何を言っているんだ……何故、彼女がそんなことを気にする必要がある?……自分なんかよりよっぽど輝いている彼女が……
「……どうしてわかるの?……」
やがて発したその声には、苛立ちの響きが滲み出ていた。
「……え?……」
「……僕が満たされていないだなんて、どうしてわかるの?……」
志音の声色が変わったことに気付いて、アミカナは戸惑ったように目を伏せた。何度も瞬く。
「……だって……私……足りないことばっかりで……」
そこで、志音は再びアミカナを背負い直した。彼女の体が、少し乱暴に彼の背中に打ち付けられる。
「……足りてないからって……満たせないとは限らない……」
そう言って、志音は微笑んだ。
その言葉に、アミカナは目を瞠った。シオンと同じようなことを……
……根っこは一緒なのよ……ミカの言葉が思い出される。
……足りなくても……いいの?……
「ミカさんが言ってた。満たされているかどうかは、欠けてる方にしか分からないって」
一度目を伏せて、自分の想いを確認した志音は顔を上げた。しっかりと前を見据える。
「……僕は満たされてるよ……君が横にいて……笑ってくれるだけで……。だから……」
そこで、志音は背中のアミカナを振り返った。
「……君の価値は、僕に決めさせて欲しい……」
その言葉が沁み込むと、アミカナの体は一際大きく震えた。
志音に伝わると分かっていたが、堪えることはできなかった。しっかりと目を閉じて、奥歯を噛み締める。何度も震えが込み上げる。
「……ほんと、嫌になる……」
長い長い沈黙の後、彼女は呟いた。
「……何が?……」
「……凄く泣きたいのに……泣けないなんて……」
志音は笑った。また背負い直す。
「……じゃあ、一緒に叫ぶ?……」
「……え?……」
「……何て叫ぼうか?……」
志音は、大袈裟に考え込むような声を出した。
……もしかして、志音はあの絶叫の意味に気付いてる? ミカは大誤解してシオンを責めたけど、志音は、本当は私が泣いてたんだって……
……もう……何なの……
アミカナは、震えを隠すことを完全に諦めた。ただただ、彼の背中に身を預ける。温かさが伝わって、余計に身震いする。
「……じゃあ……『大好き』で……」
震える声で、アミカナは提案した。
「……え……『大好き』か……」
「……早く……気持ちが……溢れそう……」
「……わかった……」
歯を鳴らすアミカナに、志音は頷いた。
「せ~の……」
「「大好きー!!」」
二人の――特にアミカナの絞り出すような――絶叫が、水族館の壁を震わした。
志音は、アミカナの口元に近い方の肩をすくめ、片目を瞑りながら苦笑した。
「……何かシュールだね……今、結構ピンチなんだけど……」
「……いいの……今の私の気持ちだから……」
アミカナは、志音の背中に頬を付けて、力の抜けた声で呟いた。
「……そうじゃない……」
「え?」
「……今の僕たちの気持ちさ……」
「……志音……」
アミカナは目を閉じた。彼の背中に自分が沈み込んでいく――いや、溶け込んでいくようだった。
「もう一回叫ぼうか?……」
彼に言われて、アミカナは虚ろな目を開けた。
「……うん……」
二人は同じタイミングで息を吸った。
「「大好きー!!」」
志音は笑った。
「もう一回!」
再び息を吸いかけて、彼は前方の明かりに気付いた。
「出口だ!」
「だいっ……出口?」
二人は開けた空間へと出た。
そこは、水族館の入口だった。ガラス張りの広いホールの方から、流れはやってきていた。
……流れ込んでる?……やっぱり大水槽の水じゃないのか……洪水?……
志音がよく見ると、ガラスの向こうは、こちら側より高い水位になっていた。その中で、クーラーボックスのようなものが、浮き沈みしつつ、何度もガラスを打っている。
……ゴン……
鈍い音に、志音とアミカナは息を飲んだ。
……まずい!……今、あれが割れたら……
志音は慌てて壁際へと移動を始めた。
……早く支えのあるところへ!……
しかし、壁まであと少しというところで、一際激しくボックスがぶつかった。
亀裂の走る鋭い音がした次の瞬間、ガラスを打ち破って外の水がなだれ込んだ。
ダメだ!
アミカナの足が引き抜けないように、志音は精一杯腕を引き締めた。極力重心を低くして、衝撃に備える。しかし、そんな懸命さを嘲笑うように、水の塊は彼の足を易々とすくっていった。
まずい、アミカナが水中に落ちる!……志音は咄嗟に体を捻った――いや、捻ろうとした。
しかし――
足先は水流に弄ばれているにも関わらず、志音の体は流れに逆らい続けていた。体の前で水が激しく飛沫を上げる。
志音はハッとした。
背中のアミカナの足が、彼の体をしっかりと挟み込んでいる。そして――
壁に伸ばされた彼女の左手。
その指が、コンクリートに深々と突き刺さっていた。
「アミ?!」
志音は驚いて背中を振り返った。アミカナは、青い目を瞠っていた。
「……動けた……!」
彼女自身、戸惑いの声を上げる。
しかし、次の瞬間、彼女は左腕に力を入れていた。微かな軋みと共に、志音の体は壁へと引き寄せられた。水の中で、改めて足を踏みしめる。アミカナは右手を突き出した。指先が、壁にしっかりと新たな穴を穿つ。彼女が肘を曲げると同時に、志音は一歩を踏み出した。二人は、流れをかき分けて、確実に前へと進み出した。
「よし! このまま外に出よう!」
志音の言葉に、アミカナは頷いた。
「そしたら……ミカを助けに行く!」




