その4:「どうして……私は、こんなにも足りてないの?」
軋みの発生源を耳で追って、アミカナは顔を上げた。巨大なアクリル板の接合部に、白い筋が走っていた。
「ミカ!」
その意味を理解する前に、彼女は隣のミカの腕を掴んでいた。
遅れてミカが筋を確認するのと、彼女が投げ飛ばされたのは同時だった。不意を突かれたはずのミカだったが、空中で華麗に姿勢を整え、落下点のシオンに向かって腕を伸ばした。受け止めたシオンは、そのまま彼女を天井に放り上げる。
「ミカ! 配管だ!」
シオンの声に、ミカは配管のフレームをしっかり掴んでぶら下がった。
振り返りざまに、シオンは階段状の観覧席から走り降りてきた志音を捕まえた。
「ミカ! こいつを頼む!」
余りある勢いで放り上げられ、短い悲鳴を上げる志音を、ミカが腕を伸ばして受け止めた。華奢な体で、志音を抱える衝撃に耐え、彼をフレームに掴ませる。
「脳筋! お前も来い!」
背後でシオンが叫んでいた。
……言われなくても……
呟いたアミカナは全身のリミッターをはずす。天井までのジャンプなら余裕だ。
その時――
先程よりはっきりした音が、水槽の奥から響いた。
アクリルの壁がゆっくりと歪んでいた。表面に落ちる照明の陰影が、歪みに合わせて奇怪な動きを見せる。周囲から水が漏れ出る。
アミカナはそこから目が離せなかった。全身が総毛立つ。
水が……来る!……
分かっているのに、体が竦む。何かに絡めとられたように、身動きができない。
「アミカナ!」
誰かが叫んでいた。分かってる!……けど、動けない!
目の前で、世界そのものが、自分に向かって倒れてくる――それを、ただただ見るしかできない自分がいた。
そして――壁は砕けた。
音がしたかは分からない。
凄まじい質量の奔流が、あっという間に彼女を飲み込んだ。いや、飲み込んだという表現は正しくない。四肢をもぎ取るような凶悪な力で、弾き飛ばした。
「アミカナぁ!!」
どこまでも水の溢れる轟音の中、ミカが絶叫した。
「ミカ! お前はこいつを連れて何とか脱出しろ!」
隣にぶら下がったシオンが叫んだ。
「シオンはどうするの?!」
「俺はクソ脳筋を連れ戻す!」
そう言うと、シオンは躊躇なく濁流の中へと飛び込んでいた。
「シオン?!」
流れはシオンをも一瞬で掻き消した。魚を孕んだ水は、低みを求めて、ありとあらゆる隙間に殺到していた。建物全体が震え、照明が落ちる。
志音は何も言えなかった。ただただ、震えながらフレームにしがみつくしかなかった……
* * *
渦を巻いて流れる水の上に辛うじて顔を出していた、密閉水槽と思われる透明な台の上に、シオンはアミカナを押し上げた。続いて自分も台の上に乗る。一畳程度の台の上に仰向けに横たわったアミカナの横で、腰を下ろしたシオンは大きく息をついた。濡れた髪の毛を掻き上げる。
「脳筋、お前クソ重いな」
笑いながら話しかけたが、アミカナからの反応はなかった。
「おい、脳筋?」
アミカナは目を閉じたままだった。濡れた服が張り付いた彼女の胸に動きはなかった。
……こいつ、息してねぇ!……
シオンは慌てて人工呼吸をしようと、彼女の額と顎に手をかけた。
「私に触るな!」
急に、殺意のこもった青い目が開く。
「私はアンドロイドだ。呼吸は必要ない」
驚いたシオンは手を離した。遅れて、彼女の言葉の意味を知り、浮かした腰を落とす。
「へっ! おどかすなよ!」
一瞬取り乱したことをごまかすように、シオンはにやけながら顔を近付けた。
「寄るな!」
眉根を寄せたアミカナは顔を背けた。
「何だよ、本編17話では自分からキスしたくせに」
「あれは作戦だ。……っていうか、メタ発言するな」
短く息をつくと、シオンは立ち上がった。
「まあいい。意識があるなら早く脱出するぞ」
だが、アミカナは横たわったままだった。台の上に上げられた時のまま、力なく四肢を投げ出している。
「おい、どうした脳筋?」
シオンの問いに、アミカナは唇を噛み締めた。
「……う……動けない……」
「何だ? 故障でもしたのか?」
「……いや……ボディの機能は正常だ……」
「じゃあどうした?」
アミカナは周囲を見渡した。青い瞳に怯えが走る。彼女の体が小さく身震いしたように、シオンには見えた。答えようとして開いた唇が震えている。
「……水が……怖い……体が竦んで……動けない……」
「は? お前、本編14話では露天風呂入ってただろうが?」
「風呂の水ぐらいなら大丈夫だけど……お前、本編13話読んでないのか…っていうか、もうメタ発言やめよう」
シオンは息をつくと、苛立ったように後頭部を掻いた。
「ハッ、とんだポンコツだな」
「……」
いつもならすかさず言い返すアミカナだったが、何の反応もなかった。
「どうした? 何か言い返さないのか?」
シオンは、うすら笑いを浮かべて、黙ったまま横たわる彼女を見下ろした。
「……私だって……」
やがて言葉を発した時、その声は明らかに震えていた。
「……私だって……好きでこうなった訳じゃない……」
アミカナはシオンに顔を向けた。苦悩に溺れた表情で、すがるように彼を見る。
「……どうして……私は、こんなにも足りてないの?……」
目を伏せる。睫毛が震える。
「食事もできない……眠ることもできない……体温もない……それから……その……アレもできなくて……。足りないことばかりで、志音に申し訳なくて……。今も、ポンコツにポンコツって言われて……でもその通りで……泣きたくなるのに……それもできないなんて……」
込み上げる気持ちに耐えられず、アミカナの顔が泣き出しそうに歪む。困ったようにシオンは目を逸らした。
「うわあぁぁ!」
突然の彼女の絶叫に、シオンは思わず身を縮めた。
「何だお前?! うるせぇ!」
シオンに言われて、アミカナは鬼のような形相で彼を睨んだ。
「泣けないから、叫ぶしかないんだ! うわあぁぁ!」
目の前で叫び声を上げるアミカナに、シオンは耳を押さえた。
「お前、人前では弱さを見せられない設定じゃなかったのかよ!」
「うるさい! いちいちメタ発言するな! ……っていうか、お前は人でなしだからいいんだ!」
そう言うと、アミカナは絶叫を繰り返した。
「……普通に泣けよ。そういうシーンだろ……」
肩をすくめてシオンは呟いた。耳聡く気付いたアミカナは、歯軋りしながら彼を睨む。
「私は設定を守ってるだけだ! 文句なら作者に言え!」
シオンはうんざりしたように息をついた。
「……お前もメタ発言やめろ……」
* * *
叫び疲れたアミカナは、黙って胸を上下させていた。呼吸は必要ないはずだったが、生身だった時の反射反応なのだろう。喉が、微かに掠れた音を出していた。
シオンは、アミカナに背を向けて胡坐をかいていた。流れ着いた棒状の珊瑚の欠片を弄ぶ。
やがて彼は言った。
「どうだ? 少しは落ち着いたか?」
「……」
珊瑚を顔の前で眺めていたシオンは、やがて珊瑚の向こうの暗闇に目をやった。
「聞け、脳筋。足りてるからって、満たされるとは限らねぇ」
アミカナを振り返る。
「お前は今、満たされてねぇのか?」
「……」
シオンは天井を見上げた。
「志音がお前に向ける視線、お前を満たしてくれてるような気がしたんだけどなぁ」
「……でも……私は……彼を満たせてない……」
眉根を寄せたアミカナは目を閉じた。
シオンはうすら笑いを浮かべた。
「お前が満たされてるなら、あいつも満たされてるさ」
シオンの言葉に、ハッとしてアミカナは彼を見た。シオンは不器用にウインクした。
「そういうヤツだろ?」
そう言うと、視線を逸らしたシオンは呟いた。
「甘えとけばいいんだよ……」
「……シオン……」
表情が崩れそうになるアミカナに気付いて、シオンは珊瑚を彼女の鼻先に突き付けた。
「おっと、俺に惚れるなよ。俺は、アレできねぇ女に興味はねぇ」
アミカナは唇を噛み締めると顔を逸らした。
「……黙れ、ポンコツ……」
シオンは笑った。立ち上がって辺りを見渡す。台の周りは、濁流が渦を巻き続けていた。同じような島はどこにもない。彼は後頭部を掻いた。
「……さぁて、こっからどうするか……」




