鍵
その日の午後は、体育の授業があった。ジャージ姿の生徒たちは一心不乱にサッカーボールを追いかけ回し、校庭で無邪気に楽しんでいる。
「へい、パス!」
「俺が決める!」
「うわ、ディエンス硬ぇ!」
どんな寒空の下であっても、動き回っていれば汗をかく。当然、ジャージを着こんでいる彼らの体は蒸れていく。そんな生理現象に目をつけたのは、蒼木由依だ。
やがてホイッスルの音が鳴り響き、第一試合が終わった。他の生徒たちが水分補給をする傍らで、彼女はジャージを脱ぐ。
「あっつー……とりあえず、体育倉庫に置いとこ」
一見、その行動は極めて自然なものだった。その場にいる誰も、彼女の真意を勘ぐりはしない。由依は体育倉庫に駆け込み、その隅にジャージを置いた。
――のちに、この行動は絵里をいじめるための布石となる。
その日の放課後、制服姿の由依は職員室を訪ねた。
「すみません、先生。ちょっと良いですか?」
「お、どうした? 由依」
「体育倉庫にジャージを忘れたので、鍵を貸してください」
そう――彼女がジャージを脱いだのは、体育倉庫の鍵を手に入れるためだったのだ。そんな事情を知らない担任教師は、何も疑わない。何故なら、体育倉庫にジャージを忘れることは、決して怪しいことではないからだ。
「はい、鍵」
教師は、気安く鍵を差し出した。それを受け取った由依は、軽く会釈しながら礼を言う。
「ありがとうございます」
さっそく職員室を出た彼女は、急いで階段を駆け下りていく。それから靴を履き替え、昇降口を出た彼女は、体育倉庫へと突き進む。そして戸を開き、彼女は無事にジャージを回収した。
「……これでよし」
そう呟いた由依は、体育倉庫を出てから施錠する。しかしどういうわけか、彼女は職員室には戻らない。渡された鍵を懐に仕舞ったまま、彼女は校門を出たのだった。
帰り道にて、由依は鍵屋を訪ねた。
「いらっしゃいませ。靴の修理ですか? 鍵の複製ですか?」
そう訊ねた店員は、まるで裏を疑ってなどいなかった。由依は体育倉庫の鍵を取り出し、こう注文する。
「合鍵を作ってください」
「千円になりますが、よろしいですか」
「はい、お願いします」
何やら、彼女が鍵を持ち帰ったことも故意だったようだ。何も知らない店員は、一切の迷いもなく鍵を複製し始める。キーマシンは火花を散らし、あっという間に合鍵が完成する。
「これで使えるようになるとは思いますが、万が一使えなかったら、レシートと合鍵を持ってもう一度ここに来てください」
「ありがとうございます」
合鍵を受け取った由依は、財布から一枚の千円札を取り出した。それを店員に手渡したのち、彼女は鍵屋を後にする。当然ながら、校内の誰も、彼女が体育倉庫の鍵を複製した事実を知らない。
翌朝、由依は本鍵を持って職員室を訪ねた。
「すみません、先生。昨日、鍵を返し忘れました」
「ははは。ジャージを忘れたり、返却を忘れたり、君も意外とおっちょこちょいなんだな」
「か……返す言葉もありません」
今のところ、演技は完璧だ。彼女の懐には合鍵があるものの、その事実が暴かれる可能性は極めて低いだろう。次に、由依は教室へと足を運ぶ。そして教室に着いた後、彼女は絵里に声をかける。
「やぁ、絵里。二人きりでゆっくり話したいことがあるんだ。放課後、体育倉庫の前で待ってるよ」
「……あーし、あんたのこと嫌いなんだけど」
「それでも、大事な話だから、ちゃんと来て。これは、君のためでもあることだから」
無論、絵里が合鍵の件を知らないことは、言うまでもないだろう。
「わかった。放課後、体育倉庫の前ね」
こともあろうに、絵里は話を了承してしまった。
――この日の放課後、絵里はかつてない地獄を味わうこととなる。




