第4話 覚えてますよ
オフィスには定時を告げるチャイムなど鳴らない。
大抵は誰かの「お先に失礼します」という声か、PCの右下に表示されるデジタル時計の数字で、一日の終わりを知る。
けれど今日に限っては、目の前の画面にポップアップしたチャットが、誰の声よりも正確に定時を告げてきた。
『直人君、定時だよ。1階ロビーで合流して一緒に帰ろう』
『了解しました』
返信を送り、作業を切り上げる。
タスクリストに今日の進行状況を簡単にメモして、手慣れた動作でPCのシャットダウンボタンを押した。
部長も高見係長もまだ戻ってきていない。
報告する相手もいないオフィスに「お疲れ様です」と誰ともなしに小さくつぶやき、リュックを肩にかけ部屋を出た。
4階から階段を軽快に駆け下り、広々とした1階のロビーへ向かう。
薄暗いエントランスでエレベーターの方をじっと見つめているスーツ姿の背中を見つけた。
少しだけ歩幅を狭め、ゆっくりと近づいて声をかける。
「美里さん」
「ひゃっ……!?」
美里さんは想像以上に驚いたようで、肩をビクッと震わせてこちらを振り返った。
「ごめんなさい。そんなに驚くと思わなくて……」
「……もう、心臓止まったからね」
「止まっていませんって、生きていますから。ほんとに、ごめんなさい」
美里さんが口をとがらせて、睨んでくる。
「行きましょうか。美里さん、同じ電車ですよね?」
「直人君の一つ先だよ」
外に出るとオレたちと同じようにオフィスを出てきた人たちが、川を流れる水のように駅に向かっていた。
美里さんは流されないように、オレの横に体が触れ合う近さで並んだ。
人の流れに逆らわないように歩いていると、美里さんが見上げて、雑踏にかき消されない程度の声で囁いてきた。
「前から聞きたかったんだけど。直人君って、わたしのこと覚えていないかな? 会社に入る前にも会っているんだけど」
不安げな顔で、答えを待つように見つめられる。
「……覚えてますよ。というか、オレのほうがとっくに忘れられていると思っていました」
「えっ……本当に!? うそ、覚えてたの……?」
美里さんが急に立ち止まるものだから、後ろを歩く人にぶつかりそうになる。
彼女の後ろに回り込み、肩を抱くようにして歩道の端へ引き寄せた。
「急に立ち止まると危ないですよ」
「びっくりしちゃって、ごめん」
路地の方へ移動して、向かい合ったところで話の続きを始めた。
「高校に入ってすぐの、4月の中ごろでしたよね。満員の通学電車の中で、同じ高校の青いネクタイをした先輩が、今にも泣きそうな顔で俯いて」
美里さんが目を見開く。
「その後ろに、妙に周囲をキョロキョロ見回しながら、不自然に距離を詰めてるサラリーマンがいた。不審な感じがして、乗客の隙間をすり抜けたんです」
話しているといつの間にか、スーツの袖をつままれていた。
「男を押しのけるように、強引に間に割り込みました。それで、捕まえて連れて行こうかって聞いたら、首を振られました」
「直人君は『オレ、ずっとここで守るから。もう大丈夫だから』って言ったの。離れてほしくなかったし、怖かったから首を振ったんだよ」
つままれていた袖が強く引かれる。
「電車を降りた後に、会釈してくれた一瞬しか顔を見せてくれませんでしたけどね」
「恥ずかしかったのよ……」
お互いに無言で立ち尽くしていると、美里さんのスマートフォンが振動した。
目線を送って、スマートフォンに出るように促す。
「……直人君も一緒なんだけど。……うん、わかった」
スマートフォンに返事をする声に、オレの名前が漏れ聞こえてきた。
スマートフォンの通話を切った美里さんはオレの袖を引いて、路地から出ると無言で駅の方へ歩き出した。
仕方なくというか、一緒に帰る予定だったので、引かれるままについていく。
「何の電話だったんですか。オレの名前、言っていましたよね?」
「綾乃が暇だから遊びにおいでって。早く行こ」
「えーと、あの……お店が暇ってことですか?」
「月曜は定休だから」
改札で名残惜しそうに袖を離した美里さんと並んで歩きながら、高校時代のことをぼんやりと思い出す。
美里さんが先輩で、テニス部だったって知ったのはその日の放課後だったな。
部活の移動でテニスコートを通り過ぎるときに見つけたんだっけ。
あの頃はまだ、平気で走れていたんだな。
電車の中で美里さんは、話しかけようとしてはうつむくのを繰り返していた。
オレもかける言葉が見つけられず、ただ見ているしかできなかった。
綾乃さんの店は照明が消えていて、見上げると2階の窓から明かりが漏れていた。
美里さんに促されて裏手に回ると勝手口があり、インターホンを鳴らすとしばらくして、ドアが開けられた。
「金曜日ぶりだね、直人君!」
「はい、ども。お邪魔します」
「上がって、上がって。美里は帰ってもいいよ~」
「綾乃の意地悪!」
じゃれ合いながら階段を上がっていく二人の後ろに、付いていく。
まだ月曜なのに、イベント多いな。




