互いの想い
正式に立場が決まる前……?
ギムナ侯爵夫人が言った意味が分からずにミルフィが首を傾げた時、軽いノックの音が響き、戸口の傍に控えていた侍女が扉を開けて対応した。
外にいる相手と一言二言、言葉を交わした後、すぐに侯爵夫人の方にやってくる。
耳元で何かを囁かれた侯爵夫人は満足そうに小さく頷いた。
「ようやく来られたのね」
微苦笑を浮かべた侯爵夫人がミルフィの方に向き直る。
「客人が来られたみたい。こちらに通すけれど構わなくて?」
「私は構いませんが、お邪魔なのでは?」とミルフィは慌てた。
「よろしければ私はこれで失礼致しますが」
腰を浮かせようとしたミルフィをギムナ侯爵夫人は手で制した。
「駄目よ。ここにいて頂戴。貴女と関係のある方だから」
ミルフィは戸惑ったようにギムナ侯爵夫人を見上げた。
自分の知り合いに、この侯爵家を訪れるような高位貴族はいない。
一体誰が来られたのだろうとミルフィが落ち着きなく視線を彷徨わせていると、ややあって扉が開かれ、侍女に先導される形で一人の青年が部屋に入ってきた。
「え」
ミルフィは凍り付いたようにその場に固まった。
何だか都合のいい夢を見ているようで、目にしている事が信じられない。
「殿下……?」
自分の声が頼りなく揺れる。
そこにいたのはレオーネだった。
白い絹のシャツに刺繍襟のついた濃紺のジャケットだけを羽織り、まるで居殿からこっそりと抜け出してきたような装いだった。
レオーネはミルフィだけを見つめてゆっくりとこちらに歩み寄って来る。
時間が止まったようにぼうっとレオーネを見つめていたミルフィは、レオーネが部屋の中ほどまで来た時にようやく自分の立場を思い出し、弾かれたように立ち上がった。
そして慌てて臣下としての礼を取る。
そんなミルフィに、レオーネは静かに言葉を掛けてきた。
「レディ・ミルルフィーヌ」
甘く心をくすぐるような親愛の響きに、ミルフィはおそるおそる顔を上げる。
目を上げると、吸い込まれるような美しい緑の双眸が真っ直ぐにミルフィを捉えていて、ミルフィは喘ぐように肩を揺らした。
「どうしてこちらに?」
囁くように問い掛けると、レオーネは柔らかく微笑んだ。
「君とどうしても話がしたくて。
ただ、私が王宮に君を呼べば、変に人目を引いてしまう。だから伯母上に君を呼んでもらうようお願いしたんだ」
ミルフィは驚いてギムナ侯爵夫人を見た。
侯爵夫人はそんなミルフィを楽しそうに見やり、続いてレオーネへと視線を移した。
その口元にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。
「滅多に頼って下さらない殿下がようやく頼み事をなさったと思ったら、まさか女性との逢瀬を手伝って欲しいと言ってこられるとは思いもしませんでしたわ」
女性との逢瀬だなんて……。
ミルフィは思わず頬を赤らめた。
改めて言葉にされると何だかものすごく気恥ずかしい。
ミルフィはどうしていいかわからなくなり、うろうろと視線を彷徨わせた。
「初々しい事。
どうぞお二人でゆっくりお話を……と言いたいところですけれど、さすがにご令嬢を未婚男性と二人きりにする訳には参りませんわ。
部屋の隅に控えておりますので、私の事はソファーくらいに思って下さいね」
侯爵夫人の軽口に、「ソファーなどと……」とレオーネが小さく笑った。
義伯母と甥の関係だが、どうやら二人はかなり親しい間柄であるようだ。
その後、侯爵夫人に礼を述べたレオーネは、改めてミルフィの方に向き直った。
「ずっと君と話がしたかったんだ。
仮面舞踏会では二人でたくさん話をしたね。あの時の事を覚えているかな」
「勿論です、殿下」
しゅわしゅわと心がくすぐったくて、どうしていいかわからない。
ミルフィは浮き立つ心を留めようと、胸の前でぎゅっと両手を握り合わせた。
「とても楽しいひと時でした。忘れる筈がありません」
「ならば良かった。
あまりに君と話し込んでいたものだから、あの時は君の兄君に睨まれた。
邪魔するようなら身分を明かそうと思ったんだが、幸いにも割って入られる事はなかったが」
「私が話をしている相手が殿下であると、兄も途中で気付いたようですわ」
「だから邪魔しなかったのか」
レオーネは納得したように頷き、「君は?」と少し真剣な表情で尋ねてきた。
「君はあの時の仮面の相手が私だと気付いていた?」
ミルフィは答えるのを僅かに迷った。
仮面をつけた相手がレオーネであるとわかったのは、ミルフィが猫のミリィとして一緒の居殿で暮らしていたからだ。
そうでなければ、わかる筈がない。
レオーネとはデビュタントボールでダンスの相手をしていただいた事があるだけで、それ以外の関りはなかったからだ。
ミルフィがミリィである事を隠すなら、「気付いていませんでした」と答えるのが正解だろう。
けれどミルフィは、嘘をつきたくなかった。
だから正直に答えた。
「気付いておりました。
顔のほとんどを覆う形のマスクをしていらっしゃいましたが、目の形と唇に見覚えがありました。それにお声を聞いた時に、殿下であると確信しました」
「私だと知って話をしてくれたんだ」
レオーネは顔に喜色を浮かべた。
無防備で邪気のないその笑顔に、ついミルフィの口も軽くなる。
「殿下はどうだったのでしょうか?
武闘大会で言葉を掛けて下さった時、仮面舞踏会で会った私がタウジ伯爵令嬢だと紹介されても、驚かれた風はありませんでした。
その事がずっと気にかかっていたのです。
まさか仮面舞踏会で声を掛けて下さった時、私がタウジ家のミルルフィーヌだと知っておられたなどという事は……」
そこまで口にして、あり得ないわとミルフィは小さく首を振った。
「突拍子もない事を申し上げました。どうぞお忘れになって下さい」
そう言って頭を下げたミルフィに、
「いや、知っていた」
何でもない事のようにレオーネが答えた。
「私は昔から人の顔を覚えるのが得意なんだ。
デビュタントの相手をした君の顔は朧気だが記憶の端に残っていたし、君があの舞踏会に来る事も聞いていた」
「聞いていた? え。どなたから……?」
「私にその情報を教えてくれたのは兄上だ。
護衛騎士の一人が、うっかり兄上の前で口を滑らせたようでね」
兄様が喋っちゃったんだ……とミルフィは脱力した。
舞踏会でミルフィがずっと殿下と喋っていた事について兄は至極不満そうだったが、そもそもの原因を作ったのは兄自身であったという訳だ。
「あの日のイザークは髪型を変え、付け髭をつけていたが、あのくらいの変装で私の目はごまかせない。
そのイザークにエスコートされている君を見て、見つけたと思ったんだ」
「その言い方では、まるで私の事を探していたようにも聞こえますが」
困ったような笑みを浮かべたミルフィに、「ああ」とレオーネは肯定する。
「あの日は、君に会うためだけに仮面舞踏会に足を運んだ」
「私に?」
思わぬ言葉にミルフィの胸がとくんと跳ね上がった。
ミルフィは震える手で喉の辺りを軽く押さえた。
喉が張り付いてしまったように声が出ず、小さく咳払いする。
「デビュタントで私のダンスのお相手をしてくださったのは殿下ですが、お会いしたのはその一度きりであった筈です。
殿下は何故、私に会いたいと思われたのですか?」
レオーネがそれまで浮かべていた柔らかな笑みを消し、真っ直ぐにミルフィの目を見つめてきた。
「君が私のミリィだから」
その瞬間、ミルフィの周囲の世界が時を止めた気がした。
ミルフィは感情を抑えるようにゆっくりと瞳を伏せ、それから再びレオーネを見上げた。
「気付いて……いらしたのですね」
「うん」と、子どものようにレオーネは言った。
「猫のミリィがタウジ伯爵夫妻の胸に飛び込んでいく様子を見て、ようやく気が付いた」
そして柔らかな吐息を零し、気付こうと思えばいくらでもヒントは与えられていたのにな……と呟くように言葉を続けた。
「タウジ家の飼い猫の名前はヴェルだと教えられたし、君のセカンドネームはヴェルシェだった。
それにミリィは時々、私の言葉がわかるような言動をとっていた。
私が揶揄えば腹を立てたし、落ち込んでいる時は体を寄せて慰めようとしてくれた。
小さな動物に好かれたのは初めてだったから、猫はこんなものだと思い込んでしまったけれど、今思えばおかしいと感じる点はいくらでもあったんだ」
「……ミリィがただの猫ではなく、獣人だったと知って、嫌な気分にはなりませんでしたか?」
おそるおそるミルフィが尋ねると、レオーネは自分の感情を探ろうとするように瞳を細めた。
「そうだね。
最初は勿論、動揺した。ただ、ミリィがどういう存在であろうと、私の大切なミリィに変わりはないと素直に思えた。
私はミリィの温もりに癒され、長年の鬱屈や孤独から解放された。共に過ごした時間は、それほど私にとってかけがえのないものだったんだ」
「そうだったのですね……」
「あれから一度、ミリィとして会いに来てくれたね。
何も気付いていない振りをして君をわざと揶揄い、拗ねる君のご機嫌をとった。
とても楽しい時間だったよ」
あの時はもうすべてを知っていらしたのねと、ミルフィは顔が赤くなるのを感じた。
きっとご存じないと思ったから、思い切り拗ねて甘えてしまった。
「帰る時間が近付いて、見送る時はとても寂しかった。
兄上にその事を愚痴っていたら、君が誰かと婚約したらミリィと会う事もなくなるだろうと言われてね。
あの時はどうしようもなく焦った。ミリィが私の世界から完全にいなくなるなんて、考えた事もなかったから。
このまま君との縁が切れてしまったらどうしようと思っていたら、兄がとっておきの情報を流してくれた。
だから君に会うために歌劇場を訪れた。
人型になった君とどうしても話がしてみたかったから」
そう言ってレオーネは染み入るような優しい笑みを浮かべた。




