侯爵夫人との会話
「殿下は何も知らずに私を連れ帰り、猫のミリィとして可愛がって下さいました。
今も多分、私の正体はご存じないのではないかと……」
武闘大会の日、レオーネから声を掛けられたミルフィはどうにも気になって、殿下は私がミリィであるとご存じなのかしらと兄に聞いてみたのだ。
すると兄は困ったような顔で黙り込み、どうだろうなと溜め息をついた。
そして、殿下はあの通り女性潔癖症でいらっしゃる。だから王太子殿下の口からは伝えていない筈だと言われた。
もし殿下が、可愛がっていたミリィが人間の女性であったと知ってしまったら、一緒に過ごした優しい思い出までが不快なものに変わってしまうのかしら……。
そう思うと、ミルフィは何だか泣きたくなってしまった。
猫のミリィではなく、タウジ家のミルルフィーヌとしてレオーネの眼差しを受けたいと願っているのに、共に過ごしたあの濃密な時間を否定されるのもまた嫌なのだ。
どこまでも欲張りな自分の心を持て余し、ミルフィはギムナ侯爵夫人に気付かれぬよう、小さな吐息を呑み込んだ。
「殿下が気付いておられるかどうかは別として、伯爵令嬢である貴女の事が気になっているのは確かでしょうね」
ギムナ侯爵夫人は淡々とそう言い、シュガーポットから花の形をした砂糖を一つ取り出してカップへ落とした。
スプーンで軽くかき混ぜた後、カップの向こう側にそれを寝かせる。そして優美な手つきでカップを持ち上げ、最初のひと口を味わった。
「武闘大会では、わざわざ観客席の方まで行って貴女に声を掛けたと聞くわ。
勿論、他の出場者やその家族にもその後に声を掛けていたから、それを不自然に思った貴族はいなかったようだけれど。
ただ、マリアーナ公妃が貴女を殿下の桟敷席まで連れて行ったのはいただけないわね。
桟敷席まで挨拶に伺えるのは同じ王族か相応の高位貴族だと決まっているし、劇場で思わぬ注目を集めてしまったみたい」
「公妃殿下のお誘いをお受けしたのは軽率でした。お断りすべきだったと反省しております」
深く頭を下げたミルフィに、
「王族に誘われて、それを断るのは難しいでしょう」
ギムナ侯爵夫人は柔らかな声でそう応じた。
「責められるべきはマリアーナ公妃の方だわ。それと、レオーネ殿下かしら。
ドルジ伯爵令嬢を連れたレミリア公妃の前でわざわざ貴女個人に声を掛けただなんて、あまりに軽率よ。それを知った時はあり得ないと思ったわ。
まあ殿下もお若いから、ついなさってしまったのでしょうけれど」
仕方のない子ねと言いたげな口調からは、義甥に対する親愛と慈しみが透けて見える。
それが微笑ましくて、ミルフィは我知らず口元を綻ばせた。
ギムナ侯爵夫人は再びカップを手に取り、ゆっくりと紅茶を味わった。
「あの後、レミリア公妃が貴女を廊下で呼び止め、探りを入れてこられたと聞いているわ。
困った事ね。今はまだ、目立っていい時期ではないというのに」
王妃様の義姉に当たる侯爵夫人の耳に入るほどの大事になってしまったのかと、さすがにミルフィは青ざめた。
あの時のレミリア公妃のきつい語調と、自分を睨み付けてきたドルジ伯爵令嬢の冥い眼差しが思い出され、ミルフィは我知らず膝の上に置いた拳をぎゅっと握りしめた。
他所事に気を取られ、つい忘れてしまっていたが、あの一件で自分がレミリア公妃の不興を買った事は間違いがない。
ならば今後どういう対応を取ればいいのか、冷静に考えていく必要があった。
「あの……劇場の廊下での出来事は、一体どなたからお聞きになったのでしょうか」
ふとその事が気になったミルフィは、侯爵夫人に直接尋ねてみた。
桟敷室を出たところの廊下には、レミリア公妃一行と自分達以外の人間はいなかった。
けれどギムナ侯爵夫人は、レミリア公妃がミルフィに何を言ってきたかまで知っているようだった。
誰かがあの一件をギムナ侯爵夫人の耳に入れたのだ。
「この情報をくれたのはマリアーナ公妃よ」
ギムナ侯爵夫人はあっさりと種明かしをした。
「正確に言えば、マリアーナ公妃付きのジュストウエル伯爵夫人が、ご自分の妹を通じて王妃様のお耳に運んだの」
「公妃殿下が何故わざわざそんな事を……?」
「多分王妃様に恩を売りたかったのでしょうね」と侯爵夫人は小さく笑った。
「レオーネ殿下が猫のミリィを大切に思っている事を王妃様はご存じだわ。
そのミリィ、タウジ伯爵令嬢がレミリア公妃に目をつけられてしまった事を、一刻も早く伝えるべきだと思われたのでしょう。
実際に王妃様は、情報の提供についてマリアーナ公妃に感謝を示されたとか。
今後、何らかの形で借りを返されるようになる筈よ」
そしてギムナ侯爵夫人はやや苦い笑みを唇に浮かべた。
「マリアーナ公妃は私が思っていた以上に頭が切れる方みたい。
妖艶な美貌とおっとりとした語り口調に、今まですっかり騙されていたわ」
ギムナ侯爵夫人の言葉に、ミルフィは兄もまた同じような事を言っていたと思い出した。
はっきりと言葉にはしなかったが、抜け目のないお方だと妃殿下を警戒していたような気がする。
「でも今、気にかけるべきは、マリアーナ公妃ではなくてレミリア公妃の方ね」
ギムナ侯爵夫人はテーブルに落としていた視線を上げ、真っ直ぐにミルフィを見つめてきた。
「レミリア公妃は、何が何でも姪のドルジ伯爵令嬢をレオーネ殿下の妃にしようとしているの。
今まで殿下の周囲に女性の影がなかったから安心していたようだけれど、殿下に憎からず思う女性が現れたと知った今、このまま黙っているとは思えないわ」
「あの、私はお言葉をいただいただけです。それ以外は何も……」
ギムナ侯爵夫人の言い様では、まるでミルフィは殿下の想い人であるかのようだ。
実際にはそのような関係ではないし、それらしい言葉を掛けられた事もない。
武闘大会や桟敷席で言葉を交わしたのは事実だが、それだけで殿下から好意を抱かれていると思うほど、ミルフィは自分に自信が持てなかった。
「今まで女性に見向きもしなかったあの子が、わざわざ自分から令嬢に声を掛けたのよ。
憎からず思っているという以外に説明がつかないわ」
困惑しているミルフィに侯爵夫人は優しく微笑み掛け、それからややその眼差しを厳しくした。
「貴女はよくわかっていないようだけれど、レミリア公妃はかなり苛立っておられる筈よ。
あの方は昔から気位だけは人一倍高く、とても傲慢な性格をしておられるの。厄介な方だと言わざるを得ないわ。
姪のドルジ伯爵令嬢についても、傍目から見れば可愛がっているように見えるけれど、私にはそうは思えない。
亡くなった妹君とは不仲であられたし、その妹の忘れ形見を可愛がるだなんてあり得ないもの。
多分、役に立つ駒の一つとして見ておられるのじゃないかしら」
もし、実姪であるレイチェルが第二王子妃となれば、宮廷内に置けるレミリア公妃の発言は重みを増す。
レイチェル自身も王子妃となる事を渇望していて、両者の利害が一致した上で蜜月の関係にあると、ギムナ侯爵夫人は確信しているようだった。
「話は少し遡るけれど、ミゼル王太子の妃選びをする時、レミリア公妃も一人のご令嬢を推挙したの。それについてお父君から聞いた事はある?」
「はい。シャルトーレ公家とレジナルド公家、それに王妹殿下が嫁がれたプロヴァンヌ侯爵家がそれぞれ妃候補を推挙したと耳にしました」
「あの時も、水面下で色々な駆け引きがあったの。何と言ってもミゼル王太子の妃は次代の王妃ですものね。
色々な利権が絡み合ってなかなか決まらなかったのだけれど、結局王太子は今のシャーロット妃に一目惚れして、そうした思惑を全部ぶち壊しにしたわ。
王太子殿下は愛情と情熱が勝ったんだと周囲には笑っておっしゃっていたけれど、実際はそうじゃないわ。無害そうな笑顔の下で色々暗躍されたみたい。
結婚に反対する貴族達を一人一人、政治的に排斥していったと聞いているわ」
ギムナ侯爵夫人は喉の奥で小さく笑った。
「ミゼル王太子の時は思うようにいかなかったから、レミリア公妃は今度こそ自分の手の者を王族妃に据えたいの。
レイチェル嬢はレオーネ殿下と年回りも合うし、ドルジ伯爵家は歴史ある名門家だから、王子妃の生家としては申し分ない。だから大切にしているのでしょう。
もしもレイチェル嬢が公妃の言葉に逆らったり、利用価値がなくなったりしたとすれば、簡単に切り捨てる筈よ」
「まさか、そんな……」
「血縁だから無条件に愛情を注ぐなんて、レミリア公妃に限ってはあり得ない話なの。
公妃の次男は人族に生まれついたのだけれど、生まれてすぐに領地に追いやられたそうよ。ほとんど顔を見る事もなかったと聞くわ。
お腹を痛めた我が子にどうしてそこまで冷酷になれるのか私には理解できないけれど、人の価値基準はそれぞれだから仕方ないわね。
結局、公妃にとっては獣人男児に生まれついたブルーノ公子だけが大切なのでしょう」
「レミリア公妃がブルーノ公子を大事にしておられる話は私も聞き及んでおります」
ミルフィは控えめに言葉を挟んだ。
と言うか、お二人の密着度が半端ない事は、ミルフィも折に触れて耳にしていた。
一言で言えば、ブルーノ公子はマザコンである。
不敬になるので正面切ってそう言った者はいないが、それ以外に表現しようがなかった。
それさえなかったら、もう少しモテておられたのかも……とミルフィは心の中で呟いた。
年は二十代半ばで、容姿は父のシャルトーレ公よりも叔父のレジナルド公に似ている。
噂では祖父君に生き写しだと聞いているから、おそらくそうなのだろう。
まあ、ちょっとばかり胴回りが太く、髪の毛が後退しかかっている事実は否定できないのだが。
ミルフィの従姉妹はミルフィと同じ年に社交デビューを果たしたが、その時のダンスのお相手がブルーノ公子で、とても素敵な時間を過ごせたと頬を染めていた。
威厳に満ち溢れ、世慣れた様子で完璧なエスコートしてもらえ、まるで夢のような時間であったらしい。
デビュタントのダンスでレオーネ王子に塩対応されたミルフィはいいなぁと散々羨んだものだが、王子の居殿で実際にブルーノ公子と接した今は別の感想を抱いている。
確かにブルーノ公子は人当たりが良くて、そつがない。
けれど、どう言えばいいのだろう。笑みがどうにも薄っぺらく、嘘くさいのだ。眼差しには傲慢さが透けていて、一言で言えば虫が好かない。
勿論、王族に対してそんな感想を持つなど不敬極まりないから、ミルフィは決して正直な感想を口にしなかった。
迂闊に喋って誰かに聞かれでもしたら、ミルフィの首が飛ぶからだ。




