マリアーナ公妃の内緒話
「愛人となった女性は、ダイシ子爵の長女だと聞いているわ。
生家がかなり困窮していて、家への支援と引き換えにレジナルド公の愛人となったの。
三年が過ぎても懐妊の兆しがなくて、その事に苛立ちを感じ始めたレジナルド公が愛人契約の解消を匂わせ始めた矢先に妊娠がわかったと聞くわ。
お陰で生家への支援も継続されるようになったのだとか。
話ができ過ぎていると思わない?」
ミルフィは息をするのも忘れ、呆けたようにマリアーナ公妃を見上げるしかできなかった。
今、言葉にされた事が頭の中でうまく整理できない。
噂によると、レジナルド公の女性関係はかなり乱れていると聞いている。
けれどマリアーナ公妃の言葉によると、今までに生まれた庶子はたった二人。そのうちの一人は庭師の子であったというのなら、例の愛人が子をなすまで誰も孕む事がなかったのはあきらかに不自然だ。
愛人となった女性にとっては、子を孕めるか否かは死活問題だった。
今更家に帰されてもまともな結婚は望めないし、支援を打ち切られれば生家は再び困窮する。
追い詰められた愛人女性が、公と容姿の似通った獣人の貴族をこっそりと閨に引き込んで子を孕もうとしてもおかしくはなかった。
「実はね、つい先日、そのダイシ子爵がこっそりと私を訪ねてきたのよ」
マリアーナ妃は怠惰な笑みを唇に刻んだ。
「娘には公妃のお立場を脅かす気など毛頭ない。ドルーソン侯爵家を敵に回すつもりもないので、離縁などどうぞお考えにならないでいただきたいとね」
「みょみょう!(そんな事を頼みに来たのですか)」
「何か後ろめたい事を隠している人間の目だったわ」
マリアーナ公妃はどうでもいいような口調でそう言った。
「だから言って差し上げたの。
ご令嬢にはレジナルド公のお血を引く獣人の男の子がいるのだから、正式な立場を望まれたら如何かしらと、と。
ダイシ子爵は面白いほど青ざめたわ。
その時に確信したの。生まれた子はレジナルド公のお子ではないと」
ミルフィはごくりと唾を飲み込んだ。
「支援を受け続けるために別の男の種をもらったはいいけれど、もし正妃にされてしまったら、その子はレジナルド公家の跡取りとなる可能性が高いわ。
正式な婚姻前に生まれた子どもだから立場は微妙だけれど、かつてハリー王は、男児をもうけていた側妃を三番目の王妃に据えて、その子も王族の一員にしている。
先例は大きな意味を持つから、おそらく同じ事がまかり通るでしょう」
もしマリアーナ公妃の推測通りなら、愛人女性とその生家は今頃生きた心地もしないだろうとミルフィは思った。
支援を繋ぐためにレジナルド公の種を偽っただけなら大した罪にはならない。
どうせ何の権利も有しない子どもだし、ダイシ子爵の縁者としてひっそりと生きていけばいいだけの話であるからだ。
けれど母親が正妃になってしまえば、話は全く変わってくる。
レジナルド公の嫡男として正式に認められれば、その子には王位継承権が発生してしまうのだ。
「もし王家の血筋でもない子どもを王家の系譜に入れた事がばれれば、無事では済まないわ。
その女性は国家反逆罪に問われ、一族諸共処刑されるでしょうね」
ぬるくなった紅茶を、マリアーナ妃はゆっくりと口に含んだ。
「だからと言って、私に婚姻継続を望んでくるなんてあり得ない話だわ。
私はずっと前からレジナルド公との離婚を望んでいたのですもの。
レジナルド公はすっかり忘れておいでのようだけれど、レドルス法の復活を思いつかれたのはそもそもご自身ではないのだし」
「公妃様!」
傍に控えていたアンが鋭い声を上げ、マリアーナ公妃は持っていたティーカップを静かにソーサーに戻した。
「いいのよ、アン。タウジ伯爵令嬢は私が離縁を望んでいる事をすでに知っているわ」
それは知っていた。けれど、レドルス法の復活をレジナルド公が思いつかれたのではないというのは初耳だ。
どういう事なのだろうとミルフィは瞳を彷徨わせた。
勿論、リベラル派や革新派の貴族がレジナルド公に接触し、旗頭になるようにと唆した可能性はある。
けれどアンの反応を見ると、公妃自身が別の人間を介してその考えを吹き込んだという可能性が高いような気がした。
そこまで考えた時、ミルフィはレジナルド公がレドルス法の復活を提議したそもそもの前提を思い出して、ぞっと身を強張らせた。
この提言は、王家に男系男児が生まれず、臣民がその先行きを案じたというところから始まっている。
つまりマリアーナ公妃にとっては、王太子妃が懐妊しないという状況が好ましかった。
シャーロット妃に毒を盛る動機を、マリアーナ公妃もまた有していたという事だ。
けれどミルフィには、この方が毒を盛る筈がないという思いの方が強かった。
マリアーナ公妃は十八歳で結婚して以降、ずっと子に恵まれなかった。
妊娠できない事で周囲から散々心ない言葉を掛けられていたこの方が、同じような苦しみを別の女性に与えようとする筈がない。
マリアーナ公妃は夫が手を付けたメイドの行く末を案じ、手を差し伸べられた方だ。
これほどの慈愛を示される方が、あのような事をするとは思えなかった。
そんな考え事をしていたミルフィは、不意に体を抱き上げられて、「みゃあ」と小さな驚きの声を上げた。
「ふふっ。鳴き声までが愛らしいのね」
白くほっそりとした指が、ミルフィの喉を愛おしそうにくすぐる。
「私ももう三十三歳なの。
今ならばまだ子を望めるけれども、これ以上は待てないわ」
その声に滲む焦りが少し恐ろしかった。
大っぴらに浮気を繰り返され、マリアーナ公妃の自尊心はズタズタだ。その上、周囲からは石女とだと陰口を叩かれている。
穏やかに微笑んでおられるが、心はもう限界なのかもしれなかった。
「昨日、父とレジナルド公の間の話がついたわ」
ミルフィを抱いたまま、マリアーナ公妃が呟くように言った。
「一刻も早い離縁をお望むのはあの方も一緒よ。幸い……と言っていいかどうかはわからないけれど、王家の男系男児の数は減少して、レドルス法復活を望む貴族の声もいつになく高まっているわ。
このチャンスを逃せば、自分は一生跡取りを持つ事ができないかもしれないと焦っているの」
「みゅう」
「レジナルド公もようやく覚悟を付けたみたい。
自分が持っているフィードル伯爵位を私に渡し、土地も譲渡すると父に約束したわ。
相当渋ったみたいだけれど、それ以外では円満な離婚が難しいとわかったからでしょうね。
次の御前会議で、レジナルド公は私に対する手厚い賠償を示し、父がその誠意に感じ入って考えを翻すという流れになるでしょう」
あまりに様々な情報を与えられて、ミルフィは頭の中がいっぱいいっぱいになってしまった。
家に帰った後、取り敢えず知り得た事を全て両親に話したが、国の政治に直接関わりを持たないタウジ夫妻はその情報をどう生かしていいかがわからない。
王太子の側近となっているイザークにすべてを伝え、王太子のご判断を仰ごうという話になり、翌日ミルフィは以前と同じく兄への差し入れを持って王宮に参上した。
妹の訪問を知って詰所に顔を出したイザークは、耳に入れたい重要な話があると深刻な顔でミルフィに言われ、すぐに時間を取ってくれた。
王太子から御前を離れる許可をもらい、貸与されている居室にミルフィを迎え入れる。
部屋に通されたミルフィは、武闘大会が終わってからの僅か四日間に身に起きた出来事を、余す事なく兄のイザークに伝えた。
武闘大会の翌日にギムナ侯爵夫人から突然、お茶会の招待状をいただいた事。その翌々日に両親とマゼラン歌劇場を訪れたところ、偶然マリアーナ公妃と隣り合わせ、速攻で猫のミリィだと見破られてしまった事。その後、公妃に連れられてレオーネ王子がいる桟敷席に挨拶に行き、言葉を賜ったが、その事でシャルトーレ公妃の不興を買った上に、ドルジ伯爵令嬢からものすごい目で睨まれた事。
そして、昨日は昨日でマリアーナ公妃の邸宅に招かれ、猫に変態させられてもふられた事を怒涛の勢いで喋り通した。
「……お前、一体どんな状況になっているんだ」
ミルフィの話を一通り聞いたイザークは、頭が痛いと言わんばかりに眉間を指で揉んだ。
仮面舞踏会で正体を隠したレオーネ王子と交流を持ち、五日後の武闘大会でも言葉を賜った。
それだけでも面倒な事になったと思っていたのに、今は更に状況が複雑になっている。
「ようやく王宮から遠ざけたと思ったのに、ギムナ侯爵夫人の茶会に招かれ、マリアーナ公妃に正体を知られ、更にシャルトーレ公妃とドルジ伯爵令嬢に目をつけられただと?
もうどこから突っ込んでいいかわからん」
「私にも訳がわからないけれど、いつの間にかこうなっちゃったのよ」
ミルフィは兄に泣きついた。
「私の周りでいろんな事が一気に動き始めた感じで、どうしていいかわからないの。何でこんな風になっちゃったのかしら。
それよりも、お兄様に相談したい事があって……。昨日マリアーナ公妃からとんでもない事を暴露されちゃったの」
「何があった」
真剣な顔でイザークが聞いてきて、ミルフィはレジナルド公が手を出したメイドをマリアーナ公妃が保護した事や、レジナルド公が今の愛人に托卵をされている可能性が高い事、次回の御前会議でドルーソン侯爵がレジナルド公側につくであろう事などをすべて話した。
黙ってミルフィの言葉に耳を傾けていたイザークは、ややあって「托卵か……」と、呆れたようにそう呟いた
「とんでもない情報だな。マリアーナ公妃もよくも今まで黙っていたものだ」
「ドルーソン侯爵が法改正に賛同したら、御前会議の流れは変わりそうなの? 中立派の人達も考えを改めるという事かしら」
ミルフィがそう聞くと、
「どうかな。皆それぞれに事情を抱えているし、そう簡単なものではないと思うけれどね」
イザークはそんな風に答えをはぐらかした。
「それよりも、ミルフィはレドルス法の復活に賛成なんだね。どうしてそういう結論になったの?」と聞いてきた。
問われたミルフィは、どう説明すればよいか迷うように瞳を揺らした。
「ご夫君が手を出したメイドを妃殿下が保護されたと聞いて、本当にびっくりしたの。メイドに罪はないと頭ではわかっていても、心の折り合いをつけるのはさぞ苦しかっただろうと思って……。
その分、レジナルド公のなさりように腹が立ったわ。
浮気するだけでもひどいのに、子に恵まれないのは公妃さまのせいだってレジナルド公は社交界で触れ回ったのよ。
だから、この結婚生活から解放して差し上げられたらと思ったの。
レドルス法が復活すれば、妃殿下は別の縁を得て新しい方と結婚する事も可能になるわ。
勿論、その方との間にお子が生まれるとは限らないけれど、今の生活を続けられるよりもきっとお幸せであられる筈よ」




